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[ブクマ]「国定ポエム」というネーミングがうまい



>「完全にJ-POP歌詞の劣化コピーである」
 この発想はなかった。さすがの切り口。
 
>要するに「心のノート」は総じて「心」に期待しすぎなのである。「心」さえ変えれば、少年犯罪はなくなるし、学級も崩壊しないし、いじめや不登校もなくなる。もしもそれが本当ならば、そんなに経済的なことはない。軍隊はもちろん、警察さえも必要ないということになる。まさにユートピアだ。
 自分は日本道徳教育学会には入会していないが、「道徳の時間」に批判的でかつ同学会の会員になっているというある方から以前、「(この学会には)学者にしろ、現場の先生にしろ、ロマンチックな発想の人が多いんだよ」とのコメントを聞いたことがある。

>残された疑問は、毒にも薬にもならない国定ポエム集「心のノート」をこれからも配り続ける意味があるのか、ということである。愛や希望や自分探しの言葉はJ-POPや少女漫画に溢れているし、勧善懲悪で、正義や友情の大切さを訴える物語は『週刊少年ジャンプ』にいくらでも掲載されている。校内放送にJ-POPでも流していれば、それでいいんじゃないかと、僕は思う。心から。
 『心のノート』が事業仕分けの対象になったのは、この意味で妥当だった。実際「現場ではほとんど使われていなかった」という証言を、指導学生の何人からも聞いた。それが学校現場で生じている問題に対して何の解決にもならないことを、さらに言えば、『心のノート』の掲げる理想と教室で起きている現実との乖離が生み出す白々しさを、教師も生徒も知っていたからだろう。
 
 ただ、ポエムな言葉に共鳴したくなる若者たちというのはいるわけで、自分が勤務校で担当している教職科目「道徳の指導法」でも、J-POPや漫画を教材として「心」に訴えようとする指導案を書いてくる学生が毎年一定数でてくる。その種の授業が、フィクションを通して一時的に感傷に浸るだけのものでしかないということに、学生たちはどれだけ自覚的だろうか。
 もちろん、感傷に浸ることが問題だと言いたいのではない。そんなことをいちいち教師に従わされて授業としてやらねばならないということをもう少し問題にしてもよいのでは、と言いたいだけである。だが、道徳教育に熱心な先生=「心は通じる!」と信じる理想主義的な先生(まあ、ほとんどがそうだろう)と議論してもなかなか同意してくれない、というのが私がこれまでに経験したのかぎりでの現状である(今回の古市氏のような主張は、教育界ではなかなかお目にかかれない。だが、もっとこういう突き放した視点が必要なのではないか)。

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道徳を教科化する前に考えるべきこと(3)

