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道徳を教科化する前に考えるべきこと(2)

「生徒に、ただ言わせて終わるだけの授業展開になっている」

「勘違いのオープン・エンド授業である」

 自分が勤務校で担当している「道徳の指導法」授業で、受講学生(約200名)のレポート=学習指導案に朱でコメントを入れるのだが、もっとも多くなるのがこのコメントである。ほとんどすべての指導案でこの問題が生じている。
 
 少し、課題レポートの中身について触れておく。
 私が実施しているのが、次の方法である。
 題材は、1985-6年の、鹿川裕史君いじめ自殺事件。
 「葬式ごっこ」に使われた色紙の画像や鹿川君の遺書をもとに事件の概要を示した後、受講学生たちにはこちらが予め指定した資料を使うことを必須条件にした授業計画を考え、指導案にまとめるよう連絡をする(第2回授業時。資料を指定すれば、指導案をパクりたくてもパクれなくなる)。課題締切は、全15回の授業の、第10-11回あたりを想定、そして、第14回目にはレポートを返却し、講評を行うという具合である。
 
 指定する資料は、豊田充編著『いじめはなぜ防げないのか―「葬式ごっこ」から二十一年―』(朝日新聞社、2007年)所収の、「自分が弱い人間であることを知られるのが、死ぬほどいやだった  岡山君(仮名)」である。 
 鹿川君のクラスメイトだった岡山君が、事件から八年後に認めた手記である(もとは『「葬式ごっこ」 八年後の証言』風雅書房、1994年所収)。
 その部分のみを切り取って読み物資料として再構成し、学生たちに読ませ、それを必ず用いた一時間分の「道徳」授業を計画させる。
 岡山君の証言からは、いじめの問題構造や、いじめを止められなかった要因など、実にいろいろな問題を読み取ることができる。傍観者的加害者的立場の視点から、鹿川君をフォローできなかったのはなぜなのか、また、自分のほうが体が大きく腕力もあったのに、なぜ主犯格の生徒達に対抗できなかったのか、といった論点についての考察ができる、きわめて貴重な資料といってよい(そもそも、このような傍観者的立場からの証言自体珍しい)。このようにして、いじめ問題を考えるための事実認識が保障された資料を使うことで、単に教師の「いじめは絶対にダメ」という説教を聞き流すだけの授業を乗り越え、いじめという現実を生み出す原因や問題構造について分析し、その解体方法について生徒が自ら探究できることを「ねらい」とする授業を構想することができる―。
 以上が課題レポートの概要である。
 この課題に対して、学生が立てた指導計画にみられる大きな問題点が、先述した「生徒にただ言わせて終わるだけの授業展開」「勘違いのオープン・エンド授業」だというわけである。
 彼らの考えた「学習指導過程」(「本時の展開」)をみると、最初に資料を読ませた後、その資料の論点(今回の場合、いじめ)についてグループになって考えさせる、という授業構成になっている。ほとんどすべての指導案がそういう授業展開である。そして、そこにはほとんど教師の働きかけが見られない。生徒にグループで意見交換をさせ、その成果を発表させれば、それで授業としてはオーケーだという認識が透けて見える。だが、そこには生徒の思考が触発され、学びが深まるための教師の知的働きかけがまったく反映していない、という問題点がある。
 もっと言えば、授業者自身の思想がまったく見られない。ただ生徒がグループになって議論すれば、自動的に生徒の学びが深まるかのような発想で授業構成が考えられているように見えるのである。
 もちろん、そうならないよう「指導法」授業内で指導もするのだが、なかなか学生たちは意識できない。
 それはなぜか。教材研究・解釈がまったく足りない、資料を読み込むだけの読解力が足りない(=基礎学力の問題)などの理由が大きい。
 だが、ここではそれ以外に、大きな問題点として2点、挙げておきたい。
 一つは、彼らの「道徳」認識である。自分は毎回の授業で、その参加度(=出席状況)をはかるためにリアクション・ペーパーを作成し、学生たちに“自身が小・中学校時代に受けた道徳授業の記憶”などいくつかの質問をし、書いて提出してもらっている。初回の授業で尋ねたものに次の質問があった。「道徳の授業は、他の教科よりも、行うのが難しいと思う。/(選択肢)1.はい 2.いいえ 3.どちらともいえない」「そのように答えた理由を書きなさい」。
