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新科目・教職実践演習を担当して見えてきたこと

 4年制大学で、今年度から教職課程に本格的に導入された「教職実践演習」(4年次後期、教育実習後)。
 自分は昨年度の試行段階から関わっており、今年度が2年目だった。中・高社会で学生たちをまとめた後、さらに3グループに分け、1グループ2名の教員によるティーム・ティーチングで担当した。次年度も同じく担当予定である。
 昨年度の試行段階(パイロット版)では、教員採用試験の一次合格者を対象として実施した。だから、指導協力を仰いだ学校現場からも受講学生たちに対して高い評価をいただいた。
 今年度以降は、去年とは異なり、教育実習を終えたすべての4年生が受講対象であった。昨年までとは大きく事情が異なる。
 当然ながら「免許だけ」という学生も履修するので、受講者のレベルは格段に落ちる。とはいえ、それは想定内のことである(ちなみに、教育実習を終えているにもかかわらず、この科目を履修放棄した学生が複数いる。「内定が決まったから」という理由で辞めていく学生たちである)。
 今回、本格的に授業を担当して気づいたのは、彼らが実習先でどんな指導を受けてきたのかが透けて見えてしまうということである。率直に言えば、「彼らは実習先で指導教諭からほとんど指導を受けてこなかったのではないか」―。それが透けて見えるのである。
 彼らに研究授業で実施した授業を、実践演習内で再度行ってもらったのだが、そのレベルたるや、我が目を疑うほど残念な内容である。教科書の言葉(not社会的事実)をただただ覚えさせるだけの(それも説明内容は不正確極まりない)展開である。
 〈3年次に教科教育法で教えたことは、いったい何だったのか。まるで成長していない……。〉
 そして、そんな指導案・授業について「指導教諭からはどんなことを言われたのか」とこちらが質問しても、学生たちからは明確な回答がない。そんなにうるさく言われていない、と答える。場合によっては「研究授業に、ほかの先生が見に来てくれなかった」というケースもあり、その後の批評会でも活発な議論が行われなかった、と彼らはいう。
 ここから想像できるのは、次の二点である。
①指導教諭は、辛抱強く学生に指導した。しかし、それが学生には伝わっていない。
②「教育実習公害」と揶揄される状況下、教育実習生に対し熱心に指導する時間的余裕など今の教育現場にはない。毎年毎年レベルの低い実習生にうんざりしているし、そもそもこの学生は真剣に教壇に立つ気はないし、その段階にも達していないのだから(お互いの幸せのため)適当に付き合う。
 おそらくどちらもなのだろう。以前、日本教育新聞には次のような記事が出ていた。

「東京都のある小学校長は以前、実習生のマナーの悪さが目に余り、大学側に注意した。/学校に短パン、サンダル履きで登校する。あいさつができない。指導案の書き方を知らない。繰り返し遅刻する。しかし、大学側から返事はなかった。/『社会人としての基本的なマナーが学生に身に付いてなかった。それで会社を訪問するのだろうか。大学側の事前指導の質に格差があるように感じる』/高松市の中学校長は『大学の指導教官からの指導は一切期待していない。校長や教頭も加わって、教員の仕事の基本を教えている』と話す。」
「……一方、学校現場からは実習生への指導力の低下を打ち明ける声も聞こえる。『以前はベテラン教員が丁寧に指導できたが、学習内容の増加や若手教員の割合が増えたことで、学校現場に余裕がなくなっている。経験の浅い教員が指導せざるを得ないときもある』(東京都の公立小学校長)。」
 「なんでこんな学生を実習に送り出したのか」という現場からのクレームは、毎年ある。それに対しては、大学側はただただ頭を下げるしかない。
 そもそも、教育実習は、根本的に大学のマターであって、学校現場はそれに協力してくださっているありがたい存在である。あくまで、問題の根本は大学にある。「これ以上は面倒見切れません」と現場から言われれば、仕方なく引き下がるしかない。
(※ちなみに、自分の勤務校では、GPA-Grade Point Average-による履修基準を設けているので、教育実習に行くことのできる学生の質=学力レベルはある程度保障されていると言いたいところだが、それでも実際は問題が生じているのが現状である。基準をクリアできている学生といってもあくまで本学の中での相対評価で「よい」ということであって、他と比較すればまだまだ条件として「ゆるい」ということなるのだろう。だが、それ以外で問題を起こす学生もいるので、教職センターでは事後処理に追われている。具体的にどんな問題が起きているのかは詳しく述べないが、未来の実習生へのアドバイス的に述べるなら、例えば、教育実習に行く予定の学生には、実習先の生徒(とくに異性)と学校以外で個人的に会うような隙をつくらないよう注意してほしい。今の御時勢、別の生徒がその場面をスクープし、画像におさめてSNS上で話題にするといった問題に発展する可能性がある。)
 先に、「研究授業に先生方が見にきてくれなかった」という学生のコメントを紹介した。確かに、小学校に比べると、中・高と上がるにしたがって実習生に対する指導的雰囲気が冷たくなっていくようすは、実習校を回っていて感じ取ることができる。それは何も実習生への指導に限らず、日々の校内における教員の同僚性・協働性の構築の充実度とも関連していると推察する(中・高と上がるにしたがって、教科ごとの教員グループに閉じこもるので、同僚性・協働性の充実度は下がっていくであろう、ということ)。
   ■  ■
 
