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仙台市教育研究所に就て

 「仙台市教育研究所に就て」という1937(昭和12)年に書かれた文章がある。その見事な筆致に感動したので、ここにその一部を紹介してみたい。なお、仙台市教育研究所は、仙台市長渋谷徳三郎(宮城師範出身で「教育市長」と称された)の意向に基づき、昭和11~16年(1936~41年)まで仙台市役所内に設置された教育研究機関である。初代所長は明石女子師範附小主事で名高い及川平治であった(この文章も及川が筆を執ったのだろうか)。

「京都には児童院、少年鑑別所があり、名古屋、神戸には児童研究所がある。最近横浜にも児童研究所を新設した。けれども仙台市の教育研究所は之等他市のものとは其組織事業内容を異にし教育全野に亘る総合的教育研究所で我が国唯一の教育研究所といつてよからう。市民は之に期待するところも多いと思ふから茲にその大体について紹介する。(中略)
 渋谷市長の談話
  (中略)
 教育は時代の大勢を達観し、我が国情の特異性に鑑み之を施すべきは勿論であるが、特に仙台市の実情に基かねばならぬ。社会郷土の実情を明かにするには厳密なる科学的調査を要する。若し斯る科学的調査を欠き空漠たる意見に因つて教育することがあるならば生活と教育とは緊密なる関係を保ち難く実際生活に役立つ人をつくり得ないであらう。国民教育はどこまでも「我が国、我が地方の実情が斯々だから斯々の方針を立てた」といふ様でなければならぬ。而して科学的調査は専門的技術に属するから教務繁多なる実際家に委ねるだけでは不十分である。勿論教師には教師当然の職務として研究すべき事項も多いだらうが社会生活が益々複雑となり其の関係するところいよいよ拡くなつた今日に於ては何事も根本的に調査研究して確呼たる基礎の上に教育案を樹立せねばならぬ。それがために研究機関を特設して其の技術に熟練せる人に之を委ねる必要がある。
  (中略)
二、教育研究所設置の必要(中略)
(1)社会が進歩すれば研究機関の必設を要する。
 社会は動態である。現今の社会は複雑多岐で其生活は時々刻々に変化してゐる。(中略)我が国の実際を見ても、政治、経済、社会生活の様式は絶へず変化しつつある、家族生活の組織様式などは著しく変つてアパート生活を営む人が次第に多くなつた、是に於て「家族生活の変化と教育の関係問題」が起る。農村民の思想は交通の便利とラヂオの影響によつて漸次都市化しつつある。是に於て「農村生活と教育との関係」問題が起る。宗教の権威信仰の動揺は新しい道徳を要求する。宗教上の信仰を以て新道徳を解釈する議論さへある。古来宗教と教育とは密接なる関係を有つてゐたのであるが今は新しい問題となつてゐる。交通機関の発達は驚くべき程で無線電話、飛行機の利用まで進んでゐる。随て思想の交通、物資の運搬、旅行の方法が一変した。是に於て「交通の発達と教育との関係問題」が起る。商業の経営も亦旧態を許さず、小工商業者はチエンストアを組織してデパートに対抗してゐる。其の他、金融機関、各種の組合、政治思想の発達は益々共同、自治、責任等の教育を要求するに至つた。斯る変化に伴うて教科課程(カリキユラム)を改造し教育方法を革新せねばならぬであらう。教科課程の改造についても伝統的学科によるか、教科目別を廃止して児童の興味を中心としたる社会様式、例へば郵便局、人形遊等を採用するかが問題となるであらう。兎角現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬが不幸にして我が国には科学的調査に基いて教育案を樹立した学者は一人もないから情けない。教育の全野に亘り、児童の心身発進、新カリキユラム構成、教育方法につき専門に研究する教育研究所は必要である。
 (2)外国では教育研究所を設けて良績を挙げてゐる。(中略)
 (3)教育研究所には専門家を要する。(中略)
 (4)義務教育の年限延長は教育研究所の活動を拡充する。(中略)」