もう一つの、大きな問題点として挙げられるのは、
心情主義的志向性
である。
 つまり、道徳を「個々人の心の問題」として捉える傾向であり、例えば、ある道徳的課題となりうる事実やエピソードに対し、個々人の中にあらわれた心情をもってそれを解釈する、という傾向を意味する。
 そこでは、重要なのは個々人の内面に生じる「心」「気持ち」であり、知識やそれを活用した思考ではない。とにかく、心で何かを思うことが大事なのである。
 しかも、「道徳に正解はない」=特定の思想、価値観を生徒に押し付けるのはよくないという授業認識(≒自分のことを否定されたくないという「承認欲求」の裏返しだろうか)だけは学生はすでに強く持っているので、結局のところ、生徒に資料に関する感想を言わせて終わるという、授業展開になってしまう。生徒のまだまだ未熟で一面的なものの見方を揺さぶる契機を見出せずに終わってしまう。
 「知・情・意」や「知・徳・体」の調和といった校訓が、今でも学校では使われることが多い。しかも、それを教育で具体化しようとするときには、「知育とは独立して徳育を」「知識も重要だが、一方で心の教育も」という、各働きをそれぞれ独立の領域で育てるという(領域論的)認識で捉えがちである。
 だが、本来、何かを思うという感情の働きと、何かを知るという認識とは、切り離して考えることのできないものだろう。例えば、戦争の被害、その悲惨な状況について、実際の写真や体験談を通して詳細に知る。それにより、自分の心の中に「戦争に対する否定的な感情」や「平和への願い」といったものが湧き起こる、といったように、何かを知るからこそある気持ちにもなれるのであって、前提におくべきは「知る」=事実認識をじゅうぶんに保障するという活動である。
 それをせずに、さあ、この問題について話し合いましょう(そして、何かを思いましょう)といっても、それは単に生徒に問題を丸投げしているにすぎない。
 鹿川君の事件を扱うにしても、「(葬式ごっこをされた時)鹿川君はどんな気持ちだったでしょう」といった発問をし、生徒に何かを言わせたところで意味はない。実際、鹿川君の置かれた状況は、われわれの想像を絶するはずであり、簡単に感想などいえるはずはない(し、言ってはならないと思う)。
 それよりも、事件の詳細について「知る」ことが先である。鹿川君がいじめられる前に別の生徒がいじめられていたこと、そして、鹿川君もいじめる側のグループに入っていたことなどを「知る」と、この事件の問題背景がさらにみえてくるはずである。そして、「なぜ、(葬式ごっこをされた時)鹿川君は『笑う』という振る舞いをしたのか」といったことを理解しなければ、いじめの構造へと考察をおよぼすことはできない。
 一つの事例からでも、学べることはたくさんある。事件の詳細を「知る」ことができる、多くの手がかりにアクセスすることから始めればよいのである。
 そして、生徒の「知る」働きを保障するために時間を費やすこと(=教材研究)こそ、授業の専門家である教師がしなければならない作業であろう。それなくして、ただ生徒に答えさせるだけなら、給料泥棒と思われてもおかしくない、教師の怠慢である。
 それに「どうしたらいじめを解決できるか」といった問題についても、「強い気持ちを持とう」などと生徒に言わせることには、何の意味もない。「思っていてもできない、リスクを払いたくない」から問題なのだし、生徒の多くが教室を一歩出るともう忘れている、というのが常態ではないか。
 ちなみに、私の「道徳の指導法」授業では学生にこんな質問もしている。「もし、自分がいじめられている生徒の立場だと仮定する。どう対処する?」。すると、実に半分近くの受講生が「先生には言わない(誰にも相談できない)」「試練だと思って耐える」と答える。「教師は信頼できない」と述べる学生もいる(「じゃぁ、なんで教職をめざしてんのよ?」とツッコミたくなる。自分は違うと言いたいのだろうが、その根拠のない自信こそが危険だということには思いが至らないようだ)。教職志望の学生からしてこの状況なのだから、中学生ならなおさら「思っていてもできない」のではないのか。
 そもそも、教育現場はただ手をこまねいているわけではない。いじめへの対処についても、すでにすぐれた実践例がある(例えば、寺岸和光氏(金沢大学附属小学校教諭・当時)の「いじめを越えた子どもたちとの歩み」)。
 各地でいじめを予防・解決するための具体的取り組みが蓄積されている。生徒自身が主体となって対策を実行している例もある。それらを学習者自身が調べ、「知る」という活動のほうがはるかに有益である。それを「知る」ことが、そのまま「自分の身を守る」という不安の解消にもつながりうるし、学校・教師に対して「自分たちの提言」を行うといった実践への道も拓ける。
 
  ■  ■
 
 教員養成の現場に関わっての立場をふまえつつ、「道徳を教科化する前に考えるべきこと」について述べてきた。
 私の言いたいことは、次の2点に集約される。

①教師が主体的に道徳の授業に取り組む条件づくりについて考える


②道徳の授業にもっと「知る」という働きを持たせることが必要
 
 現在の道徳教育論議は、教育現場の意見を軽視した、政府の独断専行でなされている。しかし、実際に行うのは最前線の教師である。教師達が自らの授業力を鍛えていく機会を保障することもなく、「とにかくやれ」というのは無茶である。ただ、現場の負担を増やしているにすぎない。教員免許更新講習や行政研修でやればいい、というのも違う。授業実践の力は、あくまでOJTでこそ鍛えられるものである(教壇から離れた場での講習が担うのは、理論化の部分だろう)。やはり、その教師が置かれた状況・文脈に即した試行錯誤を経なければ、よい授業実践を生み出すことはできない。単に、教科書・指導書というパッケージをポンと下ろして強制すればどうにかなると思っているのならば、その発想が貧困である。むしろ、「教科書なんか下らない。何より、実際に社会で起こっているこの問題を、いろんな事実・資料をもとに深めさせていかないといけない」という現場教員の主体的な問題意識こそが、実践を発展させていく。そういうものだろう。だが現状、その条件=教師が自由に研究する環境への視点が欠けている。
 
