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ばあちゃん、さようなら

 先週末(4/22-24)、実家・いわきに帰った。祖母が老衰で他界し、通夜・告別式に出なければならなかった。
 祖母は数え年で100歳(満98歳8ヶ月、大正元年生まれ)であった。
 時期が時期なので、叔母や母は、もう少しがんばってほしいと願っていたが、その願いは叶わなかった。
 だが、かえってよかったのではないかと思っている。普通なら、亡くなったらすみやかに通夜・告別式の日程が組まれるはずだったが、祖母の場合は、そうはならなかった。
 月曜日に亡くなったが、通夜・火葬は土曜日、告別式は日曜日だった。そのぶん、家族は祖母と最期の時間を長くとることができ、貴重な思い出をふり返ることができたからだ。棺には、親戚皆の間では周知の事実である、祖母の大好物のスイカが一緒に入れられた。
 このような時期なので、通夜・告別式は、内々に家族葬という形式で行った(家族以外で参集してくださったのは、祖母が人生の最期を過ごした特養施設の職員の方々ぐらいであった)。しかし、おかげで、久々に親戚の方たちともゆっくりと話す時間がもて、和やかな雰囲気で祖母を送ることができた。


 祖母は「靖国の妻」であった。祖父は戦争末期・1945年の7月下旬に、パラオで戦死した。
 小卒の学歴しかもたない祖母は、年端のいかない二人の娘(叔母と母)とともに、戦後の厳しい時期を乗り越えなければならなかった。
 そんな状況下でも、祖母は二人の娘に地元の進学校、そして、四年制大学卒業という学歴を与えた。二人の娘は、教育学部を卒業して、ともに地元いわきの学校教員を定年まで勤め上げた。

 これは、いまも不思議に思うところである。つまり、小卒で田舎育ちの祖母が、女子の「学歴」というものに理解を示していたという事実に対してだ。
 叔母と母が大学に入学した頃は、現在と違ってまだ大学進学率自体が低く、「女子学生」に対する社会の偏見(「女子学生亡国論」など)も根強く存在した時期のはずだ。
 また、祖母は孫が誕生してからは、そのすべての孫(従兄弟二人と私)の子育てに関わった。その孫たちも皆、大学を卒業している。
 こう述べると、いかにも祖母が、子育て・家庭教育に長けていたと思われるかもしれない。だが、おそらく娘や(自分を含めた)孫たちの誰一人として、祖母が特別なスキルを持っていたとは思っていない(もしかしたら、「土着の教育学」とでも呼ぶべき、特別な技術を発揮していたのかもしれない)。むしろ、怒られてばかりでいやな記憶のほうが多いくらいだろう。
 もし、他所より高く評価できる部分があるとすれば、現在はほとんど世間から失われてしまった、着物づくり(裁縫)や着付け、漬物をつくるなどといった生活上の技術に長けていたというところか。
 だが、何よりも、「いつも家に帰ればそこにいた」という安心感を家族に与えていたこと=存在そのものが、祖母が果たした役割だったといえるのだろう。 
 大正-昭和と激動の時代を生き抜いた人間の放つ存在感によって、家族(後の世代)が救われてきたこともあったはずだ。 