〈註〉「仙台市教育研究所に就て」『宮城県教育百年史』第4巻、ぎょうせい、1977年所収(「仙台市教育会報」昭和12年号[昭和12.3.10発行])。

 その趣旨は、今の時代にも十分通じる。とりわけ、「現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という主張には、当時の社会状況を反映した切実さを感じる。言葉の端々は違えど、現代においてもまったく同じ枠組みの議論がなされていることに気づく。「IT化・情報化・グローバル化の進展のなか、情報教育やリテラシーといった能力を育てる教育課程を設計しなければならない」といった主張が、まさにそうだろう。
 当時の急激な社会変化(都市化、生活様式の変化)、対外的状況の深刻化(アジア・太平洋戦争)が、教育改造、とりわけ「カリキュラム改造」という新たな論点を浮上させたことがよく窺える。伝統的教科が有する所与の知識体系では対処できそうにない、新たな現代的課題にどう対処するか。今の我々が直面するような教育の難題に、当時の教育関係者も大いに頭を悩ませるなか、昭和戦前期の仙台市は「社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という一つの方向性を示したのである。このような歴史は、教育の「政治化」を目論む今の自治体行政関係者に、十分にかえりみてほしい(なお、当時のこのような問題意識は、「国防」といった課題とも結びついていたわけだが)。さらに、同論説では「科学的調査」を行う教育研究所には「専門家を要する」と続けている。教育の実際家=教師だけでは、教育研究は困難であるという主張である。

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それこそ犬山市から学ぶべきでは

■「『橋下知事は教育介入を』 府内市長から共感、賛同」、asahi.com、2008年9月17日。

 教育委員会への批判を強める大阪府の橋下徹知事は17日、府内の市長と会合を持ち、大阪の教育のあり方について意見を求めた。首長が介入できない教委制度そのものを疑問視する橋下知事に対し、各市長は「知事には教育に介入してほしい」「教委に指示できず隔靴掻痒(かっかそうよう)の思い」など、知事に共感する意見が相次いだ。知事が主張する全国学力調査の市町村別の結果公表の是非についても、大半が賛同した。
 「教育に関する意見交換会」は、橋下知事が府の市長会を通じて開催を呼びかけた。府内33市のうち東大阪、富田林、岸和田など16市長が参加。大阪、堺の市長らは欠席した。
 8月末に発表された全国学力調査の結果で、大阪の公立小中学生の成績は2年連続で全国平均を大きく下回り、知事は「教育非常事態」を宣言。教委批判を繰り返し、市町村教委に対しこれまで非公表だった学力調査の市町村別データの公表を強く求めている。
 各市長からは知事への激励、賛同が相次いだ。
 教育委員会は戦後、政治からの中立性を保つため、首長から独立した行政委員会として創設された。この教委制度のあり方について、各市長は「知事は教育内容に介入するつもりはないと言うが、ぜひ教育に介入してほしい」(倉田薫・池田市長)、「選挙公約で教育問題を掲げても、首長ができることは校舎のトイレの修繕ぐらい。隔靴掻痒の思いだ」(岡本泰明・柏原市長)などの発言が続いた。
 また、学力調査の市町村別結果の公表についても「国は府県データを公表していて、府県が市町村データを言ったらだめだというのは矛盾している。文部科学省はひきょうだ」(浅利敬一郎・豊中市長)など、公表を求める意見が大勢を占めた。平均正答率の非開示を表明したのは、貝塚市の吉道勇市長だけだった。 最後に橋下知事は「文科省は自分の判断がすべてだと考え、おごっている。地方分権すればするほど、教育委員会の中立性は薄まるべきだと考えている」と持論を述べた。

 市町村別結果を公表して、首長さんらは何をしたいんでしょうかね。教育予算(とりわけ人件費)カットの口実を何とかつくりたいという意図が透けて見えなくもない。何しろ教育への国・自治体による公的支出は少なく、私費負担の割合は高く、というのが日本の「公教育」観ですから(その穴を埋めるのが精神主義や、自己責任論であったりする)。

