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教える「加減」~それは教授者の知恵や仕込みに帰結すると思う~

 友人、すだ公民館長の授業実践にまつわるエピソード(「授業の『加減』~子どもの学びをコーディネートできるか~」)を読んで、外山滋比古氏の「不幸な逆説」を思い出した。

 どうしても制度としての学校では、各人の自発的な学習意欲如何にかかわらず、半ば強制的に学習が開始される。その中では教授者が効率的に知識を伝達することが望ましいとされ、学習者も意識的・無意識的に受動的に知識を身につけるように習慣づけられる。お互い、そのことが決して望ましいとはどこかで分かっていながら。
 では、近代学校教育が確立する前、昔(近世)の塾や道場ではどうしていたのか。

 入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若ものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守りまでさせる。なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。
 じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。
 …… 
 秘術は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらうことはあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗みとろうと考える。ここが昔の教育のねらいである。学ぼうとしているものに、惜気なく教えるのが決して賢明でないことを知っていたのである。……
 師匠の教えようとしないものを奪い取ろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。……伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。
 昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。……
 それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

〈註〉外山滋比古『思考の整理学』ちくま学芸文庫、1986年、17-19頁。

 今の「学校」という教育形態では、子どもが考える前に意味・内容をおしつけすぎてしまう。市場原理が導入され、ペーパー・テストの結果が重視される風潮のもとではいっそうその傾向に拍車がかかる、という予測は容易に成り立つ。
 だが、長い眼で見たとき、それは本当に子どもにとってためになる事なのか。「教えられないことを自ら学びとる力」を削ぐ結果にならないか―、教師にはこのような問題をたえず意識することが求められるように思う。

      ◇

 もう一つ、思い出したのは大村はま氏の「仏様の指」の話。以下、『教えるということ』から引用する。

 終わりに、私の好きなお話をご紹介したいと思います。
 私はかつて、都立八潮高校(当時、府立第八高女)在職のころ、奥田正造先生の毎週木曜の読書会に参加していました。奥田先生は、そのころ成蹊女学校の主事をなさっていました。先生は私が今日までお会いした先生の中で、いちばんこわい先生でした。……
 先生の前でかしこまって緊張している私に、先生は急に、「どうだ、大村さんは生徒に好かれているか」と、お尋ねになったのです。私は、はたと返事に困りました。……先生は「そう遠慮しなくてもいい、きっと好かれているだろう。学校中に慕われているに違いない」と言って、お笑いになりました。私は、どうしてよいかわかりませんので、下を向いてもじもじしていますと、先生が一つの話をしてくださったのです。
 それは「仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらしたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった」という話です。「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」こういうふうにおっしゃいました。そして、「生徒に慕われているということは、たいへん結構なことだ。しかし、まあいいところ、二流か三流だな」と言って、私の顔を見て、にっこりなさいました。私は考えさせられました。日がたつにつれ、年がたつにつれて、深い感動となりました。そうして、もしその仏様のお力によってその車がひき抜けたことを男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、何分の一かに減っただろうと思いました。仏様の力によってそこを抜けることができたという喜びはありますけれども、それも幸福な思いではありますけれど、生涯一人で生きていく時の自信に満ちた、真の強さ、それにははるかに及ばなかっただろうと思うとき、私は先生のおっしゃった意味が深く深く考えられるのです。

〈註〉大村はま「教師の仕事」(山形県天童市東村山地区教育委員協議会主催講演会、1973年2月)『新編 教えるということ』ちくま学芸文庫、1996年所収、155-157頁。

 子どもの重荷になるような教師では問題だけれども、かといって、過度の配慮から子どもに何でもかんでも教えればよいというのも、かえって子どもが一人で生きぬく力を奪い取ってしまいかねない。そんな「教えるということ」の難しさを、上の文章からも直感する。

     ◇

 「教えること」において、あくまでも根本に置かれるべきなのは、児童生徒の自律的な思考や自立的な態度を引き出す、教授者(=授業の専門家)の知恵や工夫(わざとじらす、「仏様の指」になる)だ。「授業」に引きつけていえば、何をあらかじめ与え、何を教えないでおくのか、といった計画・仕込みを指すことになろう。単に「これはこうなのだ」という知識の網羅的説明(与えること)に終始したり、あるいは反対に(事前に何も与えず)「自由に考えてみよう」といった働きかけでは、その授業は子どもにとってパッとしない、「やり抜いた」「成し遂げた」という実感のないものに映るに違いない。

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コメント

ブログのネタにしてもらって、嬉しハズカシです。いろいろな先人が、同様の課題を実感し、克服の手立てを講じていたこと、改めて勉強になりました。
それを現在に生かすのが教育史を学んだ自分の役割、と自分自身に課していたことも、再認識。
ただ、なお「壁」に感じることがある。
それは、子どもの「主体的な試行錯誤」には、大人が思うよりも結構な時間がかかる。
しかし、近代学校教育制度のもとでは、次から次へと指導計画や時間割が組まれており、どこかで彼らの学びを打ち切らざるを得ない。そのあたりの「加減」も、毎日悩ましいところです。

投稿: すだ公民館長 | 2008/10/20 07:27

すだ公民館長、コメント多謝。

>子どもの「主体的な試行錯誤」には、大人が思うよりも結構な時間がかかる。しかし、近代学校教育制度のもとでは、次から次へと指導計画や時間割が組まれており、どこかで彼らの学びを打ち切らざるを得ない。

 mixiのほうにさらに補遺(「これにもお豆がなるの?」)を書いているので、そちらも読んでいただければ。
「どこかで彼らの学びをうち切らざるを得ない」というのは教師のほうでしょうか。
それを決めるのは、子ども自身のような気がします。教師がしてあげるべきなのは、子どもが知識“を使って”いろいろな物事を推論するきっかけをつくること。それができれば、子どもは学校以外の時間でも「学び」続けるのではないかと、そう考えています。
 もっとも学校では次から次に教えることがたくさんでてくるという事情はあるのだけど。その意味で、やっぱり「ゆとり」というものを「学力」と二項対立的に捉えて、簡単に唾棄してしまうものでもないと思ってしまいます。

投稿: タカキ | 2008/10/20 22:19

今日もチャイムがなり、教師の側である自分が打ち切りました。実験など、子どもが「もう一回やりたい」なんて言うのにね。「子どもは学校以外の時間でも」というのは正鵠を得ていて、そういう「学び」ができるように配慮しています。たとえば、実験結果を、世の中のあんなところにもあるよ、とコメントし、いわゆる「オープンエンド」の締めくくり(「日常生活に返す」とも言いますが)を意識しました。たまに、自主学習ノートなどで、授業の続きを考えてまとめてくる子もおり、そういう「学び」に出会うと心底うれしくなります。
mixiの方も読んでみます。

投稿: すだ公民館長 | 2008/10/21 05:16

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