教育という希望

久々に更新(1年とちょっとぶり)。以下、読書ノートとして。

■山﨑隆夫『教室は楽しい授業でいっぱいだ』(高文研、2017年)

著者の山﨑先生からご恵投を賜った。ありがとうございます。

           ◇


 山﨑先生の著書や論考では、必ずご自身や子どもたちのセリフが具体的に、豊富に挙げられる。ささいに見えるやりとりや子どもの所作を率直に綴る筆致が、読み手に現場の情景~教室での子どたちの“心はずむ”ようす~を豊かにイメージさせてくれる。
 それは、先生自身が「子どもの声を徹底して聴く」という思想を核として、自身の実践を創り上げているからである(この真逆が、今話題のM学園のK理事長の主張である。そこでは子どもたちへのまなざしはまったく語られない)。


 山﨑先生のような書き方は、自分にはとてもできない。ただただ、こういう実践記録があるよと今回も学生たちに紹介するばかりである。


 本書では、若手教師が「自分もやってみたい」と思える、楽しい授業事例がたくさん紹介されているほか、その実践を行うにあたっての「授業づくりと学びのポイント」も付されている。
 また、その前提として楽しい授業づくりのために、山﨑先生が長い教職生活のなかで大切にしてきた「授業づくり―四つの基本」も序盤で述べられている。
 若い教師は、そこに惹かれるだろう。だが、もちろんながら、それらは「こうすればよい」というマニュアルとして提示されているのではない。
 「こうすればよい」ではなく、「こういう認識のもと、そのように実践したら、子どもからはこんな反応がかえってきた」という確かな実践の軌跡だからこそ説得力があるのであって、だからこそ「なら、自分もやってみたい」という希望も湧いてくるのである。


       ◇    ◆    ◇



 アラゴンの詩(「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸にきざむこと」)にもあるように、本来教育とは希望を育む時間であり、教室とはその空間のはずだが、最近はどうもそういう気配を感じない。
 情熱的な教師と生徒たちとの交流を描いたテレビの「学園ドラマ」も最近は鳴りを潜めているように見える(実際、2016年春のテレビ学園ドラマは1本もなかったようである。その後も、学園を舞台にしていても教師が目立たないという現状である)。
 理由は何だろうか。教師の多忙化・ブラック化など、一連の改革に伴う過酷な学校現場の問題の影響はあるだろう。
「事実は小説より奇なり」(K理事長も証人喚問で言ってたな)。学校で起こっているセンセーショナルな問題の数々が(ネガティブな感情をまとって)インターネットを通してたえまなく流れてくる今のご時世では、学校や教室に「希望」よりも「失望」「絶望」を見出すのがたやすく、その非情な現実を前にしては、もはや嗤うしかないのかもしれない。
 そして、「ケバイ」としか形容のしようがない横文字の教育改革が、さらに追い打ちをかけてくる。

 こういう状況だからこそ、教育を「希望」として語るスタンスが求められる。
 盲ろう者の福島智氏(東大教授)は、アウシュヴィッツ収容所に送られた体験をもつ心理学者V.E.フランクルが編み出した公式

  「絶望」=「苦悩」―「意味」

を、次のように変換して、「教育がもたらす希望」について語っている。


「意味」=「苦悩」+「希望」
〔引用者注:元の式の「意味」を左辺に移項し、「絶望」を右辺に動かして、「ー『絶望』」から「+『希望』」へと反対語にする』
     (中略)
 誰の人生にも必ず苦悩の時期は訪れます。そのとき、「苦悩」を「意味」に転換するものが「希望」なのだと思います。そして、その希望は一人ぼっちでは湧いてきません。身近な仲間との相互の響き合いがあってこそ、希望が生まれます。教育がもたらす希望とは、そんな希望であってほしいと思います。
(福島智「(コラム)『教育』がもたらす希望」汐見稔幸ほか編著『よくわかる教育原理』ミネルヴァ書房、2011年、18-19頁)

