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同僚の「浅田真央論」に触発されて

 本日は、職場=教育学部教員の懇親会。私の、懇親会係としての今年度最後の役回りであった。
 学部FD研究会の司会業務からの学部懇親会司会というコンボは毎度きついのだが、来年度はこの職務から解放される予定である。ホッ…。

 この間の、巷の話題といえば、ソチ冬季五輪だろう。
 今日の飲み会での、同僚のK谷先生が熱弁をふるった「浅田真央論」はひじょうに面白かった。
端的にいえば、それは、「浅田真央=研究者・求道者」というものである。
 以下、概要を記してみたい。

   ■   ■
 

 今回の五輪の結果は、周知のとおりである。残念ながら、浅田選手はメダル獲得には至らなかった。だが、彼女の滑りに多くの人々が魅了されたのは言うまでもないだろう。

 それがわれわれ「日本人の期待だったから」というのは、ちょっと違う。
 少なくとも同業者=プルシェンコをはじめとする世界有数のフィギア・スケーターの、彼女への評価はひじょうに高い。それは、twitter等での浅田エールからも明らかである。

 それは、なぜか。
 浅田選手のプログラムは、他の誰も成し遂げられない演技への挑戦だった。言うまでもなく、今回の五輪でトリプルアクセル(3A)という高難度の技に挑戦したのは、浅田以外にはいなかった。そして、忘れられがちだが、オリンピックという舞台で3Aを成功させたのは伊藤みどりと、浅田以外にはいないのである。しかも浅田は、今後抜かれることはないといえるほど、オリンピックの舞台で3Aを成功させた。彼女自身が成し遂げたギネス記録のさらなる更新である。
 それは、他の人間ではなしえない芸術の探究であり、レフリーごときが採点できるものではない―点数に表してはいけない代物だった。

 他の選手の演技は、(当然だが)いかによいレフリー(=既定)の評価を得るかというところに力点を置いたプログラムだったといえる。
 一方、浅田の演技は、そのような型におさまる評価の枠組みを越えようとする豪傑な試みだった。

①これを、教職課程の履修学生に置き換えてみたらどうだろう。
多くの学生は、よい評価(GPA)を得るために、教員側にすり寄った立居振舞いをするだろう。だが、そのような姿勢からは、灰谷健次郎『兎の眼』に登場する足立先生のような人材が育つ可能性は見込めない。どこまでいっても、プログラムに規定された評価の枠組みにおさまる人材こそがよいということにしかならない。
 それでよいのか。

②また、これを、研究者の世界に置き換えてみたらどうだろう。
 いかにも無難な評価を得て掲載されそうな、しかし、読む側からすれば大して知的好奇心を喚起されない報告書的論文を読まされるのと、非常に挑発的で、学界には容易に受け入れられないだろうが、しかし読み手の好奇心を喚起する論文を読むのとでは、どちらが話題にされるか。そして、研究者はどちらのスタンスを理想とするのか。 
 

 

 今回の浅田選手の演技もそのような問題を提起する質のものではなかったか、というのが、フィギア・スケートファンという、同僚先生の主張であった。
 なるほど、プルシェンコや羽生が浅田を高く評価するのはそういった点ゆえか、と思った次第である。
(たとえ評価されないとしても)メダルという、世俗的な価値を超える演技を求めようとした浅田真央の姿勢をこそ、我々は評価しなければならないのではないか―。

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[リンク]国定道徳教育教材『私たちの道徳』

■道徳教育用教材「私たちの道徳について」@文部科学省、2014年2月14日

 文部科学省編『私(わたしたち)たちの道徳』(小学校1・2年生用、小学校3.4年生用、小学校5・6年生用、中学校用の4冊)が、2月14日に公表された。約9億円もかけた代物で、以前の『心(こころ)のノート』と比較して約1.5倍の頁数になっている(中学校の場合、以前の『心のノート』全144頁から私たちの道徳』全240頁に増量。1.666…倍になった。各頁の文字数も増えているので、情報量としてはかなり充実したといえる)。平成26年度から使用する教材として、全国の小中学校に配布される。

