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地域との協働を通して主権者を育てる

 昨年6月、公職選挙法の一部を改正する法律が成立し、18歳選挙権が認められることとなった(総務省「選挙権年齢の引下げについて」)。
  それをふまえ、主権者としての学びを進めるための教材(「高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」など)も作成、公開されている。

 だが、当事者たる高校生の意識はどうだろうか。選挙意識に関するアンケートでは、「選挙に行くと思う」と答えた高校生は76%に上るとの結果も出ている(「高校生7割「選挙に行く」 選挙権引き下げで意識調査」『西日本新聞』2015年12月7日)。
 だが、20代の低投票率の現状をみていると、否定的にならざるを得ない。そもそも、有権者の2%程度が増加するに過ぎないので、彼らの世代の意見がどんなに束になってかかっても、60~70代の世論の前に数では勝てないのは目に見えている。その現実に打ちのめされて、結局は政治から離れていくか、もしくはより弱い者(障害者や性的・民族的マイノリティー)を抑圧する傾向を助長してしまうのではないかと考えてしまう。

  自分が否定的に問題を捉えてしまうのは、何よりも主権者を育てる第一人者であるはずの学校教育がきわめて非民主的であることに起因する。理不尽な校則の強制、形ばかりの生徒自治、教師の都合で進行する授業とそれに同調する限りで求められる学びの主体性。何より教師自身が上からおりてくる施策の実践に苦心するだけの非民主的な職場……。生徒たちは学校・教師の言動の不一致・矛盾を見抜いている。それもあって、生徒たちはよりコストのかからない受動的パフォーマンスに終始するのである。学校こそ、生徒の主権者意識を削いできた元凶といって過言ではない。 
 そんな中、18歳は、主権者として育つ機会を与えられることなく、いきなり主権者にさせられるのである。それでどうして、社会参画が活発化すると考えられるのだろう。 

 このような現状は、自分自身も肌で感じてきた。高校時代に教わったある社会科(社会系教科)の教師は、正々堂々と「そこらへんのおばさんに選挙権を与えるのはおかしい」と生徒の前で明言したのを思い出す。


           ◇


 とはいえ、高校生がより直接的に政治に参加する機会を得たことは、喜ばしいことである。そうである以上、彼らを主権者として育てる教育活動が構想されなければならない。実は、すでにそのような実践は存在する。社会科など個々の教科の問題ではない。学校ぐるみの実践、「三者協議会」の取り組みである(以下の例)。
 この一年、学部長の誘いもあって、学生と共に辰高の三者協議会を傍聴する機会を得た。20年近くの実績をもつ同校の取り組みは全国の高校に刺激を与え、現在も全国から傍聴人が訪れている。
 生徒が主体となって学校づくり・地域づくりに対して自分の意見を表明し、また実際に取り組んでいく。生徒の意見を尊重し、話し合いによって合意した事項についてはきっちりと実行に移す。中には未熟な要求もあるだろうが、教師は聞く耳を持たないという独裁的姿勢では臨めない。生徒からの思いを受け止めて、しかるべき手続きを経て納得できる回答を返す。こどもの権利条約第12条に定められたこどもの「意見表明権」を行使するトレーニングの機会を与える場を、学校・地域ぐるみで創出し、さらに実際に学校づくり・地域づくりにつなげているのである。
 
 実際、辰高の生徒たちは地域の商工会などともコラボして、自分たちのまちづくりを進めている。町から苦情が出されれば、どのように対応するか自分たちで話し合う。授業・カリキュラムに対する不満や要望も協議会で提案し、教員から改善に対する回答を引き出す。教師も緊張感をもたざるを得ない。大人の言いなりではない、学校づくりの姿が確かにここにはある。


 このような実践=生徒一人一人が個として尊重され、意見を表明できるような機会を与える実践は、生徒自らが主体的に社会参画する姿勢を育てることにつながるだろう。
 だが、三者協議会の取り組みを快く思わない教員が一定数いるのも事実である。「自分が専門とする教科の授業に専念したい=なぜそんな取り組みにかかわらなければならないのか」という声である。とくに高校は県立の場合が多いから、「われわれはあくまで県の職員であって、その高校が位置する市町村とはかかわりのない」という発想が高校・教員の側にはある。少子化の影響で、各地で高校再編計画が起こっているが、県の指示なら自分は従うという態度をとるわけである。だが、県立であっても、高校の多くは地元町村からの多大な寄付(民費)により設立された場合が多く、地元にとっては「まちのシンボル」という特別な意味をもっている。
 その地域の願いをどう受け止めるかということが、公務員的発想に陥らない「地域とつながる」という姿勢が、これからの教師に求められる。「地方創生」を叫ぶ一方、一方的な行政の指示で「まちのシンボル」が地域から消えて過疎化が一層進行する可能性は高い。「学校地域協働」というワードが掲げられ、地域と学校との連携・協働の在り方をめぐる中教審答申が出されるまでに至っている現状は、学校・教師の役割が再考される時期に来たことを示している(「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について(答申)」)。


  この「学校地域協働」と「主権者教育」という双方の課題につながる「地域との協働を通じた主権者教育」実践として、三者協議会の取り組みは位置づけられるのではないか。傍観者として社会を眺め、関わりのない観察者として知識を学ぶのではない。ほかならぬ自分自身の主体的責任がからむ問題として受け止めて知識を学び、意見を表明し、実際に社会に働きかけていく。身近な地域から働きかけ、そして「やればできる」ということを感得していく。三者協議会の取り組みは、今後の学校教育がめざす方向性を先取りしたものであると捉えられる。
 そのような生徒主体の取り組みを支援できる教師を育てるにはどうしたらよいか。教員養成に関わる一人としてきわめて重要な課題を背負っていると、三者協議会を傍聴し、辰高の先生方と交流するたびに感じている。 

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これぞ中央集権のカリキュラム政策

 久々の更新である。昨年は、あまりにも(よいのも、悪いのもひっくるめて)重い問題がふりかかりすぎた。もちろん、いずれ直面する問題ではあったのだが、なぜそんなに一気にふりかかってくるのだと、思わずにはいられなかった。少しでも精神衛生的な安定を求めるために、気軽にブログで発散することにしよう(あまり質は問わず、綴り鍛える、という原点に立ち戻ろう)。

      ◇

 さて、昨日一昨日とすっかり日本の恒例行事として定着したセンター試験。今年は過去最多の850の大学・短大が参加したようす。


 今の職場は毎年会場となっているので、自分も毎年センター試験の監督にあたってきた。
 ほんとストレスフルな仕事である。あの分厚い監督要項に沿って、全国津々浦々で同じ時間帯に同じセリフがあちこちで吐かれていると思うと、実に滑稽である。
 しかも、文章をみるとごていねいに「①」に「まるいち」とフリガナまで振ってある始末。これ、山形のほうでは「いちまる」と呼んでいたはずだ。そちらのほうでは、要項のこの記載をどう受け止めたのだろう。
 こうやってセンター入試を通した国語統一政策が浸透していくのか……などと、ネタを探さずにはいられなかった。


 実際、学習指導要領の拘束力を実際に駆動する装置としてセンター試験が機能しているのは確かだろう。センター試験を廃止するからといって、教育統制機能を強力に果たしているこの装置を国が手放そうとしているとは思えない。今後の入試改革で測ろうとしている「主体性」や「思考力」なども、結局のところ、大正自由教育がそうであったように、「教育方法改革への自己限定」という帰結を辿るのではないか……。

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