 ただ、あの学力テストの解像度の低さからいって、市町村間に差が出てもその信用度はかなり低い。市町村という括りで評価することにまず無理があるし、学校ごとで括っても、能力の高い先生とそうでない先生とを区別せずに評価することになってしまう。そもそも先生間にキャリアから来る能力の違いがあるのは当然のことで、それを補完するために教員の同僚性・協働性が重視される必要があるのだが、学校・教員を競争的な環境に置くことでその可能性も薄れ、むしろお互いを敬遠しあう冷たい職場環境を作り出す危険性がある。それに、各クラスには発達障害を抱えた子どもや、いわゆる貧困層、外国人労働者の子どもなど社会的マイノリティに属する生徒といった多様な面々が属しているはずである(大阪府であれば尚更では)。そういった子どもたち一人ひとりの顔を無視して、教師の能力・学校のがんばりを、テストの点数から一律に評価すべきなのだろうか。競争は公平性が確保されてこそ競争として成り立つ。そもそもスタート地点の平等性すら怪しいのを無視しつつ問題を考えようというのでは、出発点において間違っている。

 また、あのテスト自体、教師・学校を競争させるために作成されたようなもので、所与の教育内容のあり方を問い直し、改善につなげるといった性格を有していない。つまり、国の教育課程政策自体に問いを向けるような意味を与えられていないのである。改善を問われるのはたえず現場でしかない。「教育内容に介入する」というのなら、この点こそ自治体側は問題にすべきではないのか。「うちの自治体では、子どものこのような能力を測りたいからこういったテストをつくってほしい」といった要望が出されたという話も聞こえてこない。要するに、文句を言うわりに、自治体側のビジョンがいまいち見えてこないのである。
 
 橋下という人間には、とにかく煽動的な放言・暴言が目立つ(「くそ教育委員会」とはまた…)。府知事になってからの言動をみていても、まず「敵」をつくってから、ひとびとの情動的な部分に語りかけることで自らの支持を広げている。小泉とも共通するその戦略は、ファシズム的といっても過言ではない。だが、そのような戦略から何が政策として実現されうるのだろうか。結局のところ、合理化合理化で、短期的に目に見える成果はでない教育・福祉の「ライフライン」はひたすら縮小していく、という結果しか生まないのではないか。

 ■  □  ■

 とはいえ、「選挙公約で教育問題を掲げても、首長ができることは校舎のトイレの修繕ぐらい。隔靴掻痒の思いだ」という首長さんたちの不満にも一理ある。
 住民の直接選挙で選ばれた自治体行政のトップである首長の権限が、義務教育に関して教育予算の執行等に留められている(地教行法24条)というのは、近年の地方分権改革の流れを念頭におけば、再考されてしかるべき問題である(一方の教育委員会からすれば、教育予算に関する独自の権限をもたず、首長から任命される教育委員は非常勤・兼職、実際の広範な教育事務を教育長等に委任せざるを得ないという現状がある。教育委員会もまた、主体性を発揮しにくいのが現状である。なお、「教育委員会」という時、3~6人の教育委員からなる合議制委員会を指す場合(狭義)と、それに教育長-事務局体制を含めて「教育委員会」という場合(広義)があるのだが、最近の教員汚職事件をめぐる報道などから、多くの人は教育委員を除いた教育長-事務局体制を指して「教育委員会」と誤解していたりするのではと、ふと思ったりする)。

 だが、現行法下でも首長のリーダーシップと教育委員会との連携によって市町村が主体的に教育改革に取り組むことは可能である。それこそ、全国一斉学力テストには参加していない愛知県犬山市(現市長からは何やら不協和音も聞こえるが)や、あるいは構造改革特区を活用した埼玉県志木市などすぐれた先行事例がすでに存在するのだから、大阪の首長さん方はこれらの事例に学ばれたらどうだろうか。
 今回の記事は、大阪府各自治体の首長と教育委員会との協議・意見交換すら、実のところほとんど行われていない現状をほのめかしているようにも読める。

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[木ログ]せんだい街のアルバム

◇せんだい街のアルバム製作委員会ポータルサイト
http://www.smt.city.sendai.jp/album/index.html

 せんだいメディアテークのHPから見つけた。
歴史としての仙台を伝え、また未来の仙台を探るための、きわめて魅力的な取り組みだと思う。メディアの活用の仕方について考えさせられる。

 街のアルバム鼎談(「デジタルアーカイブとは」から)には、戦前の教育雑誌閲覧・市民セミナー等でお世話になった出版史料収集家の渡邊慎也さんも登場している。

 まだ、すべてに目を通してはいないけど「せんだい時遊マップ」は、かなり楽しめた。昭和40年代の東北大学川内キャンパスの写真とかは衝撃的かも(? どこから撮った写真なのか、自分は判別できなかった)。

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