 教師はまず授業で勝負できなければならない。しかし、その力量がまだまだ学生にはついていない。
 とすれば、(とりわけ本学における)「教職実践演習」でやるべきことは明確である。
 すなわち、「授業批評」に力を入れていく=実習先でできなかった分、ここで時間をとって(心を鬼にして)学生にダメ出しをするということである。
(※本来、実習校を大学教員が訪問して担当学生を指導するのが理想だが、全国各地の出身校で実習を行う学生を指導するというのは、体がいくつあっても足りない。)
 本学実習生の弱点が「学力」にあることは、すでに前から指摘されてきたことである(といっても、現場の先生と話をしていると、偏差値の高い大学の学生でも「学力」レベルでダメなことが多いらしいので、レベルを問わず学生の「学び直し」を促していく必要性があるだろう。学生時代の自分をふり返っても、そう言える……)。
 実習に行く段階になっても、知識不足=授業力不足が充分に克服できていない。そして、学生自身が(実習が終わった今も)そのことを十分に自覚できていない。それを痛感させる批評を(猛烈な虚脱感に襲われつつ)行うことに時間をかけた、というのが今年度の現状である。来年度も基本的な方向性は変わらないだろう。
 
 「教職実践演習」は、教職課程の総まとめの授業として位置づくものであり、現場に出ても問題ないよう、(教科指導にとどまらず、学級経営や生徒指導など)自身の実践的指導力の到達度を、これまでの教職課程での学びを振り返りつつ総合的に確認するもののはずである。しかし、そんな高尚な段階にまでこの授業を到達させることは困難だろう。
 実際は、教育実習生が実習先でかけてきたであろう数々の迷惑を可視化する装置として機能し、「おい、頼むからしっかり反省してくれ」ということを演習担当教員が説教する時間となっているのではないか。
 この授業に意味がない、と言いたいのではない。むしろ、逆である。学生の実習成果、そして教職課程での学びの成果を可視化し、いやでも大学側に突きつけるという意味で、この科目には意味がある、というのが授業を担当しての個人的見解である。
 


 「大学はもっと熱意をもって学生に指導しなければならない」と言われればそれまでなのだが、現在の大学は、かなり学校現場を意識したカリキュラムを組んで「やりすぎではないか」と思えるぐらいの丁寧な指導をしている、というのが私の実感である(本学だけかな。実務家型教員の割合は異常に高い)。実務家型教員は増え、現場を理解する授業も増えた。学生の合宿なども行い、正課外の学習指導にも乗り出した。学校インターンシップの仲介も行い、教採に受かった学生の入職前学習会まで企画する―。
 

 あまりプログラムでがんじがらめにしてしまうと、かえって学生の自律性や創造性が育たないのではないかと思うくらいだ。「学生を鍛える」というスローガンのもと、彼らの主体性が画一化・均質化へと向かっていく=戦前から揶揄されていた「師範型(タイプ)」的な教員気質に収斂していくのではないかという不安を覚えているのも確かである。

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