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「次世代の学校・地域」のゆくえ

 次期学習指導要領改訂に向けた論点として「社会に開かれた教育課程」が掲げられ、また、「チーム学校」というキーワードのもとに、学校地域協働による教育が重視されようとしている。
 昨年暮れに出された三つの中教審答申は、かなり大風呂敷を広げたように見えるけれども、各フレーズ―「学校と地域の一体改革による地域創生」「学び合い、高め合う教員養成コミュニティの構築」など―は、たしかに興味深い論点を含んでいる。

だが。
 教育史を学んでいる身としては、「これは中途半端に終わるな」という感じを受けてしまう。
 「学校と地域の連携・協働」というのは、別に目新しい理念ではなく、これまでも散々言われてきたことである。財務省から予算をとってくるための言葉のリニューアル、というのがホントのところではないだろうか。


それに。 
 「チーム学校」といったとき、その中心はあくまで学校であり、“学校がリーダーとなって地域の力を動員し、一丸となって国が定める教育課程の実現に努めよ”“その実現に向けて学校経営の組織改革や、アクティブ・ラーニングなど新しい学びを実践するための教員の養成も必要だ”、という理解でおそらくまちがってはいないだろう。
あくまで(学校を社会に開くことを通して)地域の主体性をいかに教育的に掬い上げるか、というところに主眼がある。

 そうなると、学校による所定の教育理念(学習指導要領)の実現が到達目標だから、そこに関わる地域の意味は、あくまで方法的・手段的なものでしかない。そういう発想に地域が乗ってくるだろうか。地域経済の停滞や過酷な労働状況と相まって、結局地域からの協力は先細っていく、それでも学校は今までと同様に地域へと訴え続けなければならない―、というところまで予想できる。
 「地域も学校を支えよ」という、地域を手段として見る発想は、教員の負担を減らすという思惑とは裏腹に、学校の多忙化をいっそう加速させ、教師たちは(さらには地域も)息切れしてしまうだろう、というのが自分の見立てである。 
 
 
   ◇  ◇  ◇  
 
 昨今の教育政策の動向は、大正自由教育から郷土教育・全村教育に至る1910―30年代の史的展開と、枠組みがひじょうに似ているように見えてしまう。
問題解決学習など子どもの自発的な学びが重視されながらも、その活発な教育活動を行なう教師の主体性を特定の方向へと水路づけるために展開された「教育の郷土化」施策という、あの時代の静かな教育統制。加えて、向上心に擽られて、それに進んで向かっていく教師たち(専門性の向上という名のもとに、かえって教師教育の均質化を進んでいくというのも、この頃に顕著になっていく傾向だった)。そして、教師が学校内にとどまらず、地域振興・経済更生にも役割を果たしていった先に待っていたのは、国家総動員・一億総玉砕だった―。

 翻って、現代。一方でアクティブ・ラーニングの重要性が謳われ、他方で地域との協働へと学校・教師が駆り立てられるという状況。加えて、教職の高度化に向けた「養成・研修の充実」(という名の静かな統制)が叫ばれる現状。そして何とも時代遅れに聞こえる「一億総活躍社会」という響き。
 これらは、単なる偶然の一致なのだろうか。

 「すべての歴史は現代史である」というクローチェの言葉ではないが、現代をみる自分の課題意識が投影しているから、そのようなものとして歴史が立ち現われてくるのかもしれない。

 いずれにしろ、あの時代をもっと掘り下げてみていかなくては、と思う。 自分の研究フィールドなのに、まだまだ勉強が足りない。 

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