 本の冒頭には、お節介にも「家庭で―家の人と話し合いながら」「地域で―地域の人と交流しながら」といった、学校以外での「この本の使い方」が記されている。学校外でも使える教化資料というわけである(でも、うまい使い道あるだろうか?)。

一瞥して、「使いづらい」と、多くの教師は思うのではないか。
そう思える理由はいくつかあるが、私が「これはだめだ」と思ったのは、各トピックの最後にある記入欄だ。「感じたこと、考えたこと(を書いてみましょう)」という欄がある。中学校用だと、この欄(ほんとに簡単に、「感じたこと、考えたこと」とだけ書いてある)が頻繁に登場する。


 私は、担当科目「道徳の指導法」で、「『感じたこと、考えたことはありますか』というのは、一番ダメな発問だ」と学生に注意している。「別に(ない)」と言われれば、それでやりとりが終わってしまうからだ。「道徳は答えがないんだから、何かを感じさえすればよい」という発想は、最終的に「生徒に読ませて終わり、書かせて終わり」「生徒に言わせっぱなし」という「勘違いのオープン・エンド授業」に帰結する。実際、そうなってしまう受講生のレポート(「道徳の時間」の学習指導案)が多かった(その背景にあるのは、指導方法云々ではなく、それ以前の教材研究不足にあるということは以前のエントリでは述べた)。
 そもそも、読み物資料を読んで学べるのは、道徳に関する「文字で学ぶ知識・情報」であって、イコール道徳ということにはならないだろう。
 資料を読んで、とりあえず「何かを感じなければならない」というのなら、生徒はとりあえず頭に浮かんだ言葉を並べてそれで終わってしまう。だが、それでは、生徒の思考や学びが深まる授業にはならない。生徒が「何かを感じる(ある気持ちになる)」、あるいは「何かを考える」ためには、その前段階として「何かを知る」という作業が必要となる。知識と道徳とは、そう単純に切り離して考えられるものではない。
 この点、宇佐美寛氏が何度も述べているように、まずは「多様な事実認識を保障すべき」であって、そのうえでなければ、何かを考えさせることも感じさせることもできない。そして、多様な事実認識を保障するためには、一つの道徳教材・資料の中の世界だけにとどまっていてはいけない。道徳とは本のなかの問題でも心の問題でもなく、われわれが生きる社会の問題である。道徳が「社会的状況における意志決定のあり方」を指すと捉えるならば、本のなかの世界ではなく、現実の社会的状況を詳細に観察することのほうが重要である。
 下村文科相は、「教師が一方的に教えるのではなく、あるべき道徳を子どもに多様な角度から考えさせる内容にした」と、14日の記者会見で語ったようである(『朝日新聞』2月15日)。だが、本当に「多様な角度から考えさせる」ためには、『私たちの道徳』が示すのとは別の、たくさんの視座を、教師がさらなる教材を通して生徒に保障する必要が出てくるだろう。『私たちの道徳』が出されてもなお、まだまだ教師の実践上工夫できる余地がたくさんある(教師の創意工夫なくしては、道徳教育の現状は何ら変わらない)。
 現場の先生方には、この『私たちの道徳』だけに寄りかかった授業だけはしてもらいたくないし、教員養成の現場にいる身として、引き続き学生の教材研究への意識を高める授業を展開していきたい。また大学に身を置く立場として、『私たちの道徳』の内容の検討を深めていく予定である(学生との考察を深めたい)。

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[テレビ]TOKYO畜産ガールズをみた

(番組概要)
■TOKYO畜産ガールズ〜牛と豚と女子高生〜(再)
2014年2月13日(木) 02:29〜03:29 放送(2014年2月12日(水) 26:29〜27:29 放送)
東京都で唯一『畜産科』がある瑞穂農芸高校。今なぜか女子に大人気の『畜産科』…都会の女子高生が泥と糞と汗と涙にまみれ命と向き合う記録 (語り:TARAKO) 
 