 現在、教育に希望が見いだせていないのだとすれば、それは教育を語る教師自身が孤独な状況で、「苦悩」する自分の実践に「意味」を見出す思索の余裕がないからだろう。そして、子どもたちも教室内でバラバラな個人として(「未来の座席獲得競争」のために)学習へと急き立てられ、息苦しさを感じている―。

 べつに「クラスではみんな仲良く、よい子で」とまで言うつもりはない。ただ、同じ空間を共有する仲間として相互に響き合いながら、成長に向かっていくような建設的な関係を構築することまで否定する者はいないだろう。
 そして、教室という空間でそれを可能にするのは、教師が主導する管理・整頓といった集団的規律ではなく、子ども一人ひとりの声を徹底して聴き取る姿勢、そうして教室の仲間という存在の重さを実感した先にある、「楽しい授業」というものではないか。


 授業とは教師があらかじめ用意した授業計画を一方的に実践する場ではなく、子どもたちとともにつくるライブの世界である。
 「もっと子どもたちの顔を見て」「声を聴いて」―。行き詰まっている教師たちには何よりその真摯な姿勢に立ち戻るべきだと、本書は随所で訴えてくる。
 「この教材なら、子どもたちは興味を持つんじゃないか。喜ぶんじゃないか」。そのように発想をめぐらすことこそ、教師が本来発揮すべき専門性のはずである。

 教師は「教育方法の機械」ではない。だから、ICT技術がいくら発展しようとも「すばらしい授業など動画一本で足りる(=すぐれた教師一人がいればいい)」などという事態は絶対に訪れないというのが私の見立ててである。
“効果的な教育方法の開発・適用という視点ではなく、教師の企図通りに進まない子どもの現実を前にしながらも、その一人ひとりの固有の成長を信じて応答・支援の決断を下す”。そのくり返しのなかにこそ、教職の「苦悩」と「意味」、すなわち「希望」はあるのである。


        ◇


 あとがきで、山﨑先生は次のように述べている。

 全国の教師のみなさんや、将来教職を目指す学生の皆さんが、本書を手にして下さり「ああ、これだったら、私ならもっと楽しくできる」「子どもが授業で夢中になるって素敵だな」「よし、もっと自由に私らしい授業をしていこう」「私のクラスの子どもたちと、私のクラスにしか生まれない授業を生みだしていこう」―、そんなふうに思って下さったらうれしいです。
 この思いが、今日の学校に支配的なスタンダードや、マニュアル対応優先の貧しい授業観・教育観を乗り越え、教育と学校の閉塞を打ち破り、未来を切り拓く力になっていくのだと考えます。

教育の本質とは何だったか(「よい教育とは何か」)、その問いに今一度立ちかえるきっかけを本書は教えてくれる。

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[本]『新採教師はなぜ追いつめられたのか』

■久冨善之・佐藤博編『新採教師はなぜ追いつめられたのか―苦悩と挫折から希望と再生を求めて―』高文研、2010年。

 今年もいろいろな本を買っては積んだままにしてきたので、あまり今年のベスト○冊などと吟味する資格はないのだけど、今年出版され、読んだ本のなかで最も印象に残ったのは、この本だった。

  本書で紹介されている内容は、今年7月19日-23日の朝日新聞の特集記事「いま、先生は」でも取り上げられた。雑誌『教職課程』2010年6月号のレビュー欄でも「これから教師になろうという方には、どうしても読んでおいてほしい本」「つらい話だが読んでおいてほしい」と紹介されている。
  本書では、3件の新採教師の自殺事件(うち2件は東京)についての概要と公務災害認定をめぐるその後の展開、試練の日々から出発した若手教師たちの手記などが掲載されている。
 この20余年間、ひたすら教師に対する不満・不信を煽り、「評価」という名の管理・監視の眼差しで教師を追い詰めてきた「教育改革」が、教師の精神疾患の急増、その末の過労死・自殺に帰結している現状は、しっかり直視し、また広く知られる必要がある。