 そして、道徳授業のイメージを「心を育てる」といった心情主義的志向で捉える教育思想は、すでに述べたように、授業の貧困化に拍車をかける可能性がある。
 そもそもある問題について「(ある気持ちになるように)心情を養う」(授業の「ねらい」で、こういう文言をよくみかける…)ということ自体、学習者側の複雑な実態を無視した、無謀な発想ではないか。
 どうしてもある「心情を育てたい」のなら、そのような心情が起こるようになる何事かを認識させることが、さきに必要になる。それが生徒が「身につまされて知る」ものになれば、見通しはつくだろう。しかし、それは簡単ではない。むしろ、まずはある道徳的課題・事実について「生徒が身につまされて知る」ためにはどうすればよいか、という「知識・理解」を第一に考えるべきだろう。それならば、教師の側も戦いようがある。
 そして、道徳的課題・事実について「知る」機会というのは、何も道徳の時間に限られるわけではない。各教科でも、特別活動でも、日々の学校生活でも、さらには学校教育外のあらゆる生活の場で、生徒はたえず何かを認識し、そしてそのたびに何らかの感情を抱いている。
 授業者の責務は、それらの問題を整理し、その認識(事実・事象を捉える眼)を高度なものにしていくことだろう。 道徳にかかわる問題はほぼすべて、社会問題として身近に存在するものである以上、それらに向き合う機会は、別に道徳の時間でなくとも、社会科や総合的な学習の時間ですでに保障されているではないか。だったら、まず、そちらを再考することのほうが順番として先ではないのか―
というのが、私の認識である。
 とりあえず、私の「道徳の指導法」授業では、最後の試験で、②について、学生たちの理解を験す論述問題を課しているが(現在、採点中)、感触は悪くない。言葉の上では学生たちは理解はしているようである。それをどう感情的に受けとめたかは知らないが。たぶん、「佐藤は、俺たちが『ものを知らない』と言いたがっている。それが説教臭い。いやなヤツだ」というのが大勢だろう。それでも、これを機に、彼らが生徒の事実認識をじゅうぶんに保障する道徳授業のためと、足を使って教材研究に真摯に取り組んでくれるなら、私としては何ら問題ない。(了)

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道徳を教科化する前に考えるべきこと(2)

「生徒に、ただ言わせて終わるだけの授業展開になっている」

「勘違いのオープン・エンド授業である」

 自分が勤務校で担当している「道徳の指導法」授業で、受講学生(約200名)のレポート=学習指導案に朱でコメントを入れるのだが、もっとも多くなるのがこのコメントである。ほとんどすべての指導案でこの問題が生じている。
 
 少し、課題レポートの中身について触れておく。
 私が実施しているのが、次の方法である。
 題材は、1985-6年の、鹿川裕史君いじめ自殺事件。
 「葬式ごっこ」に使われた色紙の画像や鹿川君の遺書をもとに事件の概要を示した後、受講学生たちにはこちらが予め指定した資料を使うことを必須条件にした授業計画を考え、指導案にまとめるよう連絡をする(第2回授業時。資料を指定すれば、指導案をパクりたくてもパクれなくなる)。課題締切は、全15回の授業の、第10-11回あたりを想定、そして、第14回目にはレポートを返却し、講評を行うという具合である。
 
