« 2012年6月 | トップページ | 2012年12月 »

学生の学校依存を垣間見る

 授業(日本教育史)のレポートで、学生に対し、次のような問いを投げてみた。

  「自分史を語るうえで、重要と思われる歴史的な出来事は何か?」

 この問いには、力点というべきところが二カ所ある。
一つは、「自分史を語るうえで、重要と思われる」という箇所
二つは、「歴史的な出来事」という箇所

 力点をどちらに置くかで、出てくる答えは違ってくる。

 が、自分としては、「自分史」を記述するうえで、自分の思想体験に影響を及ぼした「歴史的=現代史・同時代史の出来事」について書いてほしい、という思惑があった。
 というか、当然、そういう前提で書くものと思っていた。
 「歴史的な出来事」と限定は、それくらい大きな意味をもっていると考えていた。
 だから、「アメリカ同時多発テロ」や「東日本大震災」などの回答(解答)が多数を占めるであろうと予測しており、彼らなりの論述の切り口がどんなものか、といったところに期待していた。彼らなりの社会との切り結び方について知りたかった。


 だが、完全に肩透かしをくらってしまった。
 学生たちは、この問いにどう答えたか。

 「中学生(高校生)のとき、部活の大会で……。それで、自分に自信がついたこと」云々といったものが、多数である。いや、ほんとに多数である。

 それ以外には、「部活の顧問の先生が……、それで学校の教師をめざそうと思った」「部長になった経験が……」などといった回答や、「○年生のとき、いじめにあった」とか、「浪人して、この大学に入学したこと」とか、である。


 回答のほぼどれもが、学校に関係する出来事である。しかも、学校での「授業」に関した出来事では、ほとんどない。
 授業以外の、部活や友人関係がほとんどすべてといっていいほどの状況なのである。
 だから、はっきりいって、内容的には個性的ではない。むしろ、どれも型にはまった回答という状況だ。
  
 学校経験以外の回答を探し出すのが困難である。少数意見としては、例えば、地域(学外)のスポーツ系・文化系のクラブ・サークルや、病歴に関するものがあった。
 だが、それも含めて、学生の回答は一様に、自身のプライベートに関するものばかりである。
 この種のプライベートな(時に赤裸々な)回答ばかり読まされては、さすがに食傷してしまう。


 彼らにとって、自分史の画期といったとき、まず間違いなく、学校に関係した出来事が思い浮かぶ―。
 これはこれで、たいへん興味深い状況である。
 学校という制度の、日本の社会に占める、その意味の大きさに改めて驚かされる。

 しかも、彼らの回答には、もう一つ特徴がある。それは、その学校経験のなかに、自身の自尊感情の在処を見つけているということである。
 自分としては、それとはまったく逆の問題―自分の無知や未熟さを知った思想体験―を想定していただけに、これもまた、興味深い傾向として印象に残った。

 「興味深い」というか、正確にいえば、“問題は根深い”なのだが―。


 この結果を受けて、今回自分が断片的に考えたのは、次の三点である。

(1)
 「今の学生には、社会への視点がない。高校までの学校教育でも社会と接する時間が少ない」という意見を、度々聞くことがある。
 だが、問題はそれでは済まない。
 むしろほとんどすべての学生達、あるいは子どもたちは、積極的に、学校の中に自分のアイデンティティの在処を求めている(求めたがっている)ということである。視野が狭いといえばそうであるが、とはいえ、これが日本国民の多くに共有されている指向であると考えるならば、解決はそう簡単ではない。
 昨今のいじめ問題にしても、そうである。
 いじめられっ子に、「逃げろ」といっても、自分の自尊感情の拠が学校以外に「ない」となれば、「逃げる」ことのほうが難しい。

(2)
 論点は、この「学校化社会」の強固さをどうやって解体するかということになると思うが、おそらく、その実現はむずかしい。〈学校-職業〉の間断なき移行をめぐるシステムが機能し続けてきたこの社会にあっては、なおさらである。
 この間の、大津市のいじめ問題をめぐる報道で、国民の学校不信・教育不信は一段と高まったと推測するが、かといって、「もう学校(=既存の枠組み)に期待するのはやめよう」という世論はなかなか聞かない。
 むしろ逆で、いっそう学校に奮起を期待する方向へと向かっている。一連の学校バッシングにしても、そうである。結局は、学校という存在の大きさを再確認することにつながっている(だから、安心して、定型的なバッシングを繰り返せる。自分だったら、そんな「学校」なんかにもう期待しないで、もっと別の道を考えたらどうだろう。教育=学校ではないのだから、と思うのだが……。教育学部の教員が、こんなこといったらダメですか?)。


(3)
 先述のような傾向が本学に特徴的なものであるとしたとき、では、「学校がいっそう彼らの自尊感情の向上に取り組むべきなのか」、それとも、「もっと学校以外への視点を育んでいくべきなのか」。
 「どちらも」というのが、今の大学教育が置かれている状況なのだろう。

 だが正直、前者の立場をとるとしたとき、「新たな知見の創造」(学問的に学ぶ)というスタンスはほとんど取れないのではないか。
 つまり、学生たちに「無知の知」という知的体験をさせるより、まず先に「よくできました」的・習得主義的な体験をさせなければならないからだ(「学生生活実態調査」の結果も、そんな学生の志向性を表わしている)。
 これは、授業での学生からのコメントやアンケートを読んでいて、ひしひしと感じる。「これって実は、こんな見方もあるんだよ。おもしろくない?」というのが通じない。
 「難しかったです。もっと勉強して、次は、正解できるようにがんばります」といった回答ばかり返ってくる。勉強するのはいいが、別に正解しろ、などといっていないし、わざと間違う問題をこちらは仕掛けているのに、その間違いを受け入れる余裕がない。

 こちらは、その間違いを通して、自身の認識を変えてほしいという願いがある。
 しかし、学生側としては、何より「正解」して褒められ、そのことを通して、自尊感情を得たい。 

―このズレを、どう修正していくべきなのだろうか。
 先日の、学部創立記念行事の際に、学部長は、「学問的に学ぶ体験をしてほしい」と学生に語ったが、学生には届いていないだろうなぁ、と個人的には予想している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年6月 | トップページ | 2012年12月 »