 本書で紹介されている事件から見えてくる現場の課題は、「若手教員を育てる現場の同僚性・協同性」の土壌が全くといっていいほど、学校から失われている現状である。
  教員が自殺した学校では、「給料もらってるんだろう、アルバイトじゃないんだぞ。ちゃんと働け」という管理職・同僚からの叱責があるばかりで、教員同士助け合う土壌がなかった。すべてが、その教員の個人的な問題へと帰せられてしまうのである。
  若手教員が、失敗をおかすことはよくあるはず。だが、それを学校全体としてカバーしていくだけの余裕がないというのは、どういうわけなのか。これは、決して「教員の力量」「意識改革」云々の問題ではない。教師の職能を成長させていくうえで従来大きな役割を担ってきた、同僚間のフレキシブルな学びあい・語りあいの機会が失われていることが大問題なのである。
 一部保護者からの理不尽なクレームも、もちろん問題だろう。だが、「世の中にはそういう人もいる」ということも含めて、学校全体として受け止めていく「職場づくり」ができていない(しようともしない)、管理職の姿勢こそが問題といわなければならない。
 
 本書から見えてくるのは、そのような現代教育の課題である。
 では、若手教員たちは、このような現状にどう向き合っていけばよいのか。
  ヒントは、本書の後半にある(「若い教師たちのサークル」)。校内に自由に学びあう・語りあうステージがないのであれば、校外につくるしかない。
 
  校種をも超えた広い「専門職仲間」同士の連帯の中でこそ、問題解決の糸口はみえてくる。
  “一人で悩みを抱え込まず、広い関係性の中で問題を共有し合う”。若い教師、また、これから教師になろうとしている人たちは、ぜひ、本書が送るこのメッセージを受け止めてほしい。

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[本]近刊です

学術出版会のウェブサイトで宣伝されています。

梶山雅史編著『続・近代日本教育会史研究』

近代日本教育の構造的解明をめざす共同研究の新たな成果と問題提起!

明治10年代に全国各地に登場した教育会は、府県・郡区町村それぞれのレベルにおいて固有の成立経緯・組織形態をもちながら、各地域の教育事業振興に極めて大きな作用を及ぼし、また当時の教育関係者や地域住民の価値観や教育意識形成に深い関わりをもっていた。
本書は、日本教育史上、新たな組織として登場した中央・地方教育会の設立から衰退に至る経緯、その実態・機能・歴史的役割に関する包括的な研究を通じて、改めて教育会史像の点検と再構築を提起する!

http://www.gaku-jutsu.co.jp/article/13828587.html#more

広告文に「!」が2回も使われています! 攻めてますな。

また、今回は、装丁も凝っているような感じ!

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[本]なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか

 浦坂純子『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか―キャリアにつながる学び方―』(ちくまプリマー新書、2009年)を読む。

 「背伸びしている中学生、ど真ん中の高校生、実は心許ない大学生、そして親御さんたち」(12頁)にお薦めする本。
 個人的には、これから大学に入ろうとしている新入生に読んでほしい本だ。とくに、目標があいまいなまま入学してくる新入生、入学してすぐにやめたがる一年生につける薬として。
 それに、著者と同じ職業上の立場としても、いいネタ集めになった。
「なぜ親や先生からは『大学は出ておきなさい』と言われるのか?」
そのことを、学生に考えさせてもいいからだ(とくに、初年次教育の少人数授業でやらせたい)。
 
ちなみに、本書での答えは、次の通り。
「それは、大卒者のほうが高卒者よりも働く上で「一応は」有利だからです。その有利さの中身がまた色々あるのですが、乱暴を承知でまとめるならば、就職に際して門前払いをされるリスクが低いこと、労働条件のいい仕事や職業に就きやすいこと、そして賃金が高いことの三つです。」(66頁)
なあんだと、思ってしまいがちだが、著者の就職事情ははどうしてそのようになっているのかを、専門的見地をふまえながら、中高生にもわかるように丁寧に解説している。

