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「教育学部(学科)です」という気恥ずかしさと誠実さ

(新入生オリエンテーションにて~実際には文面が長いのですべて話せなかったけど)

 教育学部に入学された皆さん、おめでとうございます。皆さんは、記念すべき「教育学部第一期生」という貴重な肩書きがついてきます。そのことは、心に留めて置いていいでしょう。

 さて、入学早々に唐突ですが、皆さんにこんな質問を投げてみます。

 「何学部(に入学したの)ですか?」と尋ねられて、「教育学部(学科)です」と答えるのに躊躇するということはないでしょうか。ある種の気恥ずかしさを感じることはありませんか。

 どうでしょう。


 私は、常にそう感じてきました。

 私自身、学生時代は「教育学部」に所属していましたし、大学教員になった今もこうして教育学部(学科)に所属し、“教員”をやっているわけですが、現在もそのような感じをもっています。
 他人から職業と部局を尋ねられて「教育学部(学科)で教えています」と答えるのは、かなり躊躇します。

 ちなみに、さっき私は自分の職業を大学“教員”といいました。似た言葉として、“教師”という言葉がありますが、自分を“教師”“先生”と呼ぶことも、またそう呼ばれることもにも躊躇いを感じます。


 なぜ、そのような感覚をもつのか?

 単純な話です。
 自分ごときがひとさまに「教える」、あるいはそれについて論じるといったことがおこがましい、と感じるからです。「先生」と他人から言われていい気になりたくもありません。
 
 とはいえ、学校に行けば、「先生と生徒」(大学ならば「先生と学生」)という役割を自然と引き受けることになります。今、我々がこうしているように。
 しかし、ひとたび学校の外に出れば、そこにそのような役割関係を「演じる」必然性はありません。教室の権力関係にしばられる必要はありません。公共の空間では、どの人も同列に扱われます。そのときに~つまり「教師」や「先生」という肩書きを取っ払ったときに~、自分には何が残るのだろうと考えた時、他人と比較して何か取り柄があるわけでもない、特段誇れるような社会貢献をしているわけでもない、むしろ、自分よりすぐれた結果を残している人はいくらでもいると思ってしまうと、果たして、そんな自分が他人に何かを教える資格があるのだろうか? こう思ってしまうわけです。

 そういう人たちにとっては、「教師」や「先生」というコトバや肩書きには、ある種、威光を発する魅惑の力があります。
 でも、それにすがることは、自分を過大視し、現実から目を背けてしまう危険性があることも理解すべきでしょう。その肩書きは、必ずしも自分の「人間としての地力・底力」を証明するものではありませんから。
 
 皆さんの多くは、将来教職に就くことを希望して入学したのだと思います。

 しかし、ここまでの話をふまえて言えば、まず、他人に教えうるだけの地力を鍛える―、学校教育以前に〈自己教育〉をこそ自身の問題として引き受ける必要があるといえるのではないでしょうか。
 他人に「教える」前に、自分自身が「学び続ける」、そういう存在になってほしいと願います。学ぶこと≒勉強することが嫌いなのに、他人に「教える」資格など本来持たないはずです。
 その意味でなら、我々大学教員も、多少は皆さんの手本となる存在になれると思っています。
 大学教員の本質は、“教師”というよりはむしろ“研究者”=学び続ける人たちだからです(私自身の学生時代を振り返ってみても、「授業」の記憶よりは、先生方との直接的な対話や研究される=「学び続けている」先生方の背中をみて触発された記憶のほうが鮮明です)。

 大学という場は、まだ答えの出ていない社会のいろいろな問題を探究し続けるところです。その点が、これまでの学校教育とは決定的に異なります。

 我々大学教員は、皆さんに何かを「教える」というよりは、皆さんと一緒に「学ぶ」機会を共有したいと願っているものです。 
 もちろん、授業という「教える」行為も真面目にやりますけれども、それが皆さんに大きな影響を与えるとは正直思っていません。少なくとも私自身は、自分の学生時代の経験もふまえてそう断言します。

 むしろ、正課の授業を一つのきっかけとして、それ以外の機会に皆さん自身が、各自の力で、大学内のさまざまなツール~図書館などのハードだけでなく、大学で知り合った仲間たち、そして授業以外での教員~を使って自主的に知識や能力を獲得し、自分を耕していってもらいたい。そのようにして、自力で獲得したものしか、生涯残っていかないはずです。

 自分の今の現状に嘘をつくことなく、足もとをしっかり見つめ、謙虚になり、愚直に歩みつづけること。
 それが、最終的には“教育”という文化的な営みにつく自信を得るための、あるいは社会に出て自立した生活を営むための、重要なプロセスだと思います。

 皆さんは、今ここに、そのはじめの一歩を踏み出しました。
 たとえ短くても、その一歩をしっかりと踏みしめ、次への確実なステップにして、前に進みつづけてください。 
 私も、この業界ではまだまだ若輩者。といっても、すぐに成果が出せるわけでもありませんから、地道に歩き続けていきます。
 お互い、いろいろなことを「学び合って」いきましょう。

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コメント

はじめまして、こんにちは。
私は岐阜県の某大学で教育学部に所属しているものです(学生)。
私もバイト先や友達・親戚の方に「大学はどこなの。」「学部は。」とよく聞かれますが、聞かれるたびに「一応今日いう学部です。」と必ずと言っていいほど「一応」問う言葉を前につけて言います。なぜかといえば、私自身が教師になる資格を持って人間ではないと思っているからです。教える立場の人間になることは私の夢でしたし、今もそれは変わりません。ですが、私ごときが教える立場の人間になっていいのかどうかよく自問自答をします。それを繰り返すたびに出る答えが、このままではだめだという答えです。このままでは、教える立場の人間になれたとしても児童生徒に迷惑をかけてしまう。そんな事ではだめだという気持ちにさらされます。
他の学生はどう考えているかはわかりませんが、私自身今でも教育学部という名前には頭が上がりません。

投稿: こみち | 2013/07/12 14:31

>こみちさん
 はじめまして。
 私は、こみちさんのように考えるのが、健全な教職志望学生のあり方だと確信しています。
 皆、教師「になる」のであって、最初から教師「である」人はいません。そして、「理想の教師像」を前に自問自答できる人間でなければ、教師としての成長は望めないのではないでしょうか。
 私は学生に、“教師にとって最も大切なのは「省察力」だ”とよく言っています(体力だとか熱意だとか、そういうものに増して)。こみちさんにはすでにその萌芽があるように思います。ぜひ研鑽なさってください。
 昨今、世間の新人教師に向ける目線には冷たいものがありますが、若い先生の特権は「悩むことを通して、(子どもたちと共に)成長することができる」ことです。未熟さを逆手にとる「たくましさ」も求められているのが現状ですが、それも「自分はまだまだだ」と言えればこそできることです。そんなある種の繊細さや慎重さこそが武器になると私は信じています。
 大学生活のなかで、ぜひ豊かな教育観を育んでください。小手先の技術よりも根本的に重要なのは、そこだと思います。

投稿: タカキ | 2013/07/13 02:28

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