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果たして「信頼される教育現場作り」につながるのか

 毎日何かメモ的なものは書いているのだけど、なかなかブログに載せられるだけの記事にしようという根気がわかなくなっている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 ということで、ちょっと前にメモしていたものになるけれども、せっかくなので取り上げてみる。
 
      ◇
 
 政府インターネットテレビ(内閣官房及び内閣府オフィシャルサイト)に、以下の番組(動画)がアップされている。
 
■「信頼される教育現場作りへ~教員免許更新制~」政府インターネットテレビ、2008年10月30日。

 来年度からの本格実施を前に、今年の夏に各地で予備講習が行われた。
講習内容は、以下の通りである。
 ・教育の最新事情に関する事項(12時間以上)
 ・教科指導、生徒指導 その他教育の充実に関する事項(18時間以上)
開設機関は、「大学・指定教員養成機関、都道府県・指定都市等の教育委員会」となっている。だが、今年度の予備講習では「大学」以外に手を挙げた機関がないという事実。これは意味深だ。ある先生は、最初から行政サイドは免許更新制に期待などしていないのでは、と推測していたが正しいと思う。膨大な労力を要するし、大学側も不満たらたらである。現場教員・大学双方が不幸な結果に陥る結果も予想される。

 さて、動画を(バイアスがかかっていることが間違いないことを前提として)見ての率直な疑問と感想を。

・「その時々で教員として必要な最新の知識や技能」とは何だろうか。危機管理やインターネットに対する知識、問題への対応策だろうか。しかし、そのような知識に詳しい大学研究者は限られていると思う。むしろ、民間のほうがノウハウを持っている。
・「最新の知識技能を身に付ける」ということから、どうして「免許の更新」という話になるのかがわからない。
・日頃の業務が忙しい教師の実態が推測される。
「強制的に機会を持ってもらえたら」(中学校美術教諭)
「差し迫った状況がないとなかなか取り組めないという状況もありますし、やっぱりいい面もあるんじゃないかと思うんです。」(高等学校化学教諭)
 →個人研修・現場での校内研修では満足しきれない現状がうかがえる。
・「大学で何を研究しているのかっていうのも、進路指導する上で、大学のことはよく知らないので、そういう意味では大変参考になりました。」(高等学校化学・生物教諭)
 →大学との連携という面ではメリットもあるかもしれない。でも、その場が更新講習である必要はない。
・現場教員にとっては、「息抜き」という側面があるのだろうか。

       ◇

 更新講習は個人個人がバラバラに現場を離れて「自主的に研修」することを強いられる、制度化された「自己責任」による研修である。
 だが、今回のように「最新の知識や技能」を講義形式というかたちで学ぶと更新講習は、おそらく受験勉強などと同じように「蓄積的知識」として学ぶという以上の意味にはならないだろう。
 講習で得た一般的知識を、現場で活用できるものへと自ら血肉化(具体化)できるというのなら問題はない。だが、それには時間がかかると私は思う。少なくも、更新講習終了後のテストで判断できることではない。
 自分が思うに、現場が求めているのは、一般的な知識では対応できない質の知識(経験・知恵)の収得である。その知識は、状況依存的なものであって、現場を離れて成立するものではない(その「状況依存性」、多様な子どもへの教育を全人的問題として引き受ける「総合性」に「教職の専門性」の捉えがたさがある)。

 したがって、むしろ必要なのは、現場教員がお互いを刺激しあい、協働して組織的に教育問題に取り組む姿勢=同僚性意識であり、それを可能にする校内研修体制である。
 動画をみて、自分が危惧したのは、もっとも中心であるはずの学校現場を土台として、教師としての資質を高めようという研修意識・同僚性意識が失われているのではないか、ということであった。
 教師のキャリア形成において、本来最も重視すべき履歴は、10年に一度の更新講習などではなく、この現場主体の研修のはずではないのか。その点に配慮した教員研修制度の見直し(校内研修の実績評価)が必要だと思う。

 私は更新制には否定的であるし、肯定的に捉える教育学者はほんとうに少ない。むしろ、これを「前向きに廃止」していこうとする意向が強い。研修体系の整理(10年経験者研修との統合、教職大学院との関連・整理など)、更新目的の転換(上級免許状取得へのグレードアップ)をめぐる主張がそれである。
 自分もその意見に賛成である。

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コメント

勇気をもった書き込み(!)感謝です。刺激的な内容でした。
現職教員の研修の場は、①自己研修(自宅や大学にて)、②校内研修、③校務分掌に関わる研修(教育センターや市教研など)の3つに大別されますよね。

この順番は自主性の順番でもあり、それと反比例して機会の多さにもなっている。つまり、自分で選べるはずの自己研修に取り組む人・機会は少なく、教育センターや他校への出張で研修する機会が多い(もちろん、③に自分の仕事を見出し自主性を発揮する人もいますが)。

日々の忙しさが教員を受動的な存在にし、この実態が生まれているのは明白。つまり「言われたから行く」という構造。研修という言葉は、そんな「させられる学び」のイメージが付きまとう、教員の学びの主体性を軽んじる意識さえ感じてしまいます。もちろん、「言われてから初めて学ぶ」という主体性のない教員は論外ですが。いや、そういう人が多くて免許更新なんてものが出てきたのかも・・・。

一方、そんな研修の中にも「ためになる」ものもありました。今年になり、②や③の研修で「ケース・スタディ」をやる機会が増えたんです。個人情報はふせた上で、問題行動や非行、保護者対応でのトラブルなどをチームで考え合うものです。これは切実感があり、危機管理意識や予備知識としていい学びをしたと思えるものでした。その一つに、宮教の先生がコーディネートしたものもあった。大学として現場作りに寄与できる一つとして、こうしたケース・スタディにおいて客観的な状況分析や解決への道筋を理論立てて提示すること、が挙げられると思います。

そんな雑駁な感想でした。
ちなみに余談ですが、僕が関わっているある自治体史の仕事。管理職の一人が理解できない、という表情をした。そのあと、はっとひらめいて僕に投げかけた言葉。
「ああ、これは研修じゃなく、社会貢献ね」
そこに「研修により教員の質が維持・管理・統制される」という論理を見出すことができますね。こうして、僕の自治体史の仕事が、「研修」の枠組みから「逸脱」したものだ、ということをご理解いただいたわけです。

投稿: すだ公民館長 | 2008/12/10 06:19

>すだ公民館長

 貴重な意見、ありがとうございます。
「ケース・スタディ」って、最近研修に限らず言われますよね。大学の授業でも扱うべきだと。具体的な事例(教育の事実)を蓄積してそこから自力で理論(問題の構造を見通す眼)を構築していく。そういう思考が教員志望の学生に対しても求められると思います。
 少なくも、自分はそんな授業は受けてきてないわけですけど。

投稿: タカキ | 2008/12/10 22:42

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