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繰り返す「天罰」論

■清水幾太郎「地震のあとさき」(『清水幾太郎全集14 わが人生の断片』講談社、1993年、168-184頁より)


 私の一生のうち、中学に入ってからの二年あまりの期間が、一番仕合せであったと言えば言えるように思う。幸い、家の商売は順調であったし、学校は万事ノンビリしていた。しかし、仕合せな期間は、大正十二年九月一日正午に終った。私は、一生のうちで最も大きな経験にぶつかることになった。
 二学期の始業式を終えて家に帰り、裸のような姿で昼飯を食い、食い終ったところへ烈しい震動が来て、家は簡単に潰れ、外出していた父を除いて、私たち一家は、潰れた二階家の下敷になってしまった。私たちが死ななかったのは、落ちて来た天井が卓袱台で支えられたお蔭である。高さ三十センチくらいの卓袱台が僅かに残してくれた小さな真暗な空間は、周囲の壁土が崩れたため、呼吸が困難であった。私は狂人のようになっていた。何分間か、夢中で上へ上へと天井や屋根を毀して行った。毀して行くうちに、小さな穴が出来て、強い日光が射し込んで来た。その穴を大きく拡げて、そこから屋根へ這い上り、一人一人、家族を引き上げた。巡査の勧告か命令かに従って、妹と上の弟とを近くの小学校に預け、父が帰って来るのを待って、火に追われるままに、工場の廃水で出来た泥沼を渡って、東京府下亀戸町の方へ逃げた。これで、私たち一家は、完全な無一物になった。

  …(中略)…

 授業は、十月一日に始まった。九月一日に始業式が行われたのだが、地震のために授業の開始が延期されていたのである。十月一日という日は覚えているが、その日、何処から学校へ行ったのか、これは全く覚えていない。九月一日の後、千葉県国府台の兵営に暫くおり、それから、小松川の荒川放水路に近い知人の家に身を寄せ、その後、本所の焼跡に焼けたトタン板でバラックを作って住んだり、浅草の母の実家の焼跡のバラックへ移ったり、また、本所の焼け跡に新しいバラックを作ったり……とにかく、あちらこちらへ移動しているうちに授業が開始されたのである。

  …(中略)…

 今までと同じように、私は、同級生を校庭に整列させ、号令をかけようとした。ところが、私の姿を見て、彼らはドッと笑った。相手が笑ってしまっては、いくら大声を張り上げても、号令は徹底しない。私は、馬方の被るような大きな麦藁帽子を被り、ゴム足袋を穿いていた。着ていたのは、夏物のシャツであったろう。これらの品物さえ、苦労して手に入れたものである。笑っている仲間は、九月一日以前と全く同じの制服制帽で、そうでないのは、級長の私だけである。学校へ来るまでは、多くの仲間が私と同じ運命に遭ったものと曖昧に想像していたが、来てみると、山の手の少年たちは全く無疵である。九月一日は、私にとってだけ存在し、彼らにとっては存在しなかったようである。笑い転げる仲間に号令をかけながら、私は腹が立ち、恥ずかしくなり、悲しくなった。
 第一時間目の授業は、野村先生担当の「修身」であった。「起立! 礼!」と私は号令をかけた。先生は何もおっしゃらずに、黒板に「天譴」(てんけん)と大書され、更に、「天物暴殄」(てんぶつぼうてん)と大書された。前者は「天罰」というような意味であり、後者は「贅沢三昧」というような意味である。つまり、地震は、私たちの贅沢三昧を戒めるために下された天罰である、というのが先生のお話の大意であった。もし私が仲間から笑われなかったら、私はお話を黙って聞いていたかも知れない。しかし、私は、平静な気持ではなかった。いや、仮に笑われなかったとしても、もし先生の説明を受け容れるならば、このクラスで私だけが天物暴殄の罪を犯して、私だけが天譴を受けたことになるのではないか。私は、先生の説明が一段落つくのも待たずに、右のような趣旨の質問をした。先生が何とお答えになったかは覚えていない。何とお答えになったとしても、私は「天譴」および「天物暴殄」という観念を受け容れることは出来なかった。しかし、もし野村先生御自身が焼け出されたり、御家族を失ったりして、それでも、「天譴」や「天物暴殄」のお話をなさったのなら、私は強く反対しなかったであろう。しかし、先生は何の被害も受けていらっしゃらなかった。
 「天譴」は、野村先生のオリジナルな見解ではなく、あの頃は、誰も彼も「天譴」ということを説いていた。初めに説いたのは、渋沢栄一子爵であったらしい。ケンドリックの『リスボンの地震』(T.D.Kendrick, The Lisbon Earthquake, 1956)という本を読むと、あの時も、「天譴」(visitation)という観念を用いて地震の意味を説明する試みが大いに行われていたようである。しかし、そういうカトリック教会側の神学的説明に対して、ヴォルテールたちは、反教会的な現世的な説明を試み、それによって、やがてフランス革命へ通じる啓蒙思想を発展させて行ったのである。単純な自然現象に過ぎないリスボンの地震は、それに外部から与えられた意味によって、フランス革命を用意し、長く歴史に残ることになった。関東大震災は、終にヴォルテールを持たなかった。その代りに持ったのが、芥川龍之介であった。

 「……この大震災を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり。誰か自ら省みれば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れり思ひ得る所以なるべし。されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは、天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、―当世に行はるる言葉を使へば、自然の我々人間に冷淡なることを知らざるべからず。……自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食ふて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。誰か自ら省みれば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を切断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。……同胞よ。面皮を厚くせよ。『カンニング』を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。」(『芥川龍之介全集』第八巻、岩波書店、昭和十年、二六六頁以下)


 震災を「天罰」とみなす人間は、実際に被災した人たちの深刻かつ“多様な”現実に思いを馳せることなく、早急かつ短絡的に特定の「私たち=日本国民」の物語へと彼らを回収してしまうのだろう。そうした言辞によって、他ならぬ「日本国民」(=被災者とその周辺の人々)が傷つくことがあるにもかかわらず。

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