 後半部では、大学での学び方について熱い語りが展開されている。
「社会人基礎力」や「地頭力」といった、企業目線の考えに振り回され、すぐ役立ちそうな科目に飛びついて効率的に勉強をするのではなく、学生の本分である「正課を骨までしゃぶりつくす」ことが、結果的に自分を大きくし、就職活動でも活きてくるというのには、自分もはげしく同意する。

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 就職活動で企業に応募する際に「エントリーシート」というものを提出します。前節で卒論のテーマを記入させられたりすると言いましたね。それ以外にも、自己紹介や志望動機、大学生活で熱中したことなどを書くわけですが、採用担当者はお役目上、これを何百枚、何千枚と読む羽目になります。
読んでいてワクワクするような大学生活を送ってきた人はそういないでしょうから、恐らく書かれている内容は似たり寄ったり、そこに大差はありません(だから読むのは苦痛でしかないと思います)。だとすれば、勝敗を決するのは書いて伝える力です。普段から書き慣れてさえいれば、就職活動の最初のハードルは、さほど高くはならないはずです。
 〈社会に出てからも、書くことはありとあらゆる場面で要求されます〉[〈 〉内:太字]。仕事で使いものになる文章力をつけるためには、絵文字たっぷり、スタイルや分量、内容の真偽に至るまで何ら制約のないブログを書き慣れたところでダメだということは分かりますね。
書いたものを丁寧に読んで、批評してもらえる機会は貴重です。それは絶対に無駄にせず、有効に活用しなければ! 〈レポートにしても論文にしても、出しときゃいいわという横着さは、自ら大損を招く行為である〉[〈 〉内:太字]。そう肝に銘じてください。(158-159頁)
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 とくに、「コピペ」学生は、以上の文章をしっかり味わうように。

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『近頃の若者はなぜダメなのか』を読みながら

 久々に、読書ノートを。

 原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」―』(光文社新書、2010年)を読む。 「30代以上にはわからない 人間関係の劇的変化」という帯文のコピーに惹かれて、手にとってしまった(30歳以上のおっさんっぷりを発揮してしまった)。
 タイトルだけ読むと、いかにも若者バッシングの本と受け取られかねないのだけど、これはフェイク(意図的か?)。
 そうではなく、「第7章 近頃の若者をなぜダメだと思ってしまうのか?」とあるように、若者に対する「世代論」的認識に基づいて、彼らを批判しがちな現状に対する問題提起の書である(著者は、「この本は表面上、若者本の姿を借りていますが、今の日本人全体を語ったつもりです。/つまり、「世代論」ではなく、「時代論」のつもりで書きました。今、若者の間で怒っている多くの現象は、私たち大人の間でも起こっているのです」[255頁]と述べている)
 巨大なネットワークを駆使できる、「近頃の若者」の可能性についても言及しているという意味では、建設的でもある(「第6章 つながりに目覚めた若者ネットワーカー」)。

 「約7年かけて47都道府県の若者1000人以上に会って話を聞いた、『今の若者のリアルな姿』」を示す各エピソードは、自分も日々大学生と接しているなかで、「うん、うん」と思い当たる節があり、興味深く読めた。巻末の「新村社会を生きる、ある男子大学生(21歳)の1週間、全送受信メール」なんか圧倒される。学(部)生時代は携帯をもたず、周囲から急かされてようやく20代半ばでもちはじめた自分には、まず無理な芸当だ(その頃は、まだ携帯は、まだ〈電話〉としての意味合いが強かったと思う)。
 そして、ケータイの普及をきっかけとする、若者の巨大なネットワーク構築(「知り合い増えすぎ現象」、まさにマイミクなんかがそうだね)と、それを通じた高度なコミュニケーション能力(読空術)発揮の現状を、「新村社会」という分析概念で問題提起しているのも、きわめて興味深い。

