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「読むことは内容のある人間を作る」

 前回の記事「大人の力量が問われている」(2009年2月2日)について、斎藤史郎氏(長野県・上田市マルチメディア情報センター)から貴重なご意見をいただいた。斎藤氏に感謝申し上げる(斎藤氏のコメントについては、前回記事のコメント蘭を参照されたい。また斎藤氏のブログはこちらをクリック→)。

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 さて、斎藤氏の批判を受け、言葉足らずな私の意見を振り返ってみたい。
 私は、前回の記事で次のように述べている。
①「ケータイによる狭い仲間内でのコミュニケーションにとどまっている限り、モノを読む力、書く力は伸びない。親しい関係の間でしか通用しない範囲に、言語体系や価値観が限定されてしまう。ケータイ依存は、モノを書く力を鍛えることなく、自己を『外部』の世界へと開いていく〈教育〉本来の可能性を狭める方向に働くはずである。だから、その点は、学校の先生にしっかり指導をお願いしたい。 」
 それに対し、斎藤氏は、コメント欄で次のように述べられた。

今は子ども達の世界が狭くなっているので、逆に狭い付き合いの中での「空気を読む」など、大人と違う意味での「読む力」「書く力」は持っているのかもしれない、と私は思います。それを大人が理解できないだけで。
それから今の子ども達を見ていて「ケータイ依存」と言うのは、あくまで「携帯=電話」と思っている大人の価値観であって、「ケータイ=情報ツール」と思っている当の子ども達は、既にケータイを日常のコミュニケーション手段の一つにしているように思います。使う頻度が高いからと言って、別に「依存」ではないのではないでしょうか。

 如上の指摘を受け、以下、私の意見についてさらに整理する。
 上述の主張①について、敷衍すると次の通りである。

(1)私がいう「ケータイ依存」は、「携帯可能な電話」としての携帯電話だけではなく、「情報ツール」としてのケータイも含めて、それによりかかってしまうことを指している。ただし、程度の問題なので、線引きは難しい。
(2)子どもたちがケータイを「日常のコミュニケーションの手段の一つにしている」かぎり、私は何ら批判的ではない。そもそも「使う頻度が高い」ことを指して、「依存」とは言わない。
(3)だが、ケータイがつくりだす「狭い」関係性に強迫されることで、本や雑誌などを通して、未知の世界へと思考を膨らませる時間が削られるようなら、大いに問題である。そうなる前に自省し、自制する手段を学ぶべきである(→「その点は、学校の先生にしっかり指導をお願いしたい」)。
(4)また、ケータイは「情報ツール」としては限界がある。ケータイを利用する以上、その限界を理解する必要がある。「限界」とは、例えば、次のことである。
 ケータイが媒介する情報の主な「供給源」はインターネットである。だが、インターネットが提供する情報はきわめて断片的であり(検索した部分についてだけ部分的に知る)、段階性も体系性もない。自分にとって都合の悪いものは避けて通るか排斥する、自分の中の認知図式(偏見)にあてはまるものだけを取り入れていくといった情報受容の仕方も可能になっている。
(5)子どもたちは、ネットの掲示板をなどを通して、「ムカツク」「ヤバイ」「キモイ」といった、人物や状況を簡潔にまとめて表現し、その感覚を共有しあう=「空気を読む」より、知識や経験を積み上げて議論し、思考を鍛える技法を学ぶべきである。子どもに「読み書き」のスキルを学ばせることが主眼の教育関係者なら、この一線は譲れない。
(6)そのための有効な訓練となるのは、現時点では「読書」である。「読むことは内容のある人間を作る」(ベンサム)。また、他者(大人)を説得するには、知識の備蓄に拠るほかはない。

 だから、①のように書いた私の真意は、じつに単純である。「こどもたちよ(あるいは一部の大人たちよ)、たくさん本を読め!」である。

 繰り返し述べれば、私は、子どものケータイ利用について決して否定的なわけではない。ただ、ケータイを媒介として現出する問題の一端に批判の眼を注いでいるだけである。
 そして、私が上に述べた(5)のような問題意識に応えるかたちで、ケータイを子どもたちの「読む力」や「書く力」を向上させるための道具として―議論・情報交換の道具として―積極的に活用していくこともまた可能ではないか、また、現にそのように機能している部分もあるのではないか、と半ば楽観的に思っている。

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教育学」カテゴリの記事

コメント

上田市マルチメディア情報センターの斎藤です。
コメントにお返事をいただきまして、ありがとうございます。
私も先のコメントでは言葉が足りなかった所があり、すみませんでした。

