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教育方法改革への自己限定(2)

(1)からのつづき

 もし、「自分が手品師だったら」というスタンスでこの資料を捉えるなら、この手品師の行動にはとうてい共感できないし(フィクションだからという理由で相槌ぐらいは打つだろうが)、現実社会においてこのような判断はしない―。多くの大人は、そう答えるはずである(ぜひ学校の先生は、子どもだけでなく、その保護者にも見解を聞いてみてみてもらいたい)。
 そもそも実際の社会でマジシャンが置かれている現実に照らせば、資料「手品師」の世界は、簡単に崩壊する。


 たとえば、次のような疑問がすぐに浮かぶ。


① この物語の舞台が日本であれば、「日本奇術協会」をはじめ、マジシャンのための同業者組織、NPO法人がある。また、各地には同好会などもある。何より、芸能事務所・プロダクションがあるにもかかわらず、この手品師は所属していないのか?(だとしたら、仕事のあっせんが来ないのは当然である。世の中には「マジシャン派遣」事業を行っている企業も多数存在するのに……)。
 そのような組織と何のつながりももたず(=自分を鍛えるための手段をもたず)、ただ漠然と「売れたい」とこの手品師が考えているとすれば、あまりにも考えが甘いのではないか。

② 芸能界で売れたいと願っている今どきのマジシャンならば、例外なくインターネットを自分の宣材として活用しているはずである。
 安価でできる個人HPやYoutubeなどの動画サイト、facebookやtwitter、LINEなどのSNSを駆使して、ファンを集める努力をするはずである。テレビやラジオしか主要な宣伝媒体がなかった昔と比べれば、いくらでも自分で工夫し、そして夢を掴むための努力ができる(現にネットを通して露出度・注目度を集め、人気となったケースはいくつもあげられる)。
 そうして容易に世界とつながることができるようになっている現在において、そのようなツールの存在をまったく想定に入れずに、ただ〈手品師―こども〉という関係性だけで、手品師の「気持ち」を考えることにどれだけの意味があるのか。もし、これらのツールの存在を念頭に入れるならば、大劇場への出演か子どもとの約束かの判断理由も、まったく違った内容になるだろう。
 ただ「反利己主義としての思いやり」=自己犠牲を強いるだけの道徳ならば、子どもたちは白けてしまうか、「所詮フィクションだから」と、問題を真剣に捉えずに考えて終わるのではないか。



③ 「この『手品師』の話は、他者に対する思いやりと自分自身への誠実さを考えるための資料なのであって、自己犠牲の話でも何でもない」と答える人もいるだろう(現に、この「手品師」の作者である江橋照雄がそう述べる)。
 たしかに、男の子に対して手品師は誠実だったといえよう。だが、友人に対する誠実さはどうなのか。自分に関わりのある友人を大切に思い、困ったときには相談に乗ったりすることもまた、重要な徳(「誠実」という徳目)のはずである。「手品師」にはこの視点が欠けている。すなわち、「手品師」のいう「誠実さ」とは、「狭い」「独りよがり」の誠実さといってよい。友人への信頼を含まない「閉ざされた」誠実さである。そして、このような心性は現代社会の心性(自己責任論)にもなっていることが、より問題を深刻にさせている。



④ 別に、友人でなくとも(不特定多数の他者でも)よい。例えば、先に述べたようにSNSなどネットのツールを通して、自分の悩み(子どもとの約束と大劇場への出演について)をつぶやいてみたらどうだろう。熱心に訴えれば、友人に相談する以上の、多くの人間の協力を同時に得られる可能性がある。それだって誠実な行為ではないのか。
 子どもとの約束を守るにしても、自分一人だけが町の片隅で子どもに手品を披露する以上に、多くの賛同者(同業者)と協同して子どもを喜ばせることもできるはずである。実際、そのようにネットを駆使した結果、不特定多数の善意が集まって大きなムーブメントに結実した実例が多数あることを、我々はよく知っている。この手品師も、ネットでの呼びかけをきっかけとして、たとえ今回の大劇場出演を断ったとしても、それ以上の宣伝効果によって「売れたい」という自分の夢実現への可能性が高まるかもしれない。


 少し考えただけでも、以上のような対応策が浮かぶ。
 このような見解は、自分が小学校教員だと仮定し、〈担当のクラスに山上兄弟のような小さい頃からマジシャンとしての仕事をバリバリこなしている子どもたちがいても、先の実践報告にあるような授業ができるか〉という想定に立って考えている。当然、そのような子どもたちはこの「手品師」が示す道徳的価値に共感することなどできないだろう。リアリティがまったくないのだから。ところが、そんなリアリティのない、フィクションの(不明な部分を多々含む)枠組みを疑問ももたずに受け入れたうえで、手品師の行動を理解しろ、その価値に共感しろ、というのだから、学習者の多くは違和感をもつはずである。



 以上の理由から、もうこの「手品師」は時代に合わない資料であり、これを使用して子どもに「誠実」について理解させるなど虚偽だ、というのが私の率直な見解である。さらに言えば、このようなフィクションによって道徳的価値について考えさせること自体あまり意味がないのでやめるべきだ、と考えている。
 だいたい、手品師の置かれている状況・ストーリーの文脈が少しでも変われば、子どもの判断も180度変わってしまうのが、このような資料読解型の「道徳」授業である。例えば、手品師にかかってきた電話が、大劇場への主演依頼ではなく、親の危篤の場合だったらどうなのか。それでも子どもとの約束を重視するのかと聞かれて、そうだと答える児童はいないだろう。また、大劇場への出演が、友人の手品師が怪我をしてしまい、その友人から「代役を君に頼みたい」という切実なお願いの場合だったらどうなのか。これも、子どもとの約束を守るという選択はしづらいはずである。資料読解による価値理解というのは、結局のところ、このようにきわめて一時的で可変的なものだということである。



 どうしても学校教員の多くは、現在の教材や教科内容は自明のものして疑いの余地を挟むことなく、それを「いかに教えるか」という方法・技術的視点でのみ問題を捉えやすい傾向がある。道徳教育ではそれが、ニセ科学(「水からの伝言」)や偽史(「江戸しぐさ」)の介入を容易に許すような結果を招いた。事実は二の次で、とにかく道徳的価値を特定の解釈によって内面化することが重視される。そのような、児童生徒に道徳教育の「うさんくささ」を植え付ける無節操なスタンスからいいかげんに抜け出すべきであり、それを怠った場合、大人になってから、あのとき教えられたことはまったくのでたらめだった、という道徳への否定的評価を増幅させることに結果する。今、このエントリを書いている私のように。



 もし私が、前述のエントリで紹介したような「道徳」の授業実践を受ける子どもの立場だったら、私の見解は絶対に教師から評価されないのだろう。もしそれが理由で、特別教科となった「道徳」の記述式評価の欄に教師から否定的な文言が書かれていたら、親に言って教師に抗議の手紙を書いてもらうぐらいはするだろうか(だがこれは、今後道徳の教科化が実施されれば、教師が直面する可能性のある問題である。教師は子どもの道徳性の現状について保護者を理解させうるだけの評価をしなければならないという、いっそうストレスフルな職務に従事することになる)。

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