 戦後の日本では、個人化、価値観の多様化、核家族化、都市部への人口流入が進み、それに従って、村社会が徐々に廃れていきました。
 しかしここにきて、ケータイの普及をきっかけに、携帯メールやSNSやプロフを媒介に、若者が義務性と継続性のある巨大ネットワークを構築し、その結果、若者たちがお互いの顔色をうかがい、「読空術」により協調性を保たねばならないという、かつて日本にあった村社会のような状況が復活したのです。
 しかも、この〈新しい村社会〉(原文傍点)は、かつての村社会のように拘束力があるうえに、かつての村社会よりも人的規模が圧倒的に大きくなっています。
 私は、この新しい村社会を「新村社会」と名づけました。
 ケータイ悪玉論や、ケータイの学校への持ち込み禁止が叫ばれていますが、いちばん問題なのはケータイそのものではなく、ケータイの「有害サイト」でもなく、ケータイをきっかけに「村社会的な人間関係」が若者の間に復活したことなのです。(93-94頁)

 原田氏は77年生まれ。自分と一歳しか違わない。そんな著者が、ところどころで持ち出している、30代以上の人間が経験した青春期のエピソードには、いちいち共感してしまった。例えば、「きっと高校時代の私だったら、親が寝静まるのを待ち、ドキドキしながら毎日見ていたかもしれません……」[190頁]とか(「何を?」というのは、本書で確認してください)。

      ◇

 「若者はバカになった」「若者の~離れ」的バッシング言説を目にするケースがよくあるのだけど、若者という存在は昔から「バカ」だったわけで(中高年世代より劣るのはあたり前)、むしろ「バカ」と評価される現状が、どのような社会的文脈において起こっているのか(捉えられているのか)、ということを押さえたほうがいい。
  ただ若者を批判し、使い捨てる理屈にするだけで、若者を社会として育て受け入れる責任を放棄する現状容認は、日本の将来に大きな不幸をもたらす。
  自分の勤務校はFランクと言われてもしょうがないところだが、学生の人間関係能力は、決して低いわけではない。
 先日、自分が受け持ったクラスの1年生たちと懇親会の機会を設けたところ、一年間お世話になったお礼ということで花束をもらった(写真)。
 こちらが知らないうちに、彼・彼女らは自分達の力で(ケータイによる)ネットワークを構築し、それを通じてこういったサプライズを、企画していたわけである。
  自分の学生時代には、こんな気の利いたことはできなかった。

  彼らの巧みな連帯力を評価し、大学の正課(勉強)のなかでどう生かしていくべきか。
それが、今の自分に課せられた課題といったところだ。

 もうすぐ、新年度。また、忙しくにぎやかな日々がはじまる―。

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[本]『教育と平等』を読む

■苅谷剛彦『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか―』中公新書、2009年。

 戦後日本にとって
 格差をなくす とは
 こういうことだった― (帯文より)

 『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995年)の裏面史ともいえる、苅谷氏の戦後教育社会論。同書もまたひじょうに中身の濃い充実した内容となっている。
 アメリカと比較したとき、日本の戦後教育において「平等」とは、どのようなことを意味し、その具体化のプロセスとは、いったいいかなるものであったのか。
 本書では、「面の平等」(⇔「個の平等」)というタームを用いながら、教育の機会平等をめぐる〈システム〉構築へのきわめて特異なプロセスを浮き彫りにしている~個人の能力の差異を初期条件として設定し、その差異に応じて学習の個別化を図るのではなく、教育条件自体の均一化(均質な時間と空間を用意し、そこで繰り広げられる教育・学習においても、等量・等質をめざす。その象徴としての「学級」)を図り、むしろ個々人の差異を目立たせずに、平等状態を仮構する。個人を単位に平等を考える「個の平等」とは異なる「面の平等」~。
 「文部省」(教育政策)対「日教組」(教育運動)という二項対立的な図式に左右されない、その底流(本書では「義務教育におけるお金(税金)の動き」)へと目を向けた「歴史」のかいくぐり方には、研究者として強い感動と憧れを抱く。
 「歴史」を扱いながらも同書が問いかけるものは、きわめて現代的な課題にも迫るものである。
 教育条件の均質化のために、戦後日本が選択した「平等」のシステム。
教育格差が問題視される今だからこそ、改めてこれまでのありようを冷静に議論する必要があると、本書はそう我々に問いかける。