 結果として、今年度は175人(204人中)の学生が「はい」と答えた。そして、そのうちの多くの学生が「(各教科と違って)道徳には、正解がないから、どう教えてよいかわからない」と理由を述べている。
 「正解がない」というのは、「だから、何をどう考えてもよい」とイコールではない。だが、まだ学生たち自身、道徳的課題について思考を深める訓練ができていないため、生徒の思考を深めるための授業者の知的働きかけ(発問や資料提示)も発想できていない。結果、生徒にグループ活動をさせ、意見を発表させておしまい、という問題につながる。
 「思考を深める訓練」「知的働きかけ」といっても、そう難しいことを言っているのではない。要は、たくさん本を読み、問題について考えるための材料を蓄積できているかどうかということである。今回の場合、「いじめ」が問題になっているのだから、たくさんある関連文献にあたり、少しでも知見を深めれば、生徒たちの議論を活発にする発問や指示への色づけができるだろうということを指しているに過ぎない。そのためのヒントとして、初回授業時には「参考文献リスト」を提示し、学生たちにはとにかく図書館に足を運べ、「頭より、足を使って」考えろと言っている。だが、それを実行できている学生は少ない。
 そのため、 「君たちは、中学生に議論をふっかけられたとき、やりあえるか」「『自分はこう考えるんだけど、みんなはどうか?』と生徒に異論をぶつけるよう働きかけられる思想をもっているか」「生徒たちに『ぶつけるだけの自分』はおありか」と、指導案講評時に学生たちに言わざるをえなくなる。
 「道徳には正解がない」という認識が、結局、教師の存在がまったく見えない指導案(「生徒にただ言わせて終わるだけ」)という問題に帰結している。
 これは「指導法」のみで解決できる問題ではない。教育方法の問題ではなく、教育内容の問題だからだ。生徒たちに学ばせるべき道徳的課題(社会問題)について、その背景や問題構造、すでに議論されている内容などについて十分に知るという作業を抜きに、指導技術だけがうまくなる、ということはありえない。
 これは、別に道徳に限ったことではない。だが、教職課程において道徳教育について学ぶことを求められるのは、この「道徳の指導法」だけである。教職課程の単位として倫理学や哲学などを学ぶことはできるが、必修というわけではない。道徳授業の内容面を充実させるために、いかに教職志望学生たちの思考や哲学を耕すか。彼らが現場に出て、教材研究・解釈に向き合えるような土台をどう作るか、ということを教科化の前にもっと議論すべきではないか。そうしないと、いざ教科になったところで、「つまらない」「記憶に残らない」道徳授業の「形骸化」の現状は、依然として変わらないだろう。
 要は、教師の教材研究の〈自由〉を保障するための条件づくりが必要ということである。教師が自ら教材研究をし、すぐれた授業を構想するための基礎体力を鍛えなければ事態は改善しない。「教科書を指定して、そこに書いてあることを指導書を参考に教えなさい」というお仕着せの授業でうまくいくはずがない。
 とはいえ、どうしても、(私の勤務校に限らず)教職課程を履修する学生の内には、「これを学べばうまく授業をすることができる」といった「万能薬」がどこかに存在するという固定観念がある。
 よい授業を行おうとするならば、相当の準備が必要であるのは当然である。その準備とは、生徒を惹きつける教材を探し当てる=「足を使って、まず授業者自身が学ぶ」という、時間のかかる作業を意味する。
 「ほとんど自分自身が学んでいないのに、教師として授業をする」という姿勢に立つことがいかに問題かは、少し考えればわかるはずなのだが、学生たちはそれを直視するのを嫌う。「教師こそ、まずはバカになるべきだ。容易には理解できないという立場に立って、学び直す苦労ができれば、その学びのプロセス自体が、すぐれた授業展開に置き換わることになる」と自分は学生に言うことがあるが、受験勉強をあまりしてこなかった学生たちには、なかなか理解されにくい。
 そして、実は「道徳」という言葉は、そんな授業者の知識不足=学ぶ苦労をしなくてもよい、ということを肯定してしまいやすい、ある種のマジックワードとして機能してしまう側面がある。
 ※それとも関わる、二つめの問題点については、次のエントリで。

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