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今年度新入生への手紙

 初年次教育の担任をすることになった時は、その最初の授業で学生たちに手紙を渡すようにしている。
2011年度(震災の影響で、入学式が行われなかったとき)からである。
 今年度は、次のようなことばを、学生たちに送った。

     ◇   ◆

 皆さん、晴れてご入学おめでとうございます。心からお祝いいたします。
 さて、新入生の皆さんには、ぜひこの1年間、次のことを目標にがんばってもらいたいと私は願っています。それは、「この1年をかけて、大学生になれ(そして、4年間を通じて1年のときからは想像できないほどの別人に成長してほしい)」ということです。「何を言っているんだ。もう、立派な大学生じゃないか」と思うでしょうか。たしかに、肩書としては、皆さんは「大学生」になったわけです。しかし、その肩書きが社会的にみていかに有り難いものであるかということについては、まだじゅうぶんに理解していないでしょう。それは充実した大学生活を過ごして後にはじめて理解されるものです。

 皆さんは「学生」という肩書を名乗って、これからの4年間を送る権利を得たわけですが、これは「児童」「生徒」として過ごしてきた高校までの学校生活とは、決定的に異なる意味をもっています。
 大学には、高校までほど厳しい校則はありません。学習内容も、自分で時間割を決定できる自由があるように、あらかじめ内容や進度が拘束されているわけでもありません。また、本学は通常、夜22時までキャンパスを開けています。授業外のキャンパス・ライフを皆さんが自由にコーディネートする時間もたくさんあるというわけです。休暇期間も、高校までより長く設定されています(ただ、年を追うごとに短くなっていることも確かです)。アルバイトをするのも、旅行に行くのも、各自の自由です。その際に「大学生である」という肩書は何ら制約にはなりませんし、むしろ皆さんの行動範囲を広げることに役立つはずです。

 ただし、自由が保障されるということは、そのぶんの責任も同時に背負うことを自覚する必要があります。いわば「自分で落とし前をつける」ことが求められるわけです。大学での留年率や退学率が高校までより急激に上がるのは、大学のこの風土が大きく関わっています。それは逆にいえば、自分の動き方次第で、払った学費分を大きく上回る成果が得られることを意味します。大学は教育研究機関であり、サービス機関ではありません。払った金額分の利益を得るといった、ケチな等価交換の原則に依拠する必要がありませんし、意味もありません。大学に通う権利を思う存分行使して、かつての自分からは想像もできないほどの変身を遂げる=人格的に成長する。それを可能とするのが、大学という環境なのです。

 大学では高校までと大きく異なる教育・学習のスタイルがとられています。講義のような知識伝達型の授業だけでなく、自ら図書館などを利用して調べ、学ぶ、探求型の学習=演習(ゼミ)や実習といったタイプの学びが(とくに学年が上がるごとに)増えるということです。それは、頭の中に知識を詰め込んでいくだけの作業ではなく、新しく知った知識を自ら使って問題(社会の事象)に働きかけていく―その過程で社会を見る眼が変わり、ひいては自分の人生観が変わる―ことを意味しています。大学での学びとは、知識付加型ではない、このようなメタモルフォーゼ(変身)を意識した仕掛けを内包しています。われわれ大学教員は、皆さんに成績をつける以上、結果を求めますが、それも単なる○か×かを答えさせるのではなく、皆さんが自力で考えた成果物(レポートや論文)について、そのパフォーマンスに比重を置いて評価します。

 2000年代以降、大学や高専などの高等教育機関を舞台とした学園ドラマや漫画・アニメがずいぶん増えました―大学進学率が増えたことも一因でしょう―が、その登場人物たちはいずれも、実験、実習、卒業制作といったかたちで、あるいは切磋琢磨できる人間関係の構築のために自主的にキャンパス構内を動き回って、自分たちのドラマを作り出しています。講義を黙って聞いている風景などほとんど描かれないでしょう。そもそも、黙って聞くだけなら機械でもできることです。録音すればいいのですから。

 授業で何を教えられたかよりも、それを一つのきっかけとして、授業以外での自主的な「学び」を充実させる。端的に言えば、「自分で考え、動く」。その自律性こそが「大学生になる」ということの本質であり、皆さんのこの4年間の充実度を決定的に左右する要素です。そのような習慣を1年かけて、しっかりと作ってもらいたいのです。