  ◇  ◇

 「あとがき」で苅谷氏が記している研究手法・スタイルをめぐる以下の言辞には、教育史研究者(の末端)として自らの手法・スタイルを反省させられる(そして、「では、どうすればよいのか」と途方に暮れる)。
「…本書は私にとって思い入れの強い本である。ひとつには、いわゆる「言説研究」とは異なる類いの知識社会学的研究のあり方を示したいと思ったところにある。古い雑誌や文献から言葉を拾い集め、それらの関連性をもとに、ある時代の社会意識、メンタリティ、「時代精神」を取り出す。そういう研究スタイルの流行が、教育の社会学的研究でも続いた。だが、取り出された言葉をもとに、パッチワークのように再構成されたある時代の時代意識なりメンタリティが、どこまでその社会に根深く埋め込まれた基底的な知識にまで到達できているか。私自身のこれまでの研究を含めて、隔靴掻痒の感を持っていたのである。文献に残された「言葉」だけに頼らずに、「言説と実態の二分法」にとらわれずに、ある社会のある時代の基底にある「知識」を取り出すことはできないのか。財政の仕組みとその実際の動き(お金の配分のあり方)への着眼には、そのような方法論的な企図があった。語られない部分を含めて、ある社会のある時代の「知識」に迫りたい。それがどれだけ成功しているかは読者の判断に任せるしかない。ただ、資源配分に埋め込まれた基底的な「知識」が、私たちの社会や教育のあり方に影響を及ぼしていることを幾許かでも示せているとしたら、このような研究スタイルにも多少の意味があると言えるのかもしれない。」(284頁)

(mixi日記9月7日から転載)

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『反貧困』を読む

(※mixi読書日記1月5日から転載)

■湯浅誠『反貧困―「すべり台社会」からの脱出―』岩波新書、2008年。

 日比谷「年越し派遣村」の運動が正月の報道を賑わせている。
 案の定、ネット上には読むに堪えない差別的言辞をはらむ「自己責任」論が一部で垂れ流されている。
 また、「村」運営の手法を批判する言説もあるようだ。
 とはいえ、たとえ一人でも行き場を失われた人々の命と、個人の尊厳を守ることに成功したのなら、この運動は大いに評価されるべきである。非現実的な建前論に終始するリアリズムを欠いた姿勢では、こうした活動(「居場所作り」)はできない。

 「現代の貧困」は、今年“も”大きな問題として、私たちの社会にのしかかってくることは間違いない。これを避けて通ることはできない(たえず自分たちにのしかかってくる「不安」である。その不安を「自己責任」で解消しようとさらなる「競争」に駆り立てられれば、一層「不安」は増大し、ますます他者を排除しようとするようになる。“溜め”はますますなくなる)。
 だからこそ、問題の実態(「すべり台社会」)を正確に受け止め、打開へと立ち向かう一歩として、湯浅氏の『反貧困』は広く読まれるべきである。

