映画「気違い部落」をみる

 八王子の自治体史の編さん事業に関わっている関係で、きだみのる(*)原作の映画「気違い部落」(1957年、松竹大船、菊島隆三脚本、渋谷実監督作品、昭和32年芸術祭参加作品、八王子市中央図書館所蔵)の特別上映会に参加、映画を視聴することができた。

 こういう機会がなければ、二度とみることはないであろう代物である。何しろ、「気違い」に「部落」という放送禁止用語の二重奏であるから、今のメディアではとうてい放送できない。
 だが、きだみのるの問題提起は、きわめて普遍的なものといえる。むしろ、「気違い部落」という概念は、現在も一定の有効性をもっているといってもよい(というのは、言い過ぎですか?)。    

 主演の伊藤雄之助をはじめ、俳優たちの演技には圧倒される。あのスクリーンからにじみ出るアクの強い個性を前にしたら、イマドキの若手俳優の演技など簡単に吹き飛んでしまう(そして、森繁久彌が若い。また、怪獣映画などの東宝特撮ファンからすると、ヒロイン・水野久美のデビュー作ということで、本作をみたことによる感慨は一入らしい。)。

 近代化がどんどん進んでいく一方、「村八分」などの長年その土地を支配している土着のしきたりはそう簡単には消えない。

 そして、それは都心部から遠く離れた、辺境の「気違い部落」に限定されたものなのだろうか。

 この映画が、最後に視聴者に投げかけるメッセージは、じつにストレートである。


(*)ファーブル昆虫記の訳者でも知られるきだみのるは、戦時期の疎開を期に、八王子の恩方村で暮らしはじめる。毎日出版文化賞を受賞した『気違い部落周遊紀行』は、ここでの暮らしを基盤として生み出された。なお、映画のほうは、川口地区(旧川口村)がロケ地として使われているようす。劇中に登場するヒロインのモデルとなった女性は(作中では亡くなるが)、今もご顕在である。  

※同映画の詳細は、以下を参照されたい。 http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/eigahyou52/kichigaiburaku.html

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[テレビ]TOKYO畜産ガールズをみた

(番組概要)
■TOKYO畜産ガールズ〜牛と豚と女子高生〜(再)
2014年2月13日(木) 02:29〜03:29 放送(2014年2月12日(水) 26:29〜27:29 放送)
東京都で唯一『畜産科』がある瑞穂農芸高校。今なぜか女子に大人気の『畜産科』…都会の女子高生が泥と糞と汗と涙にまみれ命と向き合う記録 (語り:TARAKO) 
 
      ◆


 再放送だったのか。
 五輪放送を見ながら夜なべを、と夜更かししていたのだけど、何げにチャンネルを回していて、この番組が目にとまり、そのタイトルに惹かれて途中からみはじめた。

 道徳教材としてもすぐれた番組だと思う(録画してなかったことを後悔するほど)。
以前テレビで放送され、映画化もされた「ブタがいた教室」よりも、内容的におもしろいのではないだろうか。
 個人的には、そんな感想をもった。


  登場人物は、畜産を専門に学んでいる女子高生たちである。
彼女たちは牛・豚を、「出荷する」ために、懸命に育てる。
結論は最初から「殺して食べてもらう」ためと、決まっている。
それが日常であり、学校のカリキュラムなのである。

 子ブタの去勢手術の実習もする(去勢すると、きれいな霜降り肉になりやすいという)。

ただ「殺すため」ではない。いかに「おいしい肉」を生産するか、という立場から、かわいい子ブタの「生」を操作することを、生徒たちは学ぶ。
 だが、そんな彼女たちからは悲壮感のようなものは感じられない。
明るく、そして真剣に「動物の生き死に」に向き合っている様子は、みていて清々しい。

 彼女たちの先には、肉を消費する、われわれ一般市民がいる―。
「命をいただく」という日々の行為の社会的背景や、われわれの食生活に欠かせない、畜産に従事する人々への理解=「他者認識」を豊かにするうえでよい映像資料だと思う。
(ちょうど、大学で教職科目「道徳の指導法」を教えている身としては、そういう眼で見てしまうところがある)。

