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はえーなー

 今日から、秋期の授業開始である。早いなぁ。もう9月も半ばを過ぎたというのに、まだ猛暑は終わらない。自分のモチベーションが超低空飛行状態なのだから、学生のやる気のほどは推して知るべし。

  自分の授業は、明日からだ。秋期も大人数の授業が続く。
 授業開始を前に少しでもモチベーションをあげるべく、春期の「教育原理」の授業で学生が書いた感想をふり返ってみる。実にいろいろな感想をもらったわけだが、その中でもうれしかったやつを。

 タカキ先生の授業は、今受けているのを合わせると三つ目になりますが、本当におもしろいです。まず、導入部で学生の興味・関心をひくようなものを提示し、それと関連させ、授業を行っていくスタイルはとても勉強になります。また、クイズに正解した学生に、褒賞を与える(あまり良い方のでないのが逆に良い)といたことでも、クラスの雰囲気を良くしたり、盛り上げてくださるのが、とてもうれしいです。口では厳しいことを言うこともありますが、本当に学生のことを考えてくれる優しい先生だということも伝わってます。ありがとうございました。(法学部・Aさん)

  自分が取っていた授業の中でも佐藤先生の授業は厳しいといいますか、冷酷な感じがしますが一番得るものが多かった授業のように思えます。先生の頭の良さが伝わってきました。今回は、僕の勉強不足、プリント忘れという怠慢により単位を落とすとは思いますが、次の佐藤先生の『教育原理』また『道徳の指導法』は、キチンと勉強したいと思っていますのでよろしくお願いします。(日本文化学科・Tさん)

 「厳しい」「怖い」という意見を書く学生が多いのだけど、どのあたりが? 
  確かに、欠席や私語についてはきっちり対応するようにはしているけど、べつに怒鳴っているわけではない(そんなことは一度もしていない)。それだけで「怖い」というのなら、他の先生は、いったいどういう授業評価を得ているのだろうか。
  このあたりはすごく不思議に思っているところだ。

 一番うれしかったのは、以下の感想。

 佐藤先生の「教育原理」は終始、“講義”というより“授業”でした。
  この大勢の履修者を相手に、深く考えさせる授業を展開していくのは本当に大変なことだと思うし、尊敬します。また、ビデオを見た授業の後に、ちゃんと解説を付けてくれたところもとても記憶に残っています。大体の授業がビデオを見て、感想を書いて、それで終わりなので、解説がついたことですんなりと理解することができました。……これからも先生がおすすめしている本などを参考に勉強していきたいです。(心理学科・Uさん)

 “「講義」ではなく、「授業」を―”。これは、自分が強く心がけていることだ。その意図をくみ取ってくれた学生がいたのは、うれしい。努力している甲斐があるというものである。
 おそらく、先の「怖い」というのもこのあたりに関わっているのだろう。自分の場合は、毎時間学生を指名して発言させたり、もしくは自分のほうから寄っていってマイクを向けたりしている。そのため毎時間ドキドキする、といったことを書いた学生は何人かいる。でも、そういった緊張感と双方向性がなければ、多くの学生は寝てしまうだろう。

 あと、こんな意見も。

 私がこの授業を受けてまず最初に思った事は佐藤先生の年の若さです。大学の先生と言うと、私の中の勝手なイメージで、おじいさんもしくはおじいさんに近い先生なんだろうなと想像していました。(教育学科・Iさん)

 まあ、たしかに大学教員の平均年齢は、高校までの教育機関より高いだろうけど(笑)
  これらを読み、今の大学生が持つ、もしくは望んでいる大学教師像ってどんなものなのだろうと、ちょっと調べてみたいという気になった。

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恩師との別れ

 先日、お世話になっている居合道道場の代師範先生が他界された。
昨年上京して、こちらの道場の門人になってから、たいへんお世話になった先生である。
 私が初めてお会いしたとき、すでに先生は脳梗塞を患った後だった(先生曰く、「死にかけた」)が、その不自由な体をおして道場に通われていた。今年初めに体調を崩され、何とか門人一同快復を願っていたが、その願いは叶わなかった。
 
 先生は、もともとは校長先生を歴任した、高校の先生だった。
数学の先生らしく、きわめて論理的・合理的に、とてもクリアに、居合のそれぞれの型や動作の、業としてもつ意味を指導してくれた。
「理論的であるということはすぐれて実践的なのだ」。先生の一言一言からは、そのような思いが強く感じられた。
居合という、ともすれば、非実践的と思われがちな型(=理論)の持つ本来的的意義(このように実践的に想定できるから、このような型で動かなければならないのだ、という理合)、そして、形にとらわれて満足し、思考停止する居合道家の現状への痛烈な批判が、そこには込められていた。