 指定する資料は、豊田充編著『いじめはなぜ防げないのか―「葬式ごっこ」から二十一年―』(朝日新聞社、2007年)所収の、「自分が弱い人間であることを知られるのが、死ぬほどいやだった  岡山君(仮名)」である。 
 鹿川君のクラスメイトだった岡山君が、事件から八年後に認めた手記である(もとは『「葬式ごっこ」 八年後の証言』風雅書房、1994年所収)。
 その部分のみを切り取って読み物資料として再構成し、学生たちに読ませ、それを必ず用いた一時間分の「道徳」授業を計画させる。
 岡山君の証言からは、いじめの問題構造や、いじめを止められなかった要因など、実にいろいろな問題を読み取ることができる。傍観者的加害者的立場の視点から、鹿川君をフォローできなかったのはなぜなのか、また、自分のほうが体が大きく腕力もあったのに、なぜ主犯格の生徒達に対抗できなかったのか、といった論点についての考察ができる、きわめて貴重な資料といってよい(そもそも、このような傍観者的立場からの証言自体珍しい)。このようにして、いじめ問題を考えるための事実認識が保障された資料を使うことで、単に教師の「いじめは絶対にダメ」という説教を聞き流すだけの授業を乗り越え、いじめという現実を生み出す原因や問題構造について分析し、その解体方法について生徒が自ら探究できることを「ねらい」とする授業を構想することができる―。
 以上が課題レポートの概要である。
 この課題に対して、学生が立てた指導計画にみられる大きな問題点が、先述した「生徒にただ言わせて終わるだけの授業展開」「勘違いのオープン・エンド授業」だというわけである。
 彼らの考えた「学習指導過程」(「本時の展開」)をみると、最初に資料を読ませた後、その資料の論点(今回の場合、いじめ)についてグループになって考えさせる、という授業構成になっている。ほとんどすべての指導案がそういう授業展開である。そして、そこにはほとんど教師の働きかけが見られない。生徒にグループで意見交換をさせ、その成果を発表させれば、それで授業としてはオーケーだという認識が透けて見える。だが、そこには生徒の思考が触発され、学びが深まるための教師の知的働きかけがまったく反映していない、という問題点がある。
 もっと言えば、授業者自身の思想がまったく見られない。ただ生徒がグループになって議論すれば、自動的に生徒の学びが深まるかのような発想で授業構成が考えられているように見えるのである。
 もちろん、そうならないよう「指導法」授業内で指導もするのだが、なかなか学生たちは意識できない。
 それはなぜか。教材研究・解釈がまったく足りない、資料を読み込むだけの読解力が足りない(=基礎学力の問題)などの理由が大きい。
 だが、ここではそれ以外に、大きな問題点として2点、挙げておきたい。
 一つは、彼らの「道徳」認識である。自分は毎回の授業で、その参加度(=出席状況)をはかるためにリアクション・ペーパーを作成し、学生たちに“自身が小・中学校時代に受けた道徳授業の記憶”などいくつかの質問をし、書いて提出してもらっている。初回の授業で尋ねたものに次の質問があった。「道徳の授業は、他の教科よりも、行うのが難しいと思う。/(選択肢)1.はい 2.いいえ 3.どちらともいえない」「そのように答えた理由を書きなさい」。
 結果として、今年度は175人(204人中)の学生が「はい」と答えた。そして、そのうちの多くの学生が「(各教科と違って)道徳には、正解がないから、どう教えてよいかわからない」と理由を述べている。
 「正解がない」というのは、「だから、何をどう考えてもよい」とイコールではない。だが、まだ学生たち自身、道徳的課題について思考を深める訓練ができていないため、生徒の思考を深めるための授業者の知的働きかけ(発問や資料提示)も発想できていない。結果、生徒にグループ活動をさせ、意見を発表させておしまい、という問題につながる。