      ◆


 女子高生たちは自分の担当する牛・豚に名前をつけていた。これに対しては、批判する人も出てくるだろう。「家畜に名前をつけてはいけない」と。実際、「ブタのいた教室」や、情熱大陸でクローズアップされた福岡県の高校教師の指導に対して、そのような批判がネット上で散見されたことは、自分も確認している。


 しかし、番組での彼女たちの活動をみれば、その種の批判が些末なものであり、また「動物の生き死に」の現実から目を背けたものの言いぐさでしかないということに気づくだろう。

 そもそも家畜を育てるという行為自体、ペットを飼うのと同様、その動物に対する愛情がなければできない行為である。たしかに、名目は「よい肉、よい製品にする」ことである。だが、その目的を達成するためには、それこそ犬や猫のような愛玩動物よりはるかに手間のかかってきつい、かつ高度に専門的な作業が求められるのである。それを、生徒たちはこなしている。
 その実態を知れば、「家畜の名付け」など、些末な問題であることがわかる。

 たとえ、名付けようと名付けまいと、彼女たち=生産者・畜産家の家畜に対する愛情をもったかかわりがなければ、われわれ消費者に届く、良質のお肉は生産できないのである。「トウキョウX」のようなブランド種なら、なおさら、手塩にかけて育てるこだわりが必要になる。
  また、そんな単純に、動物を「ペットだ」「家畜だ」とを切り離して捉える判断をすることなど、その動物たちを育てている状況ではできないだろう。どちらも「動物の生」に真摯に向き合っているかぎり、そこに区別はつけられない。

 牛・豚の出産立ち合いや子豚の去勢実習のシーンなど、番組中には生々しい映像もでてくる。それらは、「ペット」だ「家畜」だという人間側の勝手なラべリングには左右されない、「動物たちの生」がはっきりとそこに息づいているのだという厳然たる事実を視聴者に突きつける。

 人間の都合や矛盾を背負った家畜たちの生と向き合う女子高生たちの実直な姿をみて、以上のことに改めて、考えが及んだ次第である。


 出荷のためにトラックに牛を乗せる別れのときの生徒のふるまいには、名残を惜しむ気持ちは感じられるものの、動揺は見受けられない。
 むしろ、「動物の生」とたしかに向き合ったという芯の強さを感じ取ることができた。

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重力すら無力化する“家族の絆”

  先日(22日)、“映画『重力ピエロ』世界最速 完成披露試写会”に行ってきた。
会場は、完成したばかりの萩ホール(旧川内記念講堂)である。
 改めて言うまでもなく、原作は伊坂幸太郎さんの名作『重力ピエロ』(新潮文庫、2006年)。
 
 小説もすばらしかったが、映画もまた、すばらしかった。映画ならではの良さがあった(自分は小説を途中で読むのをやめ、映画を見た後、改めて小説の続きを読むというかたちで上映会に臨んだ。違う読み方をしたら、また違った感想になるかも)。
 限られた上映時間という制約の中、思わずストーリーに引き込まれる、スリリングな展開に仕上がっていた。原作にはない、映画独特のユーモアなシーンも含まれていた。その一方、小説の冒頭と同じ台詞からスタートする演出もにくかった。
 それにキャスティングが渋い。とくに父親は、小日向文世さんの醸し出す雰囲気で、原作よりも穏やかで魅力的な存在に染め上げられていたように思う。クライマックスにおける小日向さんの演技~春に語る一言~は感動せずにはいられない(春の仕草をみて、父さんが何を言うか、みる側がわかってしまうというのが、いっそう涙をそそる)。

 奥野兄弟の人物設定も、原作と若干違っていたと思う。年齢を若干若めに設定していただろうか。若者の青的な要素も映画からはふんだんに感じられたし、シナリオもそれに合うようなアレンジになっていた。これもキャスティング(加瀬亮、岡田将生両氏の爽やかなイメージ)ゆえか。
 仙台・宮城の豊かな景観、とくに萌える緑が、そんな主人公たちの織りなすドラマを引き立てていたように思う。
 そう、物語の舞台がここ杜の都であることもあって、仙台・宮城の各所がロケが敢行され、とりわけ仙台市民なら「あそこだ」とすぐわかる景色・スポットがシーンの随所で確認できる(あちこちで撮影している。東北大学も初めて映画のロケに使われた。背景にこだわっていることがわかる)。そんな映像ならではのからくりも、この映画の一つの楽しみといえる。

