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[本]『教育と平等』を読む

■苅谷剛彦『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか―』中公新書、2009年。

 戦後日本にとって
 格差をなくす とは
 こういうことだった― (帯文より)

 『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995年)の裏面史ともいえる、苅谷氏の戦後教育社会論。同書もまたひじょうに中身の濃い充実した内容となっている。
 アメリカと比較したとき、日本の戦後教育において「平等」とは、どのようなことを意味し、その具体化のプロセスとは、いったいいかなるものであったのか。
 本書では、「面の平等」(⇔「個の平等」)というタームを用いながら、教育の機会平等をめぐる〈システム〉構築へのきわめて特異なプロセスを浮き彫りにしている~個人の能力の差異を初期条件として設定し、その差異に応じて学習の個別化を図るのではなく、教育条件自体の均一化(均質な時間と空間を用意し、そこで繰り広げられる教育・学習においても、等量・等質をめざす。その象徴としての「学級」)を図り、むしろ個々人の差異を目立たせずに、平等状態を仮構する。個人を単位に平等を考える「個の平等」とは異なる「面の平等」~。
 「文部省」(教育政策)対「日教組」(教育運動)という二項対立的な図式に左右されない、その底流(本書では「義務教育におけるお金(税金)の動き」)へと目を向けた「歴史」のかいくぐり方には、研究者として強い感動と憧れを抱く。
 「歴史」を扱いながらも同書が問いかけるものは、きわめて現代的な課題にも迫るものである。
 教育条件の均質化のために、戦後日本が選択した「平等」のシステム。
教育格差が問題視される今だからこそ、改めてこれまでのありようを冷静に議論する必要があると、本書はそう我々に問いかける。

  ◇  ◇

 「あとがき」で苅谷氏が記している研究手法・スタイルをめぐる以下の言辞には、教育史研究者(の末端)として自らの手法・スタイルを反省させられる(そして、「では、どうすればよいのか」と途方に暮れる)。
「…本書は私にとって思い入れの強い本である。ひとつには、いわゆる「言説研究」とは異なる類いの知識社会学的研究のあり方を示したいと思ったところにある。古い雑誌や文献から言葉を拾い集め、それらの関連性をもとに、ある時代の社会意識、メンタリティ、「時代精神」を取り出す。そういう研究スタイルの流行が、教育の社会学的研究でも続いた。だが、取り出された言葉をもとに、パッチワークのように再構成されたある時代の時代意識なりメンタリティが、どこまでその社会に根深く埋め込まれた基底的な知識にまで到達できているか。私自身のこれまでの研究を含めて、隔靴掻痒の感を持っていたのである。文献に残された「言葉」だけに頼らずに、「言説と実態の二分法」にとらわれずに、ある社会のある時代の基底にある「知識」を取り出すことはできないのか。財政の仕組みとその実際の動き(お金の配分のあり方)への着眼には、そのような方法論的な企図があった。語られない部分を含めて、ある社会のある時代の「知識」に迫りたい。それがどれだけ成功しているかは読者の判断に任せるしかない。ただ、資源配分に埋め込まれた基底的な「知識」が、私たちの社会や教育のあり方に影響を及ぼしていることを幾許かでも示せているとしたら、このような研究スタイルにも多少の意味があると言えるのかもしれない。」(284頁)

(mixi日記9月7日から転載)

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