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「これにもお豆がなるの?」

~「教える『加減』~それは教授者の知恵や技術に帰結すると思う~」補遺(2008年10月19日)

 学習者は、教授者から示された学習素材(知識・情報)を、何も知らない白紙の状態からそのまま刷り込むのではない(それは単に、断片的な文字やコトバの集まりを記憶することとイコールである。 今の学校は、どうしてもそのような断片的な知識を急いで教えることになりがちである)。
そうではなく、自己の過去の経験によって獲得した認識構造を活用して、新しい知識・情報を自己の内部に構造化していく。その可能性を子どもは有している。
したがって、その可能性を十分に開かせない、「教えすぎる」授業では、「こうすれば、こうなるはずだ」といった自律的な思考が働かない、「断片的な知識」しか子どもに作らせ得ないことになる。
 “子どもは何も知らないから、こちらから強制的に与えなければならない”、というのは短絡的である。
小さな子どもであっても、しっかりとした認識構造をもっている。以下は、それを示す、渡辺万次郎氏(元秋田大学長)とそのお孫さん(5歳,4歳)の有名なエピソードである。

 私はかつて幼稚園の2児を近郊に伴った。彼らは“みやこぐさ”の花に注意を引かれたが、その名を問うほかに能がなかった。当時、私どもの菜園には、同じ豆科の“えんどう”の花が咲いていたので、私は名を教えるかわりに、その花をもって帰り、おうちでそれによく似た花を見出すようにと指導した。彼らが帰宅後両者の類似を見出した時には、小さいながらも自力に基づく新発見の喜びに燃えた。やがて一人は“みやこぐさ”について、“これにもお豆がなるのか”と尋ねた。それは誰にも教えられない独創的な質問であった。私はそれにも答えず、次の日曜に彼らに現場で確かめることを提案した。彼らがそこに小さな“お豆”を見出した時、そこには自分の推理の当たった喜びがあった。秋がきた。庭には萩の花が咲いた。彼らは萩にも豆のなることを予測した。彼らは過去の経験から、いかなる花に豆がなるかを自主的に知り、その推論を独創的にまだ見ぬ世界に及ぼしたのである。
(渡辺万次郎「科学技術と理科教育」『理科の教育』Vol.8、No.11、高橋金三郎『授業と科学』国土社、1973 より引用)

〈註〉細谷純『教科学習の心理学』東北大学出版会、2001年、47-48頁。

 渡辺万次郎氏の文章の、別の本からの引用の、そのまた引用で申し訳ない。だけど、中身はおもしろい。
幼稚園児でさえ、「(じゃあさ、)これにもお豆がなるのか」と、自身の過去の経験をもとに共に豆科であるという〈知識の構造化〉を行いうる二種類の植物間の関連づけを行い、さらに推論から獲得した知識を(自ら使って)、他の事例にも広げていこうとする喜びを味わっている。そして、それを可能にしたのは、学習者を自律的な思考へと導く教授者の意図的な指導である。
 すぐに答えを教えてしまうのではなく、彼らが過去の経験やそこから獲得した知識を使って、推論し、自ら答えを導きたくなるような筋道をそれとなく示してあげる、そんな指導の一例を、上記のエピソードは示している。

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