      ◇

 この作品のテーマは“家族の絆”である。上映後の舞台挨拶で、母親役の鈴木京香さんをはじめ、一家そろって登壇した奥野家の皆とも確かにそのことを強調していた。
 DNAといった科学的根拠では解読できない“家族の絆”。最大公約数的な世間の常識でははかれない“家族の絆”。それがこの作品の一つのテーマであったと思う。
 現代的な社会問題に広くコミットした、考えさせる作品だともいえる。
 例えば、映画でもあった泉水(加瀬亮)の台詞(以下、小説から引用)。

「おまえはきっと、そのことについて、今まで何百回、何千回と考えてきたんだ。悩んできた。そうだろ」
「そのおまえが出した結論なんだ。他の、ちょっと首を突っ込んできた野次馬だとか、刑事だとか、法律家にとやかく言われる必要はないよ」
「たぶん、おまえ以上に、このことを真剣に考えた奴なんて、世の中にいないんだ」

 この映画の封切りは来年の春である。それを念頭におけば、来年の春から開始される裁判員制度への問題提起となる部分をもこの映画は含んでいると自分は読んだ。それも、「それでもボクはやってない」で脚光を浴びた加瀬さんが如上の台詞を言うのだから、どうしても日本の司法への問題提起として読まざるを得ない。その意味では、まさに、絶妙な時期にロードショーとなる映画であるといえるのではないか。

[リンク]
■映画『重力ピエロ』オフィシャルサイト

■「加瀬亮×岡田将生が劇中以上の兄弟愛を発揮! 『重力ピエロ』“世界最速”上映」、cinemacafe.net、2008年12月24日。

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[木ログ]神聖喜劇ふたたび

ETV特集 神聖喜劇ふたたび~作家・大西巨人の闘い~ 1/10

シビれるわー。番組の構成にも魅せられる。動画は10分割されているけど、全部視聴することをおすすめ。

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上海から先生がやってきた

■NHKスペシャル「激流中国・上海から先生がやってきた~貧困の村で~」(2008/3/2)
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080302.html

経済成長のかげで、およそ6000万人の貧困人口を抱える中国農村部。貧しさの原因とは何なのか。彼らを救う手だてはあるのか。貧困地区を助けようと都会からやってきた若者たちの苦闘と農村の現実を半年間にわたって取材した。

これまでに10万人が参加したという都会の若者が貧困を助ける支援プロジェクト。今年、黄土高原の最貧困地域、寧夏回族自治区西吉県に13人の若者が派遣された。メンバーの一人、上海の名門、復旦大学に通う梁佩思(りょうはいし)さん(22)は、外資系企業からの就職の誘いを断り、貧しい農村の高校で一年間のボランティア教師となることを決意した。

しかし、苦労知らずの都会暮らしの梁さんを、想像を絶する日々が待ち受けていた。零下15度に冷え込む厳しい自然。具のない饅頭だけが、毎朝毎晩続く食事。あたりには故郷を捨てて移住した農家の跡が点在していた。
それでも子どもたちは、貧しさから抜け出すために、一心不乱に進学を目指す。梁さんは、生徒たちの家に通い、親身になって相談に乗り始めた。しかし、親の病気を治すにも借金が必要で、返済のために子どもは進学の道を断たれる悪循環。非情な経済の論理が急速に農村を蝕んでいる実態に、途方に暮れるばかりだった。 

若者たちの悪戦苦闘を通して、貧困の現実と彼女たちの心の葛藤を大自然をバックに描き出していく。

 中国版・大石先生(『二十四の瞳』)とでもいうべきか。あるいは中国版・北方教師、『山びこ学校』か。過去の日本が抱えたであろう問題=都市と農村との格差と同じようなイメージをもたざるを得なかった。農村若者の出稼ぎは、日本における高度成長期の集団就職を思わせる。大きな違いはおそらく、「都会の若者が貧困を助ける支援プロジェクト」が国家的規模で大々的に展開されていること、にもかかわらず、格差解消という問題は若者の「大学への進学」という個人的課題の枠組みで受け止められていることだろう。少なくとも、番組の構成からはそのような問題の構図として受け取れた。

