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条例案はモチベーションを下げるほうにしか働かない

■大阪の高校、来春は「狭き門」?…募集定員、受験予定者に2000人不足

 大阪府内の来春の高校入試で、公私立高合わせた募集定員の総数が、府内の受験予定者数より約2000人も少ないことがわかった。
 地域政党・大阪維新の会が府議会に提案した教育基本条例案が成立すれば、定員割れが3年続いた府立高が統廃合されることもあり、今春入試で定員を満たせなかった多くの府立高が統廃合の対象となるのを避けようと、事前に定員減を求めたためだ。前例のない異常事態で、府教委は4日、私立高側に「定員を増やして生徒を受け入れてほしい」と緊急要請する。


 こうなることは、すでに予想されていなかったのだろうか?

 “競争的に評価がなされるとなれば、いっそう精進する”というのはある種の神話である。
 実際は、“(学校での指導だけではどうにもならない)否定的な要因を、あらかじめ排除する方向に動く”、“より低いところに=十分達成可能なところに目標を設定し、その達成度をアピールする”という方向に動く可能性がはるかに高い。
 よりコストをかけずに成果を挙げるという効率的な方向で、現場は動くようになる。
「無駄を切り捨てる」(=すでに一定程度の学力をもっている児童生徒だけに力を注ぐ。新任教員のことなど知らない。同僚性など構築しない…)という方向に動くのである。

 しかし、教育はその「無駄」を掬い上げるという、市場主義的な発想では捉えられない側面を有している。それを「自己責任(もしくは親の責任)」で切り捨てるのが、大阪の教育基本条例案の前提にある発想だろう。
 だから、この条例案が可決したところで、大阪の教育全体が悪くなることはあっても、よくなることはないだろう。現実化するのは、あらゆる面(子どもの学力・意欲、教員のモチベーション)での二極化(差別化)の進行だろう。そうなれば、ますます教員の間には、低評価校のところには赴任したくない、という負の雰囲気が蔓延するはずだ。「有能」な教員は特定の地域にとどまりたがり(それをめぐる賄賂も水面下で進行する?)、教育の不平等・格差が拡大する可能性が高い。
 それでいいのだ(それが「よい教育」なのだ)と府民がいうのなら、もう何も言うことはない。私はただ、大阪の先生方に心から同情し、無責任な物言いだが、他の自治体に移ったら(他の自治体は、特別枠を設けてそれこそ大阪からの熱心な教員を吸い上げる制度設計をしたら)と促すだけだ。

   ◇   ◇   ◇

 「前例のない異常事態で、府教委は4日、私立高側に『定員を増やして生徒を受け入れてほしい』と緊急要請する」と記事は述べている。
 公立校がこの様なのだから、地域の教育全体がよくなることなどありえないだろう。
 学校の定員を増やすということは、必ずしも生徒のためのよい学習環境を保障することにならない。むしろ逆である。教室などの設備は限られているのに生徒数を増やしても、学習環境がよくなるはずがない。教員一人当たりの生徒数増加など、教員の多忙化を引き起こす可能性のほうが高い。もし私立高側が府教委の要請を受け入れるならば、それは経営的(カネの問題)な判断によるものであって、教育的判断とは言い難いだろう。
 “公立校へ行ったほうがいろいろな意味で得。私立校はずさん。”。
 そんな評価を、私学側は甘んじて受け入れるのだろうか(少子化の今なら受け入れるかもね)。  

   ◇   ◇   ◇
 
 “定員割れが続けば、統廃合の対象になる”。この種の再編基準は、自治体によってはすでに導入されている。宮城県がそうだ(った? 震災後の今はどうなのか)。
 だが、統廃合をめぐる再編基準を県内一律に採用するとき、ある問題が起きてくる。
 例えば、すでに学級数・教員数を減らされて、統廃合手前にある高校(まちに一校しかない高校)がそれを阻止すべく、一丸となって生徒確保の努力をしたとする。結果、生徒数が増えたとしても、県側(教委)があらかじめ設定している基準によって、学級数や教員数はそのまま。がんばって生徒を確保した結果、教員一人あたりの生徒数が増え、生徒の学習環境としてはかえって悪くなる、改革が進むほど教員がさらに多忙化して環境としては悪化する結果を生む―。
 がんばればがんばるほど状況が悪くなるという悪循環の問題である。予算上の問題があるから、県側はどうしても学級数や教員数は一律の基準に固執し、状況改善には至らない―。

 以上は、宮城県で実際に起こった、ある高校の事例である。
 一方で、がんばっている学校を応援しながら、他方では県内一律の再編基準の存在によって学校改革が阻害される。統廃合の問題は、すでに以上に示したような問題を引き起こす可能性をもつ。
 そうなる可能性を大阪は事前に想定しているだろうか。柔軟に問題に対処しようとしているだろうか。それとも、あくまで教師に「がんばれ」と精神論をぶつけるつもりだろうか(たまったもんじゃないね)。

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学校建築を見るべきだってか

◇京都では学校建築を見るべきだ @nifty:デイリーポータル

◇東京でも学校建築を見るべきだ @nifty:デイリーポータル

 こういう擬洋風の歴史的学校建築(いずれも大学)をみていると、当時の人たちが、いかに進んだ文明に心酔し、本気でその様式や技術を取り入れようとしたか、どれだけ本気で新しい知に学び、その世界を再現しようとしたかが伝わってくる(と同時に、理念に欠ける勤務校の建築を嘆く…。やはり、空間の神聖性に配慮することも大事だ。)。

 最高学府である大学は、まさに進んだ知や文化を取り入れる最先端の現場だった。
 今では、皆あたりまえのように使っている「教師」という言葉。今や、全国には百万人を越える数の学校の先生がいるが、もともと「教師」という肩書きで呼ばれた人たちは、欧米から招聘した御雇外国人だったといわれる。
 わざわざお招きした彼らの習慣に合わせて、大学の慣行も形成された。
 一足制(下足のままで建物に入っていいという大学だけの学校慣行はなぜあるのか)、日曜日が休日、夏休み……。今では、あたりまえのように日本人もこなしているこれらの習慣(一足制は除く)もすべて、もともとは彼らの生活習慣に合わせて設定されたものである。

 そうまでして、貪欲に進んだ文化を取り入れ、また自ら体現してやろうという気概が、建築を通して表出されているように感じる。

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