 死ぬ間際まで激動の状況(震災・原発事故)とあって、祖母の人生は最期まで苦労の連続だったとしか言い様がない。
 せめて、彼の岸では安らかな日々を過ごしてほしい。
 

 ばあちゃん、さようなら。しばらくぶりに逢えたおじいさんと天国で仲良く―。

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1970年代からの提言

■伊東光晴『君たちの生きる社会』(ちくま少年図書館39、1978年、pp.48-54)より。


自分の国にある資源をもっと利用しよう
 原子力がだめだ。それではいったい日本はどうしたらいいのだという質問がでるでしょう。そうです。しかし考え方によっては、頭を働かせればまだまだエネルギーをつくりだす方法というのはいろいろあるのです。
 電力だけをみても、現在、水力発電所の技術は、かなり進みました。そして四メートルの落差だけでも発電所をつくることができるようになったのです。この技術は、フランスを中心に発展しました。
 日本でも、すこしずつ、低落差でも発電できる技術が進んでいます。静岡県天竜市〔現・浜松市天竜区-引用者注〕にある船明ダムによる三万二千キロワットの発電所の構造は、まだ十メートル落差ぐらいですが、この低落差発電所のものとおなじです。
 こういう低落差発電所が進歩するならば、いままで発電予定地と考えられなかったところが、にわかに発電可能地になります。大都市の近辺にも、そういう発電所ができます。こうしたものをたくさんつくりだすならば、電力の不足にある程度対処することだってできるのです。
 どのくらい、わが国は水力発電をおこすことができるか―これを包蔵水力といいますが、昭和十二年から十六年の調査までは、最大約二千万キロワットの電力をおこすことができると報告されています。だが、昭和四十八年になると、これが二倍以上の約五千万キロワットになりました。日本列島に降る雨の量がかわったわけではありません。開発する技術が進んだためです。…(中略)…資源とは、天然のままのものだけではなく、人間の知恵がこれに加わったものなのです。人間の知恵、人間の努力、これあるがゆえに、石炭も石油も枯渇しなかったのです。資源問題を考えるとき忘れてならないことは、このことなのです。
 …(中略)…
 このようにヨーロッパの科学技術の発展は、すべて、自分の国にある資源を利用して必要なものをつくりだそうと努力したことによります。日本の場合はどうでしょうか。いままでは外国から技術を学んできました。でもその技術は、外国にある資源を外国が利用しようとして研究開発されたものですから、かならずしも日本にすぐにあてはまるものではありません。これからの私たちの学問は、日本にある資源で、日本に不足しているものをつくりだそうという方向に力を入れなければならないのではないでしょうか。そうでないかぎり、石油がないから、こんどは原子力―こういう考え方になり、いずれの資源も日本にないにもかかわらず、なにか、原子力にすると日本のエネルギーの問題は解決するかのように思いこんだりする誤ちをおかしています。

原子力発電は、ムダが多いしとても高い
 原子力が日本のエネルギー問題を解決するのは、もっともっと遠いのちの話し、もっともっと技術が進まなければだめなのです。
 現在、多くの原子力発電所が故障つづきです。…(中略)…こんな不十分な技術なのにつくるのですから、経済的には高くつくエネルギーをつくることになり、そしてまた、公害をまきちらすということになりかねないのです。
 もし、原子力発電所が四十%しか稼働しないとすると、火力発電にくらべ、一キロワットあたりの電力の値段は五十八%も高くなってしまいます。ですから、原子力発電は安い電力をつくるという予想は、現在までのところ、まったく反対です。水力発電所はコストがかかり、高い電力になるといわれながら、まえに書いた船明ダムは、一キロワットあたり八円強の電力を供給しています(1977年)。1977年につくりだす原子力発電所、東京電力の広野一号、二号(合計百二十万キロワット)の電気は七十%稼働で、一キロワットあたり、十一円五十一銭と予定されているのです。
 しかもほんとうの計算をすると、原子力発電所からの電力はもっと高いのです。稼働率が七十%にたっしないからだけではありません。たとえ七十%でも、―です。なぜかといえば、原子力発電所は動き出したならば、とめたり、動かしたりすることができません。昼、電力がいる。そのとき発電する。夜、電力がいらない。その時はとめる。そういうことはできないのです。いったん動きだしたならば、途中でとめるということはむずかしいのです。
 そこで、夜つくりだすムダな電気を使って水を高いところにあげ、たくわえて、昼、電力の需要がふえてくると、その水を落として水力発電をするという揚水式発電所と組み合わせなければなりません。ですから、百万キロワットの原子力発電所といっても、じつは補助の機械として、水力発電所として、揚水発電所をつくらなければならないのです。ところが、原子力発電所でつくった電気で水をあげ、その水を落として電気をつくるとすると、その間にたいへんなエネルギーのムダが出てきます。ですから百万キロワットの原子力発電所といっても、この揚水式発電所をいっしょに計算の中に入れると、発電の能力は八十万キロワットあるかなしかということになってきます。しかも、百万キロワットの原子力発電所というのが二千億円でできたとしても、そのほかに揚水式発電所をつくるために、一千五百億ものお金がかかるのです。それを計算に入れて原子力発電所の発電コストを考えると、もっと高い値段になってしまいます。

おどろかされたら、考えよう 
 問題はまだあります。都市のごみを焼いたとき、その廃熱を利用して電気をおこす―そういう場合には、一キロワット四円ぐらいでしか電気会社は電気を買わないのです。原子力発電所は費用がかかるから、八円で買い、都市の焼却場の熱の有効利用である電気は四円でしか買わない。こんなバカなことがありますか。もし、都市のごみ焼き場の電気をもっと高い値段で買ったならば、こうした設備はたくさんでき、アメリカの物理学者が警告したように、資源の効率的な利用をはかる社会ができるはずなのです。そういう点では、私たちは原子力が未来の技術だと宣伝されているばかりに、なにか肝心なことを忘れているのではないでしょうか。
 私たちはおどろかされたり、待てよと思って、ものごとを深く見きわめていくことが必要なのです。


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