 大学出の若い「令嬢」教師が、貧困からの脱却という切実な農村の課題を、都市への進学と強く結びつけて必死で教育を行っている。
そんな印象を強くもった。もちろん、この競争意識を煽るやり方はどこかで行き詰まる。個々の家族に大きな負担をもたらす。農村の空洞化が深刻化する。そもそも「選抜」という仕方で貧困にあえぐ生徒すべてが救済されるわけではない。にもかかわらず、農村家族はそこにしか活路を見出せないでいる。中国の教育もまた隘路に入り込んでいるようにみえてきた。

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主体的責任意識

 今回の『ザ・スクープSP』(07.8.12)も、切れ味鋭かった。
 第二部の731部隊の闇を追跡した報道についていえば、新たな史料(「特移扱」の文字が示す、生体実験への軍全体の組織的な関与の可能性)・証言の発掘とともに、歴史を捉える枠組み-戦後へのつながりを提起していることが、やはり刺激的である。
 生体実験のデータという稀少価値をもつ資料をめぐる米ソの駆け引き、戦犯免責(問題の隠蔽)、そして戦後医学界、ミドリ十字(薬害エイズ問題)。これら個別の事実が一つのつながりのもとに描かれていた。戦前-戦後の連続性が提起されていたともいえる。731部隊の「闇」とは、総括されてこなかった戦争責任の問題であり、現代に生きるわれわれが考えていかなければならない問題だと。

 そして、また今回も、昨年夏の放送(「終戦61年目の真実~昭和史のタブーに迫る」)のときと同じ感想をもたざるを得なかった。昨年、ブログに書いていた感想とは、以下のとおりである。

彼らの医者・科学者としての倫理的精神が個人の内面的自覚によってではなく、外的な条件に左右されている(流されている)という問題性も、一方で強烈に感じざるを得なかった。(中略)
 九州の大学病院での生体解剖実験をモデルとした遠藤周作の名作『海と毒薬』(新潮文庫、1960年、初版は1955年)では、まさにその点が主題となっていた。
 倫理的あるいは宗教的な選択があってしかるべきところが、空白のままやり過ごされてしまう日本人の精神的倫理的「真空」、神なき日本人の(世間や社会の「罰」しか知らない)「罪の意識」不在の不気味さへの着目。それが作者の一つのメッセージであったと思う。「ザ・スクープ」をみ終えた自分の頭に浮かんだのは、『海と毒薬』のこのメッセージだった。

 その夜は、ETV特集「城山三郎 “昭和”と格闘した作家」をみる。「個人」を蹂躙する「組織」の中で、いかにそれに抗い、生きるか。それを歴史上の日本人の生き様のなかに見いだし続けた城山さん。『落日燃ゆ』における廣田弘毅の生き様(他の戦争に関わった指導者たちが自殺、もしくは東京裁判で権限への逃避による弁明を続けるなか、いっさい弁明せず、自ら戦争の責任をとって「殺される」道を歩んだ)に想いを馳せるにつけ、以上に記した感想はいっそう強くなる。

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「状況の力」の恐ろしさ、悪の平凡さ

土曜深夜にテレビで放送していた映画es[エス]は、すごい映画だった。
1971年、スタンフォード大学で行われたある心理学実験の顛末を題材として、ドイツ人がドイツを舞台に映画化した。

 「模範刑務所で2週間の心理実験。報酬は4000マルク」
大学施設内に用意された模擬刑務所のなかで、募集で集められた被験者たちが看守と囚人に分かれ、2週間を過ごす。実験の内容はそのようなものであった。しかし、数日も経たずに被験者たちの様子は一変し、非人間的でおぞましい惨劇へと向かっていく―。
 映画は、実験の結果を忠実に再現しているというが、にわかには信じがたいほど、その詳細は残酷である。しかも、看守(役)も囚人(役)も、募集で集められたごくごく「普通の人たち」である。その「普通の人たち」がいつしか与えられた役割を務めるうちに「人格」を支配され(しかも自分では気づかない。むしろ積極的にその状況に寄り添っていく)、「状況の力」の前に服従・順応していく。そして、その支配に対して弱者である囚人(役)から抵抗が行われるとき、「状況」は残酷さを加速させてゆく。
 「悪の平凡さ」という言葉の意味を、この映画は教えてくれる。

