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なぜ、学生は“本音ではそうでもない”教職を志望するのか

 勤務先に赴任後、教職科目を担当するなかで、以下のことがたえず気になってきた。
 すなわち、学生たちは、一口に「教職志望」とはいうものの、実際のところ、教職をめざした勉強をしていない(いるようにみえない)という現状である。加えて言えば、彼らの志望動機は、ほぼどれもありきたりなものである。「子どもが好きだから」「恩師の影響」が理由の9割を占める。それ以上の、彼らの展望がまったくみえてこないのである。


 それは、筆者がこれまで学生に対して行ってきたアンケートなどからも明らかである。
 そして、そんな彼らの多くが、学年があがるごとに教職を断念していく。本学で単位を取り、教員免許をとることは決して難しい問題ではない。GPA2.2という制限を設けているが、これは近隣の他大と比較しても、決して高い数値ではない。それに学生の成績については、相対評価を義務づけているわけでもない。こちらが設定した基準をクリアできれば、いくらでも高い評価を出せるのである。
 にもかかわらず、学年があがるごとに教職課程履修登録者は順調に減少していく。


 このような現状をどう理解すべきか。(学生のなかには、「親が言うから」という学生もいる。本人の希望ではないのである。ここまで来ると、半分は親の問題である)。


 この問題について、私が行き着いた仮説は次の通りである。

 すなわち、彼らが教職をめざすのは「教師になりたい」からではない。もちろん、彼らとて「なれればいい」とは思っている。だが、おそらく、学校教員を取り巻く環境や勤務実態を知れば、「それでも教員になりたい」と断言する学生は減るはずである。

 そうではなく、彼らは「自己承認を得たい」のだ、そういう深層心理が彼らのなかにあるからだ、というのが私の仮説である。
 
 大学のカリキュラムには、少人数のゼミも用意されているし、彼らが積極的に前に出る機会などいくらでも準備できる。だが、彼らはその輪の中に入ってこない。こちらが与えても入らない。
 先月、学部の初等教育コース(小学校教員養成課程)において新入生合宿をはじめて行ったのだが、学生たちの言動をみているかぎり、彼らが、これまでの学校教育の経験においてリーダーシップを発揮したケースはほとんどないのではないか、という印象をもった。これは、私だけの見解でなく、合宿に参加した教員の共通見解である。
 AO入試の面接などで、彼らの志望理由書や学校からの書類をみても、彼らが生徒会や○○委員長のような経験をしていると記されているケースは稀である。 
 彼らは、どちらかといえば、そこから二、三歩ひいたポジションにいた、あるいはそこにしかいられなかったのだろう。だから、いざとなると、腰が引けてしまうか、端から自分は関係ないというポジショニングをとってしまう(これは、いわば潜在的カリキュラムのなせるわざである)。
 それでは、このような立場にいる彼らの「承認」は、それまでの学校教育の経験において、いったいだれが、どこで、どのようなかたちでしてくれたのであろう。


 そして、このような彼らのポジショニングは、学力によって影響されていることが多い(「学力の高い人が、学級委員にふさわしいから」というように)。
 本学に入学してくる学生たちの学力の現状は決して芳しいものではないが、それは当然ながら、入学前における学校教育から継続している。場合によっては、彼らは担任や進路指導の教師から厳しい扱いを受けてきたかもしれない。
 そもそも、これまでの「教育学科学生の生活実態調査」に即していえば、本学入学者の6割強は不本意入学者である。入学時点で、彼らはすでに「自己承認」から遠ざかった地点にいるのである。そのような彼らの「承認」を、いったいだれが、どのようなかたちでしくれているのであろう。

 
 このように見るならば、学生たちは、これまでの学校教育において、決して自身が望むような経験をしてきているとはいえない(もし、しているとすれば、授業外の、部活動などでの経験だろう)。
 それでも彼らは、自身が苦手なはずの勉強を教えるという職業を選択し、自身にとって決して望ましい環境ではなかった現場へと戻ろうとするのである。
 

 ただし、今度戻ろうとする彼らには、「教員免許取得予定者」という肩書きがつく。それは、「自己承認」を得るための、強力な通行手形になりうる。
 もしかすると、学生たちは、「教える立場に立つ」というかたちで、改めて「自己承認」を得られなかった現場に立ち返り、今度こそそれを実現したいと考えているのではないか。


 このような認識枠組みで捉えるのでなければ、私には、彼らの一連の行動を理解できない。

 そして、彼らの深層心理がこの通りだとすると、それはかなり危険な兆候である。
 彼らは、「教師-生徒」という非対称の、権力関係を意識的に「自己承認」のために利用しているようにもみえるからだ。あたりまえだが、教育実習校とそこの生徒たちは、実習生の個人的な理由に付き合うためにいるのではない。
 だが、それを自覚せず、また、十分な力もつけずに現場に出てしまえば、当然、生徒たちに振り回されて問題を起こすはめになる。その先に、どんな問題が起きるか。昨年度までの実習生の現状から結論を知っているだけに、危険なのである。


 「自己承認」は、努力に対する「結果」として得られるものである。だが、彼らは、教職課程をその有効な「手段」として考えている節がある。

 これを打開するには、教職以外で彼らの「承認」の場を与えていかなければならない。大学教育にしても、これまでの学校教育同様、否、それまでにもまして、彼らを挫折へと追いやる厳しい成績評価システムによって運営されているからである。

 では、具体的にどうすべきか。
 やはり、まずは少人数の授業を積極的に導入すべきだ、というのが私の持論である。
 あたりまえのことに聞こえるかもしれないが、本学では、いまだにマスプロ授業が主流である。勉強が苦手な学生たちにとって、一方的に聞くだけの講義は、自信を失わせるもの以外の何物でもないはずである。また、「自分は大多数のなかの一個」でしかない、という認識を持ってしまえば、それは、容易に怠惰な授業態度につながり、最終的には、「学びからの逃走」の果てに、モラトリアム志向を強める結果となってしまうだろう。
 もちろん、大人数の「授業」でも、学生の参加を促すことは可能ではあるが、本学においてそれを行うというのは、膨大な時間と労力と技量が要る(本学のように、300~400名を超える受講生が来る授業もある場合を想定すると、それを要求するのは、とても厳しい)。その実現には、相当な職人技が必要になる。教育学部はともかく、他学部の先生方が、積極的に授業改善に乗り出してくれるであろうか。自分の見通しは暗いといわざるを得ない。

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