 貧困は決して「自己責任」に還元されうる問題ではない。その主張は、本書で貫かれている。
 貧困は単に「所得が低い」とかいうことではなく、「生活上の望ましい状態(機能)を達成する自由(潜在能力)が欠如している」状態を指す―、アマルティア・センは「貧困」をそのように定義する(センの「潜在能力」に相当する概念を、湯浅氏は“溜め”という言葉で語っている)。
 つまり、「他の選択肢を等しく選べたはず」という個人的・社会的自由=“溜め”を失っている状態が「貧困」なのである。「貧困状態にある人たちに自己責任を押し付けるのは、溜池のない地域で日照りが続く中、立派に作物を育ててみせろと要求するようなものだろう」(82頁)。
 かくして、「どうすれば人の、そして社会の“溜め”を増やすことができるのか」が貧困に立ち向かう課題として設定される。それは、「人々の支え合いの強化、社会連帯の強化、そして公的セーフティネットの強化」(反貧困ネットワーク)を通じて果たされると湯浅氏は述べる(213頁)。「派遣村」の運動は、その具体化の一例と捉えられよう(公的セーフティネットの強化につながればよいのだが)。

    ◇ 

 昨年のある研究会の合宿で、自分は「(教育)ネットワーク」をキーワードに、現在の問題意識について報告を行った。自分が「ネットワーク」という名の付く部署に所属していること、それゆえ「ネットワーク」という言葉に敏感になったことが直接的な契機であったのだが、おかげで、多分野にまたがる現代的課題~個人が孤立化させられる社会状況の中で、「連帯の条件」「社会のネットワーク」をどのように構築していくか~を考えるきっかけを持つことができた。「ネットワーク」、これは貧困の問題に係ってくる論点でもあるはずだ。湯浅氏の主張はそれを示唆している。

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1974年からの証言

 あちこちで話題になり、絶賛されていた原武史『滝山コミューン一九七四』(講談社、2007年)をようやく手に取ることができた。
 〈戦後〉の問い直し、戦後教育・戦後教育学への批判(自己批判も含めて)が活発化している状況下での刊行だったから、自分も非常に関心を持っていた。
 なるほど、こういう本だったのか。たしかにこの本はおもしろい。貴重な戦後教育史資料の一つに位置づけることも可能だろう。「戦後は個人を重視したばかりに伝統や公共が軽んじられた」的な、劣化保守の議論とは一線を画した戦後教育認識が、実体験をもとに論じられている。
[「二〇〇六年十二月に教育基本法が改正される根拠となったのは、GHQ(連合国軍総司令部)の干渉を受けて制定されたために「個人の尊厳」を強調しすぎた結果、個人と国家や伝統の結びつきがあいまいになり、戦後教育の荒廃を招いたという歴史観であった。だが果たして、旧教育基本法のもとで「個人の尊厳」は強調されてきたのか。問い直されるべきなのは、旧教育基本法の中身よりも、むしろこのような歴史観そのものではなかったか。」279頁]

 だが、読後感は複雑だ。読んでいて、原少年の冷めた心情に深く共感できるところもあれば、そうでないところもある(著者自身が「滝山コミューン」に対する感情に揺れている)。著者より、15、6年後の平成への変わり目の時期に、保守的な土地柄の東北の小学校で、小学生を送ったという年代的、地域的な違いゆえだろうか。いや、出来の違いだろう。
 原氏の小学校時代の記憶はおどろくほど鮮明である。対して自分は、原氏の同級生と同じく当時の細やかな記憶はほとんど「喪失している」。原氏は有名私立受験のために進学塾に通う早熟な小学生時代を送り、一方ではこまめに日記を付け、鉄道の世界に耽り、また集団生活への同化に違和感をもつナイーブさを持ち合わせていた。毎日バカをやって暮らしていた自分の少年時代とは比較にならない。自分が受けてきた義務教育(それも「戦後教育」という範疇に入ってしまうのか?)を振り返るとき、たとえ同質の問題を抱えていたとはいえ、著者が体験した集団主義教育の質の高さや子どもたちの積極的な姿をうらやましく思ってしまう。私が体験した教育もまたある種の集団主義を抱えてはいたが、それはもうイデオロギー性や「美しい物語」を失った、多分に管理主義的なそれだったとしか受け取ることができない。
 ただ、だからといって、原氏が体験した教育が特異で例外的なものだったとみるべきではない。むしろ、そこに最も純粋な形で、「戦後教育」の有する可能性と問題点が表れているとみるべきだろう。