      ◆


 再放送だったのか。
 五輪放送を見ながら夜なべを、と夜更かししていたのだけど、何げにチャンネルを回していて、この番組が目にとまり、そのタイトルに惹かれて途中からみはじめた。

 道徳教材としてもすぐれた番組だと思う(録画してなかったことを後悔するほど)。
以前テレビで放送され、映画化もされた「ブタがいた教室」よりも、内容的におもしろいのではないだろうか。
 個人的には、そんな感想をもった。


  登場人物は、畜産を専門に学んでいる女子高生たちである。
彼女たちは牛・豚を、「出荷する」ために、懸命に育てる。
結論は最初から「殺して食べてもらう」ためと、決まっている。
それが日常であり、学校のカリキュラムなのである。

 子ブタの去勢手術の実習もする(去勢すると、きれいな霜降り肉になりやすいという)。

ただ「殺すため」ではない。いかに「おいしい肉」を生産するか、という立場から、かわいい子ブタの「生」を操作することを、生徒たちは学ぶ。
 だが、そんな彼女たちからは悲壮感のようなものは感じられない。
明るく、そして真剣に「動物の生き死に」に向き合っている様子は、みていて清々しい。

 彼女たちの先には、肉を消費する、われわれ一般市民がいる―。
「命をいただく」という日々の行為の社会的背景や、われわれの食生活に欠かせない、畜産に従事する人々への理解=「他者認識」を豊かにするうえでよい映像資料だと思う。
(ちょうど、大学で教職科目「道徳の指導法」を教えている身としては、そういう眼で見てしまうところがある)。

      ◆


 女子高生たちは自分の担当する牛・豚に名前をつけていた。これに対しては、批判する人も出てくるだろう。「家畜に名前をつけてはいけない」と。実際、「ブタのいた教室」や、情熱大陸でクローズアップされた福岡県の高校教師の指導に対して、そのような批判がネット上で散見されたことは、自分も確認している。


 しかし、番組での彼女たちの活動をみれば、その種の批判が些末なものであり、また「動物の生き死に」の現実から目を背けたものの言いぐさでしかないということに気づくだろう。

 そもそも家畜を育てるという行為自体、ペットを飼うのと同様、その動物に対する愛情がなければできない行為である。たしかに、名目は「よい肉、よい製品にする」ことである。だが、その目的を達成するためには、それこそ犬や猫のような愛玩動物よりはるかに手間のかかってきつい、かつ高度に専門的な作業が求められるのである。それを、生徒たちはこなしている。
 その実態を知れば、「家畜の名付け」など、些末な問題であることがわかる。

 たとえ、名付けようと名付けまいと、彼女たち=生産者・畜産家の家畜に対する愛情をもったかかわりがなければ、われわれ消費者に届く、良質のお肉は生産できないのである。「トウキョウX」のようなブランド種なら、なおさら、手塩にかけて育てるこだわりが必要になる。
  また、そんな単純に、動物を「ペットだ」「家畜だ」とを切り離して捉える判断をすることなど、その動物たちを育てている状況ではできないだろう。どちらも「動物の生」に真摯に向き合っているかぎり、そこに区別はつけられない。

 牛・豚の出産立ち合いや子豚の去勢実習のシーンなど、番組中には生々しい映像もでてくる。それらは、「ペット」だ「家畜」だという人間側の勝手なラべリングには左右されない、「動物たちの生」がはっきりとそこに息づいているのだという厳然たる事実を視聴者に突きつける。

 人間の都合や矛盾を背負った家畜たちの生と向き合う女子高生たちの実直な姿をみて、以上のことに改めて、考えが及んだ次第である。


 出荷のためにトラックに牛を乗せる別れのときの生徒のふるまいには、名残を惜しむ気持ちは感じられるものの、動揺は見受けられない。
 むしろ、「動物の生」とたしかに向き合ったという芯の強さを感じ取ることができた。

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