 この作品がドイツ人の手によって描かれたのは大きい。その点こそが、実は、この映画の最も重要なポイントなのかもしれない。ナチズムの歴史を想起せずにはいられないからである(しかし、映画のなかでナチズムに言及するシーンは、ほんの一瞬しかない)。ドイツの懐の深さを感じる。
 この作品を日本版として(我が事として)映画化できるだろうか……。

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「いたちのたぬき」がイタイタヌキ

 久しぶりに『ピタゴラスイッチ』を視聴。
DVDブックにまでなっている「ピタゴラそうち(装置)」は相変わらずスゴイ。
“いつもここから”の「アルゴリズムたいそう(体操)」は、ついにプロ野球選手とまでコラボレーションしている(かつて「忍者のみなさんといっしょ」という、思わず噴きだしたコラボもあったが)。
 幼児向け番組だが、大人も楽しませてくれる。人気の理由は、何か子どもたちに知識を与え、啓蒙するというありがちな発想ではなく、「ものの見方を変える」という点にこだわった番組制作による成果だろう。
 我々が日常的に見る風景の一部を○や△、あるいは「―(棒)」などの記号に実験的に置き換え、抽象化したりすることで、世界の認識の仕方を考える。一人一人が同じ動作をするという従来の発想を転換し、二人以上が異なる動作をすることではじめてカタチが完成するという新しいタイプの体操・行進。等々。子ども・大人にかかわらず、その既有の認識構造をゆさぶられるからこそ、楽しめる番組だといってもよい(大人自身が見て楽しくないものが子どもにとって楽しいはずもない)。そして、その認識のゆさぶりこそは、子どもの発達段階などに関係なく、〈学び〉の根幹に関わるものである。ピタとゴラによる恒例の「じーっ(字のシャレか?)、こどもだから、よめませーん」という百科おじさんへのセリフからテレビのジョンの登場へという毎回お決まりのシーンをみるたびに、「語彙が足りなく、本を読めない子どもたちにも、このような映像を駆使した教育メディアを通して、十分に自然・社会・科学に関する〈学び〉の楽しさを与えることができる」と制作サイドが間接的かつ意図的にメッセージを発していると受けとるのだが、それほどハズれた理解ではないだろう。さらにいえば、あのシーンは、よく陥りがちな百科全書的知識(情報)付加型学習への批判をも匂わせているように思える。同番組が2003年に日本賞を受賞した(第30回・総務大臣賞-子ども番組の部)のも十分に肯ける。
 さて、久々にみたところ、初めて聴く新しい歌(?)が流れた。
この「いたちのたぬき」という歌が、じつに印象的で脳裏に焼き付いた。以下に歌詞を記す。

 いたちのたぬき 
  
  いたちのたぬき
  かにのかとり
  さんまのまぬけ
  おはしのおはなし
  たまごとるタマ
  ふろくふとる
  バナナのバトル
  はちまきまきとる
  きゅうりのリトル
  ジュースのストロー

この歌詞には、ある法則が隠れている。番組をみていない人は、ぜひ考えてみて。

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「逆さの世界」の喜劇王

 読書会+αのメンバーで、チャップリンの映画『独裁者』、『モダンタイムス』、『黄金狂時代』(『ゴールド・ラッシュ』)をみる。丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1968年)所収の論文「現代における人間と政治」(452頁-)の冒頭、これら映画のシーンについて触れられており、それがきっかけとなって上映会という運びとなった。チャップリンが演出した現代における「倒錯」・「逆さの世界」に関し、丸山が注目した部分について確認し、合わせて喜劇王による見事なコメディを楽しむ(その手法の多くは、今日に受け継がれていると感じさせる。さすがに、三本ぶっつづけでみるのは疲れたが…)。