 繰り返しますが、みなさんは晴れて「学生」としてこれからの4年間(以上)を過ごす権利を得ました。しかし、名実ともに「大学生」となるのは、これからの生活次第です。

 みなさんの健闘を祈ります。

  2014年4月1日

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「教師には社会経験をさせるべき」という俗説

「教師は世間知らず」
「教師には(研修として)社会経験が必要」

 こういった意見を度々目にする。
「教員社会が閉鎖社会である」という問題を指摘しているのなら、その点には同意する。だが、そのことをもって即、上記のような批判はできない。

 そもそもすべての組織は隠ぺい体質をもった「閉鎖社会」である。閉鎖性をもたない組織はありえない。企業社会にも、官僚の世界にも、公安の世界にも、アカデミズムの世界にもある。現に、産地偽装や虚偽表示、談合、収賄などに数々の問題の隠ぺいがこれらの世界で行われてきた。一口に民間といっても、各企業人もまたそれぞれの分野に閉じた「世間」(島宇宙)に生きているだけではないのか。どこも同じ「気違い部落」なのではないか。


 そもそも「社会経験」とは、具体的に何を意味するのか。
民間企業での経験を指すのだろうか。では、その民間企業での経験とは具体的に何を指すのか。
その中身がまったくこのテの主張では明らかにされない。
 例えば、私は、茶の販売店でアルバイトをしていた。実に多くの業務を担った。顧客への配達や店での接客、ときには葬儀社の手伝いまで(なぜお茶屋が葬儀社の手伝い? それは、ぜひ読者の方々に考えていただきたい。「お茶屋はどうやって儲けているのか」の答えに結びつく一つのキーワードである)。
 私は、十分に社会勉強をさせてもらったと感謝している。だが、それらの経験が教師の職能成長にどう結び付くものとは思っていない。

 このような~おそらく教職志望学生の多くも経験しているだろう~学生時代のアルバイトは「社会経験」に入らないのだろうか。入らないというのなら、その理由は何か。

 教員養成にかかわっている私の眼からすれば、現在学校教員になっている学生たちは、学校ボランティアや学童保育、家庭教師(ときには海外青年協力隊など)など実に大学外で豊かな経験~いろいろと問題を抱えた子どもやその保護者たちとのかかわり合い~をしている者たちばかりである。民間企業への就職をめざしている学生たちより、よほど社会とのかかわりを学生のうちから持っている。その質もかなり豊かだ。例えば、首都圏の学校で起こる問題は多岐にわたる。学生たちがボランティアへ行っていたある公立小学校は、外国人の子どもが7割というところだった(昨年度で閉校してしまったが)。学生たちは、これからますます日本社会が直面する社会問題に、「社会の縮図」である学校へのかかわりを通して先取り的に学んでいるわけである。
 そんな学生たちの豊かな現場語りに対して、「世間知らず」などという批判はまったくあたらない。教員採用が試験によってなされる公平性の観点からみると、むしろ大学卒業後にいろいろな社会経験を経たうえで現場に採用されているケースもあるくらいだ(私の知る本学のケースとしては、数年間遠洋漁業でマグロ漁に出ていた人物がその後採用されたというのがある)。


 加えて、学校教員の日々の校務からして、民間と遜色ないほど濃い内容だということも、もっと認識されるべきだろう。保護者への対応はもちろん、地域住民からのクレーム処理、情報提供など、じつに高度な業務をこなしているといってよい。
そのような校務の多忙によって、本来の校務である「授業」の準備に時間が割けないのが、現状だ。


 教師の専門職たるゆえんは、まさに「授業」にある。にもかかわらず、その職能成長への視点を欠いた研修=社会経験をしろというのは、教職の脱専門職化を促すことにしかならない、非建設的な主張である。


 また、「教師に社会経験をさせるべき」という議論には、次の視点が決定的に欠けている。すなわち、実際に教師に民間企業等で研修をさせるとして、それがいったいどういう類いのものであるかをまったく考慮していないという点だ。

