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道徳を教科化する前に考えるべきこと(3)

もう一つの、大きな問題点として挙げられるのは、
心情主義的志向性
である。
 つまり、道徳を「個々人の心の問題」として捉える傾向であり、例えば、ある道徳的課題となりうる事実やエピソードに対し、個々人の中にあらわれた心情をもってそれを解釈する、という傾向を意味する。
 そこでは、重要なのは個々人の内面に生じる「心」「気持ち」であり、知識やそれを活用した思考ではない。とにかく、心で何かを思うことが大事なのである。
 しかも、「道徳に正解はない」=特定の思想、価値観を生徒に押し付けるのはよくないという授業認識(≒自分のことを否定されたくないという「承認欲求」の裏返しだろうか)だけは学生はすでに強く持っているので、結局のところ、生徒に資料に関する感想を言わせて終わるという、授業展開になってしまう。生徒のまだまだ未熟で一面的なものの見方を揺さぶる契機を見出せずに終わってしまう。
 「知・情・意」や「知・徳・体」の調和といった校訓が、今でも学校では使われることが多い。しかも、それを教育で具体化しようとするときには、「知育とは独立して徳育を」「知識も重要だが、一方で心の教育も」という、各働きをそれぞれ独立の領域で育てるという(領域論的)認識で捉えがちである。
 だが、本来、何かを思うという感情の働きと、何かを知るという認識とは、切り離して考えることのできないものだろう。例えば、戦争の被害、その悲惨な状況について、実際の写真や体験談を通して詳細に知る。それにより、自分の心の中に「戦争に対する否定的な感情」や「平和への願い」といったものが湧き起こる、といったように、何かを知るからこそある気持ちにもなれるのであって、前提におくべきは「知る」=事実認識をじゅうぶんに保障するという活動である。
 それをせずに、さあ、この問題について話し合いましょう(そして、何かを思いましょう)といっても、それは単に生徒に問題を丸投げしているにすぎない。
 鹿川君の事件を扱うにしても、「(葬式ごっこをされた時)鹿川君はどんな気持ちだったでしょう」といった発問をし、生徒に何かを言わせたところで意味はない。実際、鹿川君の置かれた状況は、われわれの想像を絶するはずであり、簡単に感想などいえるはずはない(し、言ってはならないと思う)。
 それよりも、事件の詳細について「知る」ことが先である。鹿川君がいじめられる前に別の生徒がいじめられていたこと、そして、鹿川君もいじめる側のグループに入っていたことなどを「知る」と、この事件の問題背景がさらにみえてくるはずである。そして、「なぜ、(葬式ごっこをされた時)鹿川君は『笑う』という振る舞いをしたのか」といったことを理解しなければ、いじめの構造へと考察をおよぼすことはできない。
 一つの事例からでも、学べることはたくさんある。事件の詳細を「知る」ことができる、多くの手がかりにアクセスすることから始めればよいのである。
 そして、生徒の「知る」働きを保障するために時間を費やすこと(=教材研究)こそ、授業の専門家である教師がしなければならない作業であろう。それなくして、ただ生徒に答えさせるだけなら、給料泥棒と思われてもおかしくない、教師の怠慢である。
 それに「どうしたらいじめを解決できるか」といった問題についても、「強い気持ちを持とう」などと生徒に言わせることには、何の意味もない。「思っていてもできない、リスクを払いたくない」から問題なのだし、生徒の多くが教室を一歩出るともう忘れている、というのが常態ではないか。
 ちなみに、私の「道徳の指導法」授業では学生にこんな質問もしている。「もし、自分がいじめられている生徒の立場だと仮定する。どう対処する?」。すると、実に半分近くの受講生が「先生には言わない(誰にも相談できない)」「試練だと思って耐える」と答える。「教師は信頼できない」と述べる学生もいる(「じゃぁ、なんで教職をめざしてんのよ?」とツッコミたくなる。自分は違うと言いたいのだろうが、その根拠のない自信こそが危険だということには思いが至らないようだ)。教職志望の学生からしてこの状況なのだから、中学生ならなおさら「思っていてもできない」のではないのか。
 そもそも、教育現場はただ手をこまねいているわけではない。いじめへの対処についても、すでにすぐれた実践例がある(例えば、寺岸和光氏(金沢大学附属小学校教諭・当時)の「いじめを越えた子どもたちとの歩み」)。
 各地でいじめを予防・解決するための具体的取り組みが蓄積されている。生徒自身が主体となって対策を実行している例もある。それらを学習者自身が調べ、「知る」という活動のほうがはるかに有益である。それを「知る」ことが、そのまま「自分の身を守る」という不安の解消にもつながりうるし、学校・教師に対して「自分たちの提言」を行うといった実践への道も拓ける。
 
