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丸山眞男の教員社会への認識

■丸山眞男・宮原誠一「教育の反省」(平石直昭編『丸山眞男座談セレクション(上)』岩波現代文庫、2014年。原典は1948年9月『教育』9月号、世界評論社)

 書店で何気に手に取った一冊だが、冒頭の対談が目に留まり、即買いを決めた一冊。 
 内容がびっくりするほど色あせていない。最近、大学改革をめぐって「実践的な職業教育」の位置付けがいろいろと議論を読んでいるが、この問題に関する論点も、すでに戦後まもなくのこの時期に鮮やかに明示されていたことがわかる(対談の相手が宮原誠一だというところで推察していただきたい)。これについては、ぜひ別の機会に触れてみたい。
 自分がこの対談を読んで驚いたのは、宮原ではなく丸山眞男が明治以降の日本教育史について雄弁に語っていることだった。
 現在自分が関わっている科研で大きなテーマとなっている教育会と教員組合の問題についても、まさに同時代的に捉えた実態を語ってくれている。
 以下、ちょっと長くなるが、その部分を引用してみたい。もちろん、丸山のしゃべっている部分である。この部分には、「教育者の教養」という小見出しが付されている。


……教育者としての側に問題を移してみると、なかなか大変なことだと思います。つまり教育者の使命というか、そういうものについて何かやはり従来と違った新しい考え方が確立されないと、観念的に新しいタイプの人間をつくる教育をするといっても、教育者自身がペスタロッチやヘルバルトは読んでいるけれども、自分の周囲の日常的な問題を科学的に処理してゆく能力がないような人ならば、とうていそういう教育をする資格がないと思います。そういう場合にはやはり一方では、教育者としての自覚と、それから他方では民主主義国家の市民としての自覚、そういうものがどっかの点で統一されなければいけないのじゃないかということを非常に感ずるのですよ。
 というのは、去年或る県に行って、そこの教員の人達といろいろ話をして感じたのですがね、そこでは教員組合とそれから教育会の間にいろいろなごたごたが起こっている。といっても、平メンバーは両方に所属しているので、結局両方の幹部の間の問題なんですが、その場合教育会の方は幹部の人は大体校長とか教頭とかで、そういう人は師範出が多いんです。こういう人の傾向は大体保守的ですね。それに対して教員組合の方では相当ラジカルに批判する。そこはたしかに、教育界のボスの排撃という問題もあるのですが、単にそれを進歩的なものと反動的なものとの争いといい切ってしまえない別の側面があるのです。というのは、師範出のうちの真面目な分子は、とにかく自分は教育者であるという一つのプライドを持って教育に対して一つの使命感を持っている訳ですが、ところがこの使命感が非常に観念的で、教育者が待遇問題にあくせくするのは、およそ教育者の誇りを失ったものだと頭からきめてかかり、教員組合の経済闘争にだいたい冷淡である。ところが他方今度教員組合の幹部の急進派には師範出の人が比較的少い。その県で最も急進派として活躍していた人は小学校ではなく旧制中学の先生です。中学の先生にはむろん皆が皆そうではないけれども、教師を職業として選んだということがそう必然的なコースではなく、いわば他のいろいろな職業につき得るけれども、いろんな事情で、教員になったに過ぎない人もいる。だから教育者の使命感というようなものはそれほど痛切に意識していないんですね。そういう人は教育者といえども労働者だというような考え方をスムーズに受取る。教育者だって労働者だということは当然なんですが、しかもなお教育者であるという面はうっちゃりにして、我々も労働者だという一般命題に還元してしまうのです。そうすると、どうしても教員組合の指導の仕方、やり方がやはり一般の労働組合の場合と変らなくなる。そこに少しも特殊性が出てこないということになると、これは教育についてともかく或る一つの使命感をもっている人々を反発させてしまうのです。いきおいこの人々はますます観念的になって、結果として反動的な役割を演じている。他方、教員組合の急進派はまたそれに反発して、悪い意味でマテリアリスティック〔唯物論的〕に走る。こうして教育の使命とか理想とかいうことと、教育者の生活要求とが、口ではともかく実際は一向に媒介されないで、ますます天上的なものと、ますます地上的なものとに分裂して行くのです。
 むろん私のいい方はちょっと大げさですが、今ではきっと、ずっとよくなっていると思いますが、ともかく、そこでやはり従来師範学校出のいわゆる教育者としての使命感、そういうものの狭隘さはやはり破らなければいけないと思うのですけれども、その場合、ただ枠が外れたというだけではいけないので、そこに教育という社会的使命にともなうモラルが当然なければいけないのじゃないか。民主主義国家の一市民としての自覚を、どういうふうに教育者の生活の中に生かしてゆくかということが、大きな問題じゃないかと思うのですけれども…… (17-20頁)


 この「或る県」がいったいどこを指しているのかは不明だが(どこでしょう? 多くの県では「ごたごた」になる以前に、割と静かに、構成員そのままに教育会→教員組合へと移行していると自分は認識しているのだが……)、いずれにしろ、丸山がここで語っていることは、これまで教育会史研究が蓄積してきた知見と関わってじゅうぶん納得できるもので、それだけに興味深い。

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