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教育勅語活用の非道徳性

 教育勅語が21世紀にもなってこれほど注目されるとは思いもしなかった。日本教育史の授業では毎年取り扱ってきたので(もちろん批判的にだけど)、このように政治家たちから壮大にネタを投下されて議論が盛り上がると学生を関心を持つので、教育現場としては教えやすい。

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 教育勅語には親孝行など普遍的な教えが記されている、と主張する人がいる。
だがそれは勅語の本旨をまったく捉えていない、誤った解釈である。

 そういう人たちには「親孝行や友達と仲良くするのは何のため?」と尋ねたい。「そんなの自然な感情だろ!」というのは、教育勅語の趣旨に照らして間違いである。「親孝行するのは、お国のためであり、天皇からの命令だ」と答えないと、修身科の試験だったらバツをつけられる。

 本来子どもの内面的規範として形成されるはずの「父母を敬愛する」という自然的感情を先取りして、国家や天皇に対する忠誠心へとつなげる。教育勅語はそういう構造になっている。だから、子どもは常に道徳の内面化の契機を失う。「勅語に記されているから」という理由で盲目的に規範に従うという構造を作り上げてしまう。学習指導要領が謳う「考え、議論する道徳」にも反している。他律的道徳の域を出ない教育勅語に、およそ教材としての価値はない。

 「親孝行を否定するとは何事だ!」と教育勅語の教材化に非難の目を向ける人間もいるが、教育勅語批判者でそんなことを考えている人など誰もいない。
 (天皇と言う)権威を盾に道徳を振りかざし、強制的に同調を求めて追い詰める、その行為を問題視しているのである。


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「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」


国家に緊急の事態が生じたら、正義の心と勇気でもって奉仕し、永遠に続く皇室の運命を護りなさい、という意味である。


稲田防衛大臣は「教育勅語に流れている核の部分は取り戻すべき」と述べていた。稲田氏は勅語の精神は「日本が道義国家を目指す」という点にあるというが、「道義国家」の意味は不明である。


教育勅語の「核」こそは、この「一旦緩急アレハ……天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」である。大臣の本音もここであろう。「血を流さなければ国を護ることなんてできない」とまで言ったのだから。



 国家の一大事においては国民が命をかけるのはあたりまえだという主張を展開する人がいる。


 だが「命をかける」とは? 
戦争になったとき、具体的に国民一人ひとりには何ができるのか? 兵士になる?
 まあ、高度な兵器戦の現代においてそれはないだろう。
それに、「それはない」と言ってきたのは、ほかならぬ安倍総理だ。


 では、何がどうなるのか? 
われわれ一人ひとりは何をするのか?
日常生活では倹約して我慢する? 
「鬼畜米英」よろしく、相手国に敵意を向けて、その国民を憎悪する?
文句は言わず、疑いもせず、国の言うことに従順に従う? 
そして、国の方針に従わない国民については「反日」としてこれを非難し、差別し、排除していく? 

 そうした監視と熱狂のもとで異論は封殺され、後戻りできない戦争への道が血で塗り固められてきたのではなかったか。
しかも結局、それはわれわれ国民の首を絞める結果になった―。
それが先の戦争で得た教訓のはずである。

「みんなで力を合わせて立ち向かう」などというキレイゴトで済まない無慈悲な現実こそが戦争であり、にもかかわらずその表面的な道徳に幻想をみて、容赦なく命の目方を軽くしてきたところに、環境に染まった人間の怖さがあったのではなかったか。
 教育勅語を教えることよりも、そのような過去の歴史と人間への洞察を深める教育活動こそ、本来は重視すべきだろう。
でないと、単なる独りよがりの愛国カルトで終わってしまう。

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