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教育という希望

久々に更新(1年とちょっとぶり)。以下、読書ノートとして。

■山﨑隆夫『教室は楽しい授業でいっぱいだ』(高文研、2017年)

著者の山﨑先生からご恵投を賜った。ありがとうございます。

           ◇


 山﨑先生の著書や論考では、必ずご自身や子どもたちのセリフが具体的に、豊富に挙げられる。ささいに見えるやりとりや子どもの所作を率直に綴る筆致が、読み手に現場の情景~教室での子どたちの“心はずむ”ようす~を豊かにイメージさせてくれる。
 それは、先生自身が「子どもの声を徹底して聴く」という思想を核として、自身の実践を創り上げているからである(この真逆が、今話題のM学園のK理事長の主張である。そこでは子どもたちへのまなざしはまったく語られない)。


 山﨑先生のような書き方は、自分にはとてもできない。ただただ、こういう実践記録があるよと今回も学生たちに紹介するばかりである。


 本書では、若手教師が「自分もやってみたい」と思える、楽しい授業事例がたくさん紹介されているほか、その実践を行うにあたっての「授業づくりと学びのポイント」も付されている。
 また、その前提として楽しい授業づくりのために、山﨑先生が長い教職生活のなかで大切にしてきた「授業づくり―四つの基本」も序盤で述べられている。
 若い教師は、そこに惹かれるだろう。だが、もちろんながら、それらは「こうすればよい」というマニュアルとして提示されているのではない。
 「こうすればよい」ではなく、「こういう認識のもと、そのように実践したら、子どもからはこんな反応がかえってきた」という確かな実践の軌跡だからこそ説得力があるのであって、だからこそ「なら、自分もやってみたい」という希望も湧いてくるのである。


       ◇    ◆    ◇



 アラゴンの詩(「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと」)にもあるように、本来教育とは希望を育む時間であり、教室とはその空間のはずだが、最近はどうもそういう気配を感じない。
 情熱的な教師と生徒たちとの交流を描いたテレビの「学園ドラマ」も最近は鳴りを潜めているように見える(実際、2016年春のテレビ学園ドラマは1本もなかったようである。その後も、学園を舞台にしていても教師が目立たないという現状である)。
 理由は何だろうか。教師の多忙化・ブラック化など、一連の改革に伴う過酷な学校現場の問題の影響はあるだろう。
「事実は小説より奇なり」(K理事長も証人喚問で言ってたな)。学校で起こっているセンセーショナルな問題の数々が(ネガティブな感情をまとって)インターネットを通してたえまなく流れてくる今のご時世では、学校や教室に「希望」よりも「失望」「絶望」を見出すのがたやすく、その非情な現実を前にしては、もはや嗤うしかないのかもしれない。
 そして、「ケバイ」としか形容のしようがない横文字の教育改革が、さらに追い打ちをかけてくる。

 こういう状況だからこそ、教育を「希望」として語るスタンスが求められる。
 盲ろう者の福島智氏(東大教授)は、アウシュヴィッツ収容所に送られた体験をもつ心理学者V.E.フランクルが編み出した公式

  「絶望」=「苦悩」―「意味」

を、次のように変換して、「教育がもたらす希望」について語っている。


「意味」=「苦悩」+「希望」
〔引用者注:元の式の「意味」を左辺に移項し、「絶望」を右辺に動かして、「ー『絶望』」から「+『希望』」へと反対語にする』
     (中略)
 誰の人生にも必ず苦悩の時期は訪れます。そのとき、「苦悩」を「意味」に転換するものが「希望」なのだと思います。そして、その希望は一人ぼっちでは湧いてきません。身近な仲間との相互の響き合いがあってこそ、希望が生まれます。教育がもたらす希望とは、そんな希望であってほしいと思います。
(福島智「(コラム)『教育』がもたらす希望」汐見稔幸ほか編著『よくわかる教育原理』ミネルヴァ書房、2011年、18-19頁)

 現在、教育に希望が見いだせていないのだとすれば、それは教育を語る教師自身が孤独な状況で、「苦悩」する自分の実践に「意味」を見出す思索の余裕がないからだろう。そして、子どもたちも教室内でバラバラな個人として(「未来の座席獲得競争」のために)学習へと急き立てられ、息苦しさを感じている―。

 べつに「クラスではみんな仲良く、よい子で」とまで言うつもりはない。ただ、同じ空間を共有する仲間として相互に響き合いながら、成長に向かっていくような建設的な関係を構築することまで否定する者はいないだろう。
 そして、教室という空間でそれを可能にするのは、教師が主導する管理・整頓といった集団的規律ではなく、子ども一人ひとりの声を徹底して聴き取る姿勢、そうして教室の仲間という存在の重さを実感した先にある、「楽しい授業」というものではないか。


 授業とは教師があらかじめ用意した授業計画を一方的に実践する場ではなく、子どもたちとともにつくるライブの世界である。
 「もっと子どもたちの顔を見て」「声を聴いて」―。行き詰まっている教師たちには何よりその真摯な姿勢に立ち戻るべきだと、本書は随所で訴えてくる。
 「この教材なら、子どもたちは興味を持つんじゃないか。喜ぶんじゃないか」。そのように発想をめぐらすことこそ、教師が本来発揮すべき専門性のはずである。

 教師は「教育方法の機械」ではない。だから、ICT技術がいくら発展しようとも「すばらしい授業など動画一本で足りる(=すぐれた教師一人がいればいい)」などという事態は絶対に訪れないというのが私の見立ててである。
“効果的な教育方法の開発・適用という視点ではなく、教師の企図通りに進まない子どもの現実を前にしながらも、その一人ひとりの固有の成長を信じて応答・支援の決断を下す”。そのくり返しのなかにこそ、教職の「苦悩」と「意味」、すなわち「希望」はあるのである。


        ◇


 あとがきで、山﨑先生は次のように述べている。

 全国の教師のみなさんや、将来教職を目指す学生の皆さんが、本書を手にして下さり「ああ、これだったら、私ならもっと楽しくできる」「子どもが授業で夢中になるって素敵だな」「よし、もっと自由に私らしい授業をしていこう」「私のクラスの子どもたちと、私のクラスにしか生まれない授業を生みだしていこう」―、そんなふうに思って下さったらうれしいです。
 この思いが、今日の学校に支配的なスタンダードや、マニュアル対応優先の貧しい授業観・教育観を乗り越え、教育と学校の閉塞を打ち破り、未来を切り拓く力になっていくのだと考えます。

教育の本質とは何だったか(「よい教育とは何か」)、その問いに今一度立ちかえるきっかけを本書は教えてくれる。

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