  ■  ■
 
 教員養成の現場に関わっての立場をふまえつつ、「道徳を教科化する前に考えるべきこと」について述べてきた。
 私の言いたいことは、次の2点に集約される。

①教師が主体的に道徳の授業に取り組む条件づくりについて考える


②道徳の授業にもっと「知る」という働きを持たせることが必要
 
 現在の道徳教育論議は、教育現場の意見を軽視した、政府の独断専行でなされている。しかし、実際に行うのは最前線の教師である。教師達が自らの授業力を鍛えていく機会を保障することもなく、「とにかくやれ」というのは無茶である。ただ、現場の負担を増やしているにすぎない。教員免許更新講習や行政研修でやればいい、というのも違う。授業実践の力は、あくまでOJTでこそ鍛えられるものである(教壇から離れた場での講習が担うのは、理論化の部分だろう)。やはり、その教師が置かれた状況・文脈に即した試行錯誤を経なければ、よい授業実践を生み出すことはできない。単に、教科書・指導書というパッケージをポンと下ろして強制すればどうにかなると思っているのならば、その発想が貧困である。むしろ、「教科書なんか下らない。何より、実際に社会で起こっているこの問題を、いろんな事実・資料をもとに深めさせていかないといけない」という現場教員の主体的な問題意識こそが、実践を発展させていく。そういうものだろう。だが現状、その条件=教師が自由に研究する環境への視点が欠けている。
 
 そして、道徳授業のイメージを「心を育てる」といった心情主義的志向で捉える教育思想は、すでに述べたように、授業の貧困化に拍車をかける可能性がある。
 そもそもある問題について「(ある気持ちになるように)心情を養う」(授業の「ねらい」で、こういう文言をよくみかける…)ということ自体、学習者側の複雑な実態を無視した、無謀な発想ではないか。
 どうしてもある「心情を育てたい」のなら、そのような心情が起こるようになる何事かを認識させることが、さきに必要になる。それが生徒が「身につまされて知る」ものになれば、見通しはつくだろう。しかし、それは簡単ではない。むしろ、まずはある道徳的課題・事実について「生徒が身につまされて知る」ためにはどうすればよいか、という「知識・理解」を第一に考えるべきだろう。それならば、教師の側も戦いようがある。
 そして、道徳的課題・事実について「知る」機会というのは、何も道徳の時間に限られるわけではない。各教科でも、特別活動でも、日々の学校生活でも、さらには学校教育外のあらゆる生活の場で、生徒はたえず何かを認識し、そしてそのたびに何らかの感情を抱いている。
 授業者の責務は、それらの問題を整理し、その認識(事実・事象を捉える眼)を高度なものにしていくことだろう。 道徳にかかわる問題はほぼすべて、社会問題として身近に存在するものである以上、それらに向き合う機会は、別に道徳の時間でなくとも、社会科や総合的な学習の時間ですでに保障されているではないか。だったら、まず、そちらを再考することのほうが順番として先ではないのか―
というのが、私の認識である。
 とりあえず、私の「道徳の指導法」授業では、最後の試験で、②について、学生たちの理解を験す論述問題を課しているが(現在、採点中)、感触は悪くない。言葉の上では学生たちは理解はしているようである。それをどう感情的に受けとめたかは知らないが。たぶん、「佐藤は、俺たちが『ものを知らない』と言いたがっている。それが説教臭い。いやなヤツだ」というのが大勢だろう。それでも、これを機に、彼らが生徒の事実認識をじゅうぶんに保障する道徳授業のためと、足を使って教材研究に真摯に取り組んでくれるなら、私としては何ら問題ない。(了)

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