 先生は、「どうすれば、(弟子・教え子に)よく理解してもらえるか」という、いかにも教育者らしい姿勢を常に持ちながら、道場で接してくれていた。先生の放つ一言一言は、いつも心に響くよう練られたものだった。
「〈貯金〉になるよう稽古しなさい」と、道場に通いはじめたころ指導された。抜付け・切り下ろしのときの手の内、初発刀抜付け時の左足爪先(しっかりと地に対して垂直になっており、蹴り出せる体勢か)、そういった細かい部分をおろそかにせずに日々稽古するのとしないのとでは、将来、その差が大きなものとして露呈する。同じ間違いを指摘されないよう、常に頭を働かせて意識的に稽古せよ、という教えであった。
 そして、昨年暮れ、私にとって遺言になってしまった先生の一言は「爾(汝)の知をゆるして会をゆるさず」というものだった。
頭で理解しても、それで満足してはならない。実際の行動、身体の運用が頭で思っているとおりとは限らない、たから、自分を驕らずたえず内省を心がけよ、という教えだ。
  このような先生からの一言一言は、(技術的なことも含め)忘れないよう稽古ノートに書き続け、今に至っている。大事な宝物だ。
 これから、もっと大事なことを時間をかけて教わるはずだったのに、と思うと、本当に残念でならない。  今はただ、本流(本道場)の居合継承のために、日々稽古に精進すると決意する次第である。
 
合掌

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モチベーションが上がらない展開ばかり(2)

 附属病院の問題ですっかり隠れてしまっているが、実は本学科でも問題が発覚している。しっかり記事にもなった。こちらは言い訳のできない問題である。
本学科で問題が発覚したというとき、たいてい、その中身は学生の不祥事である(というか、自分が着任してから、問題が起こったというとき、今のところ、その中身はすべてこれである)。今回は、ボランティア先の学校で児童にわいせつ行為か……。これでまた、学科長や教職センター主任、そして事務方が奔走する羽目になっている。
 マスプロ的な指導体制を敷いている大学側にも問題はある(*)
  とはいっても、一人前の大人であり、教職を学ぶ身だ。そのようなことをすれば、必ず付けが回ってくるという、想像力を持ち合わせていなかったのか。子どもを「弱き者」「大人の言いなり」としてみるのは、大人の傲慢であり、教師としては失格だ。

「これからの教員養成には実践的・臨床的な学習指導も必要であり、そのためには現場との連携・協力が不可欠だ」と学科で将来計画を議論しているときに現場の信頼を裏切り、連携のパイプを断ち切る行為に及ぶのは、他の在学生、そしてこれから本学科に入学してくる高いモチベーションをもった学生にとって、悲惨でしかない。
 
  今の時代、そのような行為に及べば、一生ウェブ上で「犯罪者」として名を晒されつづけるのだ、ということを学生は自覚してほしい。

(*)ただ、個別に目をかけていたとしても、今回の問題は見抜けそうになかったのが正直なところだろう。学科長から聞いたところでは、彼は学内では成績優秀で(単位不足などではない。S評価もいくつかもらっている)、教育実習でもお墨付きをもらって帰ってきた学生だった。ボランティア先も去年から継続して行っているところであり、学校でも信頼を得て、子どもからの評価もよかった。
 改めて、知識・技能とは別のところで、教職の意義と子どもに対する責任について、学生に訴えなければならない。でも、どうやって……。

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モチベーションが上がらない展開ばかり(1)

  ここのところ、自分の近辺で悲しい出来事ばかりが起こっている。

  勤務校の附属病院で発覚した問題は、世間に大きなインパクトを与えている。

  ただし、これについては、メディアの報道姿勢にも問題がある(医学関係の専門家からは一部批判が起きている)。
多剤耐性菌と死因との関連は、そう明快に説明できるものではない。新聞記事の行間からはそのように読める。
その証拠に、ニュースでも「○人は感染と死亡との因果関係を否定できない」という微妙な言い回しになっている。断定はしていないのである。
アシネトバクターは、健康な人間には感染しても発病しない。もともとの免疫力で抑えられるほどの毒性でしかない。
影響を受けるのは、重い病気を患っている免疫力の低下した患者である。したがって、もともとの疾患、あるいはその合併症などの結果死亡し、たまたまそのとき調べたらこの種の菌を発見した、というような状況がほとんどだという。とすれば、なおさら感染と死因との関連を明言することは難しいのではないか。
 だが、今回の事態を受けて、(そのようなあいまいな問題枠組みに沿って)同様の事例があちこちで出てくる可能性が高い。
 また、報告の遅れが指摘されているが、これまで報告の義務はなかったし(これから義務化すると厚労省は言っているが)、仮に厚労省や保健所などへの報告が迅速であったら、拡大を防げたのか。そもそも何のために届け出るのか。そこに、院内感染対策の専門スタッフがいるというのか。また、感染症の専門医たちからなる充実した体制を各病院が整えられる現状に、日本の医学界はあるのか。おそらく、どれも否だろう。
 であるならば、なおさらその視点での建設的な議論がほしい。
 
 しかし、一度このように報道されてしまうと、世論は突発的な感情に引っ張られて断罪的に物事を解釈してしまう。大きなイメージダウンにつながることは確かだろう。
ただし、どんなに糾弾したところで、病人・患者が減るわけではない。問題が発覚したから「しばらく救急は受け入れない」といえば、近辺の連携する病院にその分の負担がのししかかるだけである。それがさらなる問題の引き金にならないか、危惧する次第である。

〈リンク〉
多剤耐性菌感染症の集団発生(いわゆる、アウトブレイク)問題に関する全国医師連盟の見解 - 全国医師連盟、2010年9月10日

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