 「思考を深める訓練」「知的働きかけ」といっても、そう難しいことを言っているのではない。要は、たくさん本を読み、問題について考えるための材料を蓄積できているかどうかということである。今回の場合、「いじめ」が問題になっているのだから、たくさんある関連文献にあたり、少しでも知見を深めれば、生徒たちの議論を活発にする発問や指示への色づけができるだろうということを指しているに過ぎない。そのためのヒントとして、初回授業時には「参考文献リスト」を提示し、学生たちにはとにかく図書館に足を運べ、「頭より、足を使って」考えろと言っている。だが、それを実行できている学生は少ない。
 そのため、 「君たちは、中学生に議論をふっかけられたとき、やりあえるか」「『自分はこう考えるんだけど、みんなはどうか?』と生徒に異論をぶつけるよう働きかけられる思想をもっているか」「生徒たちに『ぶつけるだけの自分』はおありか」と、指導案講評時に学生たちに言わざるをえなくなる。
 「道徳には正解がない」という認識が、結局、教師の存在がまったく見えない指導案(「生徒にただ言わせて終わるだけ」)という問題に帰結している。
 これは「指導法」のみで解決できる問題ではない。教育方法の問題ではなく、教育内容の問題だからだ。生徒たちに学ばせるべき道徳的課題(社会問題)について、その背景や問題構造、すでに議論されている内容などについて十分に知るという作業を抜きに、指導技術だけがうまくなる、ということはありえない。
 これは、別に道徳に限ったことではない。だが、教職課程において道徳教育について学ぶことを求められるのは、この「道徳の指導法」だけである。教職課程の単位として倫理学や哲学などを学ぶことはできるが、必修というわけではない。道徳授業の内容面を充実させるために、いかに教職志望学生たちの思考や哲学を耕すか。彼らが現場に出て、教材研究・解釈に向き合えるような土台をどう作るか、ということを教科化の前にもっと議論すべきではないか。そうしないと、いざ教科になったところで、「つまらない」「記憶に残らない」道徳授業の「形骸化」の現状は、依然として変わらないだろう。
 要は、教師の教材研究の〈自由〉を保障するための条件づくりが必要ということである。教師が自ら教材研究をし、すぐれた授業を構想するための基礎体力を鍛えなければ事態は改善しない。「教科書を指定して、そこに書いてあることを指導書を参考に教えなさい」というお仕着せの授業でうまくいくはずがない。
 とはいえ、どうしても、(私の勤務校に限らず)教職課程を履修する学生の内には、「これを学べばうまく授業をすることができる」といった「万能薬」がどこかに存在するという固定観念がある。
 よい授業を行おうとするならば、相当の準備が必要であるのは当然である。その準備とは、生徒を惹きつける教材を探し当てる=「足を使って、まず授業者自身が学ぶ」という、時間のかかる作業を意味する。
 「ほとんど自分自身が学んでいないのに、教師として授業をする」という姿勢に立つことがいかに問題かは、少し考えればわかるはずなのだが、学生たちはそれを直視するのを嫌う。「教師こそ、まずはバカになるべきだ。容易には理解できないという立場に立って、学び直す苦労ができれば、その学びのプロセス自体が、すぐれた授業展開に置き換わることになる」と自分は学生に言うことがあるが、受験勉強をあまりしてこなかった学生たちには、なかなか理解されにくい。
 そして、実は「道徳」という言葉は、そんな授業者の知識不足=学ぶ苦労をしなくてもよい、ということを肯定してしまいやすい、ある種のマジックワードとして機能してしまう側面がある。
 ※それとも関わる、二つめの問題点については、次のエントリで。