 丸山は、チャップリンの映画から、次のような意味を引き出している。

チャップリンは、現代とはいかなる時代かを執拗に問いながら、くりかえし同じ規定を以て答えているように見える。それは「逆さの時代」だということである。何をもって「逆さの時代」というか。それは常態と顛倒した出来事が〈あちこち〉(傍点部)に見られるとか、人々の認識や評価が〈時折〉(傍点部)狂いだすとかいうような個別的な事象をこえて、人間と社会の関係〈そのもの〉(傍点部)が根本的に倒錯している時代、その意味で倒錯が社会関係のなかにいわば構造化されているような時代ということである。(463頁)

 『独裁者』の導入部分における飛行機のシーンは、(主人公である床屋の記憶喪失と合わせて)まさに「逆さの世界」への入口を演出したとも受け取れたし、『モダンタイムス』におけるあの最高に笑えた自動飲食マシーンは、人間の自然な欲求すら能率的に操作されるという人間と機械の倒錯した「逆さ」の関係を表している。しかも、その倒錯が、現代に生きる我々にもそのままあてはまるとすれば、いったい素直に笑えるシーンなのか…

   ■   ■

 学問的な文献・論文だけでなく、このように大衆映画を素材として議論を展開する丸山の手法、その多趣味には驚かされる(彼の音楽嗜好も有名だ)。『論座』10月号(2006年、朝日新聞社)には、「『速舌遅筆』丸山眞男の超人的好奇心」と題して、『現代政治の思想と行動』の編集に携わった松本昌次氏のインタビューが載っている(「“生涯現役編集者”松本昌次が語る わたしの戦後出版史―その側面⑦」)。 映画、演劇、音楽、専門外のあらゆるジャンルにわたって、あらゆる蘊蓄を傾けてダベるその饒舌ぶりや、好奇心の旺盛さを示すエピソードが語られている。「いかなる場合も、広く深い学問的・時代的経験に立って、全人格的といいますか、全身体的といいますか、持てるものをすべて出しきって、書く主題とわたりあうようにして書かれている」(同上、335頁)丸山の本はたしかに刺激的で、「面白い」。

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人心の真空

 テレビ番組「ザ・スクープスペシャル 終戦61年目の真実~昭和史のタブーに迫る」(朝日系、06.8.6放送)をみる。番組の前半、第一部で日本における幻の原爆計画、そして後半の第二部では九州大学生体解剖実験が取り上げられた。
 これまで昭和史最大のタブーとして関係者の多くが口を閉ざしていた歴史的事実を、スクープ資料の分析や「ようやく重い口を開いてくださった関係者」から話を伺うことを通して浮き彫りにしている。自分の出身県である福島県(石川町)も和製原子爆弾製造の舞台となっていたこと、地元の旧制中学の生徒が被爆対策もなしに作業していたなどの詳細な史実の提示は、みている者に歴史の迫力を感じさせる。
 関係者の話からは当時彼らが持っていた生活感情ともいうべきものも垣間見えて、そのリアルさが興味をそそった。
 人命をあずかる仁術者であるはずの医者と、科学的真理の追究に邁進するはずの科学者。そのどちらもが戦争という末期的事態のなかで、国家の戦争協力へと駆り立てられていく。
 彼らの活動の軌跡からは、戦地に赴く、動員されることへの不安や同胞への負い目、自己嫌悪、組織生活の中での疑心暗鬼、人間不信、周囲からの尊厳を勝ち取るための協力といった複雑な感情が入り交じっていたことを読みとることができた。
 とともに、彼らの医者・科学者としての倫理的精神が個人の内面的自覚によってではなく、外的な条件に左右されている(流されている)という問題性も、一方で強烈に感じざるを得なかった。いずれのタブーにしても、「戦争はそこまで人間を狂わせる」という言葉で片づけてしまっていい問題ではないだろう。

 九州の大学病院での生体解剖実験をモデルとした遠藤周作の名作『海と毒薬』(新潮文庫、1960年、初版は1955年)では、まさにその点が主題となっていた。
 倫理的あるいは宗教的な選択があってしかるべきところが、空白のままやり過ごされてしまう日本人の精神的倫理的「真空」、神なき日本人の(世間や社会の「罰」しか知らない)「罪の意識」不在の不気味さへの着目。それが作者の一つのメッセージであったと思う。「ザ・スクープ」をみ終えた自分の頭に浮かんだのは、『海と毒薬』のこのメッセージだった。

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