 民間企業の側から考えてみたとき、しばらくしたら学校現場に戻ってしまう人間に、企業利益に直結する重要な職務を任せるだろうか。結局は、パートタイマーとたいして変わらない仕事しか担当させられないだろう。企業側からしても教師の現職研修の請負などいい迷惑だというのが本音である。もし、企業側にメリットがあるとすれば、「本当に優秀な人間だったら引き抜く」という人事選考的側面か、「教育行政が研修教員の給料をフォローしてくれるのならタダで働かせられる」という利益の面くらいである。「バイト程度の研修でよいのだ」とするなら、なおさら学生時代のそれとどう違うのかという疑問が起こる。


 「社会経験の豊かな人材をもっと学校現場に」とか「民間人校長のさらなる採用を」という意見については、私は否定的ではない。学校・教師にはいろいろなタイプがあってしかるべきである。それが、児童生徒のためになる。文科官僚が現場に出張するケースも出ているが、それもよかろう。現在の教員養成・研修が過度にプログラム化され、画一的な人材養成になっている現状をみると、むしろ異なる血が早急に求められているとすら思う。

 だが、ここでも注意しなければならない問題がある。

 たとえば、「自分は複数にわたる民間企業での勤務から、豊かな経験している」などという言い分は、必ずしも採用する側からは受けがよくない。「コロコロ職を変える=移り気のはやい人が、学校現場に真摯に向き合ってくれるだろうか」と思し、「豊かな経験をなぜもっと民間企業のなかで試さないのだろう(本当は自分勝手な厄介者なのではないか?)」という疑念をもたれて当たり前だからだ。途中で企業をやめる人物を、採用側は無条件には信頼しないだろう。何かしらの不安要素があるのではと思うはずである。
 民間人校長や教育長にしても同様である。「企業社会で戦うのをやめて、なぜ学校へ来るのか」という疑念がつきつけられる。教育に対する思いをいくら語ってもらっても、採用側が専門家であれば、稚拙な主張と一蹴されてしまうだろう。

 要は、どういう肩書であろうが、「教育への深い理解」をベースとしながら(他の立場も生かして)複眼的に問題を捉えることができ、行動に移せる人物でなければ学校をよい方向へと変えるのは難しいということである。現場教師(実働部隊)や児童生徒への共感を欠いた、ワンマンで独善的なやり方で事態がよくなるはずがない。


 とくに私が心配するのは、それらの民間出身者が結局のところ、社会にいかに「適応(≒服従)」していくかという発想でしか子どもたちと向き合わないという可能性である。「これからの国家・社会の要請に応えるグローバル人材」云々などの主張も、私からいえば同類である。例えば高校で、ある教師が「労働法」の授業を通して「労働者としての権利」について生徒に学ばせたとする。最低賃金の問題や労働条件の問題などに対しては、とくにアルバイトをしている生徒は積極的になるし、実際にこうした実践は行われている。

 民間企業の経営経験がある人間なら、もしかすると「そんなことを教えるんじゃない」と言ってしまうのではないか。もちろん、それは教育内容に対する過度の干渉である。「教育への深い理解」を有しているのなら、教育がそのような、単に社会適応的な側面だけではなく、自分たちにとって住みやすい社会を「創造」していく~言い換えれば、現状への「批判」ができる~人材育成の役割も担っていることにも視線を注ぐべきである。


 つまり、自分もその一員であった企業社会への自己批判ができる人間でなければ、誰が学校現場に入ろうが一緒だというのが私の結論である。「社会経験のある人間」なら、多様な視点で物事を考えることのできる高度な社会認識をもっているはずである。あたかも私怨のかたまりとしか思えない学校非難をくり返すしか能のない人は、現場には不要である(端的にいえば、「一般企業では、こんなことはありえない」としか言えないような人間である。「一般企業」と学校は違って当たり前だ。なぜ一般企業の論理をそこに導入しなければならないのか。問題はそこだ。「適応(≒服従)」という観点からしか理由が導けないのなら、まったく意味がない)。

 とかく、日々の授業と「子どもの成長」とは名の社会適応の面ばかりに問題関心が集中してしまいがちな現場教員に対して、広い視野を持たせてほしい。これからわれわれがめざすべき未来像(グランドデザイン)や、あるべきシティズンシップをこそ示してほしい。

 私が教育現場への外部登用に期待する点があるとすれば、まさにこのような高度な社会認識を有する人材が確保されることが前提である。

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