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道徳を教科化する前に考えるべきこと(1)

 現在、全国の小・中学校で実施されている「道徳の時間」が、早ければ2018年度から「特別の教科」になる可能性がある(「道徳:『特別の教科』に 教科書導入へ、18年度にも」『毎日新聞』2013年12月26日、20時00分

 現在の「道徳の時間」は、教科ではなく、各教科、特別活動や「総合的な学習の時間」と並ぶ、教育課程の一つの「領域」という位置づけである。
 それを教科にするということは、(文科省での教科書検定を通った)教科書*を使って授業を行い、その学習成果を評価するという指導プロセスの厳正化を意味している。とりあえずは、そう考えていいと思う。
*「今だって、教科書を使って授業しているじゃないか」と思われるかもしれないが、それは誤解である。現状、教科ではないのだから、検定を経た教科書自体が存在していない。一般には「副読本」と呼ばれる。義務教育では教科書は無償だが、副読本はその対象ではない。だから、自治体で予算を計上したり、学校が有償で生徒に買わせて、校内で管理しておくというケースが多かったのではないか。


 道徳の教科化という改革方針は、第一次安倍政権の時にも掲げられていた(当時もやはり、いじめ問題が大きく取り上げられた時期だった。が、ご存じのように、1年で総理が辞任したので、教科化は達成されなかった)。
 「右翼の軍国主義者」で歴史修正主義者である安倍首相のことだから、その本当のねらいが「“偏狭な”愛国心の涵養」にあることはすぐにわかる。
 しかし、表向きには大津市の事件が話題となり、それに乗じて(「いじめ問題が深刻な状況にある今こそ」)、一気にやってしまった感は否めない。
 少なくとも、現場は、間違いなく反対派が多数である(「道徳教科化『反対』6割以上」『日本教育新聞』2013年5月6日号)
 教育雑誌(教育Zine)のネットアンケートでも、反対が多数であるし、教育関係者に限らず、多くの人たちが、道徳に効果があるとは、ほとんど思っていないだろう。
 自分も反対である(現在の「道徳の時間」すら、不要だと思っている)。そのことは、このブログの過去の記事でも書いているし、道徳教育の困難さについてもまた触れてきた。
 ちなみに、自分は学生時代に道徳教育史に関する論文を書いていた関係で、勤務大学の教職課程では「道徳の指導法」(中学校教員免許取得希望者対象、標準履修年次は1年次)を担当している。
 「そんなやつが教えているなんてケシカラン」と言われるかもしれないが、私と同じ思想をもった大学教員(教育学者)はたくさんいる、というか、そういう教員のほうが多数ではないか。
 私はむしろ、教育史的観点から道徳教育(修身教育)改造の変遷を眺め、いかにそれが困難と形骸化に満ちた歴史だったかを垣間見、道徳教育を突き放して捉える眼を持っているぶん、他の教員よりも(実務家型教員よりも)「道徳の指導法」に適任だと思っているくらいである(といっても、学生の関心は薄いので、授業ではほとんど道徳教育史には触れないが)。
 「いったい、どんなことを教えているのか」と疑問に思われるかもしれない。だが、教えていることは、ごくごく普通である。“学生が実習先で「道徳の授業をやって」と言われても大丈夫なように”という課題意識で指導案の書き方について教え、レポートとして提出させたり、実際の実践例の紹介や検討を行ったり―である。「指導法」の名に違わない従順さである。
 実務家型教員との認識の違いがあるとすれば、
「道徳は教えられるのか」「(教えられるとすれば)教えられる道徳とは、いったいどんなものか」といった、率直な問題提起を学生に提示できるということ(昨年暮れに出された、道徳教育の充実に関する懇談会報告でも、この「教えられるのか」という視点は欠如している。とにかく「教えねばならない」一色である。
そして、
道徳を「個々人の心の問題」と捉えることを峻拒する
といった点だろう。
 その具体的な中身については、ここでは触れない。
 今回、自分が触れたいと思っているのは、教員養成の現場で「道徳の指導法」(以下、「指導法」)を担当している立場から見えてきた、ある問題についてである。
 「道徳の時間」である今の段階でも、これは大きな問題ではないか、と考えている。
 先述したように、自分は「指導法」の授業で学生に学習指導案作成をレポートとして課している。
 毎年約200名の学生にそれを行わせ、添削し、返却するという作業をしている(結構な苦行である)。
 その中で気づいた、ある問題=学生の中にある、授業実践に関する一つの傾向性についてである。
 
 それは、「(グループ活動を通して)『生徒に、ただ言わせて終わるだけ』の授業を、ほぼすべての学生が考える」というものである。
 
 ※つづきは、次のエントリで。

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平成も四半世紀

 昨年暮れにやっていたテレビ番組で気づかされたのだけど、元号が「平成」となってすでに四半世紀が経ってしまったということに驚いてしまった。
 すでに『平成史』というタイトルを付した本も出版されているが、改めて「四半世紀」といわれると、自分が多感な時期を送った青少年期は、もはや現代“史”、同時代“史”という枠組みでとらえなければならない時期に来たのだと痛感する。
 
 大田堯編著『戦後日本教育史』(岩波書店)は1978年(戦後=1945年から、33年後)の刊行、久保義三『昭和教育史』(上・下、三一書房)は1994年(新版は、東信堂、2006年)の刊行だったが、「平成」の日本教育史は、ここ10年くらいのうちに刊行されるときが来るのだろうか。
※ちなみに、WebcatPlusで“昭和教育史”と検索すると、海老原治善『昭和教育史への証言』三省堂、1971年がもっとも古い文献として引っかかってくる。

 以前、歴博の講演・対談(「現代史を展示する」2012年11月1日)を聴講したとき、講演者の入江昭氏は、70年代以降の「最近史」(comteporary history)を捉える視角として、次の5点を提示された。①経済のグローバル化、②(国境を越えた)人権問題の広がり、③環境問題への関心の高まり、④(国境を越えた)人の移動、そして、⑤(EUに代表される)地域的共同体への視点。
 では、冷戦構造の終焉に位置づけられる1989年以降=平成の教育の歴史を捉える視角としては、どのようなものがありうるのか―。
これは現在の教育に対する強い問題意識なくしては、考えることができない作業である(クローチェ「すべての歴史は現代史である」)。
 
 教育制度改革をめぐる同時代的諸動向(教員養成や道徳教育、教育委員会制度や大学教育など)は、決して対処療法的に捉えようとするだけでは消化できない難題ばかりである。
 今年はもう少しこのブログを更新し(早くも挫折しそうですけど)、この難題に対する自分の考えを理論化していきたい。
 自分がブログを始めたそもそものきっかけは、言葉を紡ぎだす作業を通じて「教育を見る眼」を鍛えたいというところにあった(実際、身になることが多かったと思う。ブログで書いたネタを、大学授業での教材に反映させたこともあった)。
 だいぶ鈍っている気がするが、あまり目標を高くせず、少しずつやっていきたい。

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