今回のタカキさんの「本を読め」という意見を読んで改めて考えたのですが、男女のコミュニケーションや友達意識の違いの問題があるかもしれない、と思いました。
男性である私自身の経験も含めてですが、男の子の場合、本を読むなどして知識のある奴は「あいつは○○に詳しい奴」として一目置かれるし、同様に○○に詳しい奴とそれをきっかけに友達になれたり、議論ができたりします。
しかし女の子の場合は、例えいろいろ知識があっても、友達同士の会話やノリについていけないともうアウトで、「あの子おかしい」「KY」「ヘン」とレッテルを貼られてしまうように思います。
タカキさんはいじめの問題にも詳しいのではないかと思うので、私が今さら言うことでは無いのですが、今はいじめっ子といじめられっ子がたやすく逆転する時代で、友達付き合いの中でちょっとでも落ち度があると、途端に明日からいじめられっ子に転落してしまう可能性があります。
携帯メールに「30分ルール」で返事を返したり、バレンタインデーに「友チョコ」をたくさん作って友達に配る女の子達を見ていると、今は友達付き合いをキープするだけでものすごいエネルギーが必要な時代なのだな、と思います。
そのメールで交わされている言葉が深いものかどうかは大人の価値観に過ぎなくて、当の女の子達、特に中学生くらいの女の子達は日々の友達関係を維持するのに精一杯なのだと私は思います。

本を読んで知識を深めることは、もちろん大切なことだと私も思います。
ただ、子ども達に「本を読め」と言うのは簡単なのですが、上に書いたような子ども達のリアルな現状を考えて物を言わないと、子どもから「毎日の友達付き合いでこっちは必死なんだ。読書なんてしても、友達にKYと思われたら何の役にも立たない」と反論されてしまうかもしれません。
上から目線で「言葉が浅い。本を読め」と他人事で言うのではなく、私たち大人自身が、まずは子ども達への接し方や育て方を反省しないといけないのではないでしょうか。
「勉強することの意味」や「人を大切にするってどんなことか」などを、口で言うだけではなく、日頃の生活の中で子ども達にちゃんと実感させてあげないといけないのだと思います。
かく言う私も、子ども向けのセミナーやイベントを企画・運営している立場なので、いろいろ反省していかないといけないのですが…。

投稿: 斎藤史郎 | 2009/02/20 14:55

 斎藤さん、コメントありがとうございます。
「男女のコミュニケーションや友達意識の違いの問題」など、示唆に富むご指摘、ありがとうございます。

 さて、斎藤さんは書かれました(>:引用部)。
>ただ、子ども達に「本を読め」と言うのは簡単なのですが、上に書いたような子ども達のリアルな現状を考えて物を言わないと、子どもから「毎日の友達付き合いでこっちは必死なんだ。読書なんてしても、友達にKYと思われたら何の役にも立たない」と反論されてしまうかもしれません。
>上から目線で「言葉が浅い。本を読め」と他人事で言うのではなく、私たち大人自身が、まずは子ども達への接し方や育て方を反省しないといけないのではないでしょうか。

 もちろん、「本を読め」とお題目を唱えるだけで、そのまま子どもたちに受け入れられるなどとは思っていません(また、そのような趣旨のことを書いたつもりもありません。「本を読め」というのは私の思想(or「真意」)であって、実際に子どもにいう言葉ではありません)。こちらが何と言おうと、最終的な判断は、子どもたちが自分の頭ですることですから。しかしながら、

>「勉強することの意味」や「人を大切にするってどんなことか」などを、口で言うだけではなく、日頃の生活の中で子ども達にちゃんと実感させてあげないといけないのだと思います。

というのも、それこそ、口で言うほど簡単なことではなく、どのような方策(教材・教育方法)を採るべきなのか、とくに学校の先生方は悩むところです(子どもたちのリアルな現状がそうだからといって、「勉強しなくてよい」とは大人の立場として言えませんし、また、文章能力の低さを、そのままにしておいていいわけでもありません)。

 例えば、日頃の生活の中で何か子どもたちに問題が起こったときに、枠組みが共通する本の内容を話題や事例(=教材)として提供し、あるいは吟味させることを通して、「毎日の友達付き合いでこっちは必死なんだ。読書なんてしても、友達にKYと思われたら何の役にも立たない」などという強迫的なかたちでしかつながることができない関係性の、彼ら自身による再構築を促す――。

 私が現時点で思いつくのはそんなところです。もっとも、私自身の場合、そうはならず、“大人になってからふとしたこと(その端的な例としての「読書」)を契機として子どもの頃を振り返り、当時の関係性を反省する”、あるいは、“大人になって、「読書」を強調したあのときの恩師の言葉の意味を再認識する”という結果にしかならなかったわけですが。

長文、失礼しました。

投稿: タカキ | 2009/02/22 00:41

ご無沙汰しております。
このたびHPを閉鎖して日常雑記ブログを開設いたしました。
下らないことばかり書いていますが良かったら覗いてみてください。


私は「今の子供たち」の生の声に接する側の人間です。
ですので追々そのような記事も書いていけたら・・・と思っています。
ではでは。

投稿: あおぎんぐ | 2009/03/03 23:44

あおぎんぐさん、お久しぶりです。
お変わりないですか。
たまには、錬武会、S三先生にもご連絡ください。相変わらず、にぎやかです。

こちらは、いろいろバタバタしていて落ち着きません。近況としては、居合道四段になりました。
すだっちはブログを閉鎖するようで、自分も迷っています。とりあえず、放置プレイで様子を見ながら、ダラダラやっていくつもりです。

投稿: タカキ | 2009/03/04 20:28

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