« おそるべきキティ | トップページ | 若き日の師匠の勇姿(以上の衝撃?) »

これこそ日本国民が望んだ社会の帰結

  秋葉原通り魔事件でここ数日の報道は一色である。
 犯人の行為は決して許されるべきものではないが、かといって、加害者を一方的に責めれば済む問題ではないことも確かだ。決してそれではすまされない問題の根深さを、今回の事件は特にほのめかしているようにみえる。

 今朝のワイドショーで「(派遣の身分だった加藤智大容疑者より)悲惨な境遇にある人は何人もいるのに…」というキャスターのコメントを聞いたときには、怒りを覚えた。不安定就労者の苦悩に眼を向けることができない、外野の発言だ。
 
 今の日本は努力すれば―、痛みを我慢すれば誰でも報われる社会になっているのだろうか。
それとも、「自己責任」で満たされない境遇を甘んじて受け入れろとでも言いたいのだろうか。そんなものは、「勝ち組」の言い分でしかない。
 不平等な「競争」―学力だけでなく、個性・人格の面でも―で個人を煽る傾向は、現代の「貧困」「格差」をますます顕在化させつつある。学校教育がさらにそれを助長している。加藤の出身校(青森の進学校)の教師がインタビューにこたえていたが、教師によれば彼は「普通の高校生」だった。「普通」―、これもまた非常に暴力的な発言である。結局、学力テストの成績など特定の尺度でしか人間を評価しないから、このような人物評価しかできず、あるいは、キレると手を付けられなくなるといった、抑圧的な関心でしか人間を捉えられないのである。

 勤労貧困世帯や、非正規雇用の若者の割合が増加し、自己肯定感を得にくい閉塞的な状況下で、多くの国民が何らかの「怒り」を持っているのは当然のことである。問題はそれを個人的な問題として内面に溜め込み、圧倒的な無力感を膨張させ、結果として今回の事件のように暴発させてしまうことである。
 学校は「怒り」の正しい発揮の仕方を教えなければならない。職業の現場に関する問題状況を認識させ、「労働」への権利意識を自覚させるような職業教育(労働者学習)が必要だ。ほとんどの学校はそれをきちんとやってこなかった。それどころか、「心」や「モラル」の問題としてたえず、個人に問題を還元しようとしてきた。

 今回の事件は、その計画性からして「社会への復讐」という側面が強い(だから、加藤の口から謝罪の言葉が語られる可能性は低いだろう)。テロと捉えても過言ではない。そのような凶行に走る人間を培養した責任の一端は、まちがいなくコイズミに熱狂し、新自由主義の現状を受け入れた日本国民にある。そう捉えるなら、我々も間接的にこの犯行に関与しているのであって、(ニュースでよく見かける)絶対的な正義者として犯行を断罪するスタンスはとれない―。そればかりか、これこそ実は、我々が受け入れようとしている(厳罰化、監視だけでは到底防ぎようのない危険な)社会の姿なのだという、そういう意識で問題を捉えないと何の教訓も得られないだろう。

[リンク]
・日研総業株式会社「秋葉原の事件について」2008年6月10日
http://www.nikken-sogyo.co.jp/news/2008/pdf/news_080610.pdf

・関東自動車工業株式会社「6月8日秋葉原通り魔事件の報道について」2008年6月9日
http://www.kanto-aw.co.jp/jp/corporate/080609.pdf

・非正規雇用者比率の推移
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3250.html

|

« おそるべきキティ | トップページ | 若き日の師匠の勇姿(以上の衝撃?) »

ニュース」カテゴリの記事

コメント

少々文面の引用とリンク張っていですか

投稿: 雪風 | 2008/06/13 17:30

こんにちは。
リンクフリーです。
どうぞご自由に。

投稿: タカキ | 2008/06/13 18:03

感謝

投稿: 雪風 | 2008/06/13 19:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/69457/41497495

この記事へのトラックバック一覧です: これこそ日本国民が望んだ社会の帰結:

« おそるべきキティ | トップページ | 若き日の師匠の勇姿(以上の衝撃?) »