 それにしても、戦前ではなく、ほんの30年前に本書が示すような集団主義教育実践が行われていたことは正直知らなかった。著者が通っていた東久留米市立第七小学校〔七小〕では、全共闘世代の若手教員を中心に全国生活指導研究協議会〔全生研〕の方式に基づく教育が行われ、新聞メディアなどを通して注目を浴びていた。生活指導・学級集団づくりに関する著書も多く出されていたが、原氏の目線を通して読み直してみるかぎり、たしかに違和感を抱くところもある。
[「そこには一見、憲法や教育基本法に保障された「個性の尊重」が、「内外の反動的諸勢力」によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる。だが全生研で強調されたのは、集団主義教育であった。「大衆社会状況の中で子どもたちの中に生まれてきている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」という文面からは、世界が東西の二大陣営に対立していた時代にあって、まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる。「個人」や「自由」は、「集団」の前に否定されるのである。
 このような集団主義教育は、旧ソ連の教育学者、A.S.マカレンコ(一八八八~一九三九)の著作によるところが大きかった。」50-51頁] 

 70年代教育を歴史的に捉え直す本格的な研究はまだないんじゃないか。当事者たちが生きているから、生々しくなってとても書けないというのがあるかもしれない。ただ、戦後史の枠組みで捉え直していく意義は大いにありそうだ。
 本書が、マイナスイメージの戦前教育と、それとは対照的に「日本国憲法、教育基本法の価値理念によって聖化された戦後教育」という構図を破壊する力は十分にある。
[「私は当時の七小が、文部省の指導を仰ぐべき公立学校でありながら、国家権力を排除して児童を主人公とする民主的な学園を作ろうとした試みそのものを、決して全否定するものではない。それどころか、この希有といってよい体験から少なからぬ影響を受けていることを、いまの私はよく自覚している。
 しかし、ここで問題にしたいのは、自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して何ら自覚をもたないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質的なものの排除ないし絶滅」(前掲『現代議会主義の精神史的地位』)がなぜ公然と行われたのかである。それは、ナチス政権下の公法学者となったカール・シュミットと同じように、民主主義に対するきわめて一面的な理解に根差していたといえないだろうか。」211-212頁]

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恐るべき「善意」

 斎藤貴男「緊急ルポ プリンスホテルの恐るべき『善意』 ルーティンワークが自由を殺す」『世界』2008年4月号(no.777)を読む。じつに刺激的な論考だった。例の、グランドプリンスホテル新高輪による、日本教職員組合の教研集会・全体集会「会場使用拒否」問題についてのルポである。最近の映画『靖国』上映中止問題にも見られるように企業の「事なかれ主義」が顕在化している昨今、このルポを読んで問題の深刻さを痛感せずにはいられなかった(ホテル側の会見の様子を読んでも、日教組を顧客としてすら扱っていない差別的対応がうかがえる。「ホテル・ルワンダ」とは大違いである―と思ったら、すでに内田樹氏が『ホテル・ルワンダ』を取り上げつつ同問題を論じていた)。

 ホテル・会場の位置や敷地などをインターネットを経由して見ながら、ホテル側の説明「受験シーズン」「周囲に迷惑がかかる」がどうにも腑に落ちないでいた。ルポの次の文章は、その「善意」の疑わしさを明確に衝いている。

プリンス側の言い分そのものも、疑わしくないか。会場周辺もプリンスホテルの広大な私有地なのだから、警察はむしろ有効な警備態勢が敷きやすい。万が一にも病人や受験生に被害を及ぼして、本気で警察の面子を失わせたらどういう報復が待ち受けているのかを、街宣車の主たちはよく知っている。
 しかも会場の目と鼻の先にはロシア通商代表部が立地していた。ということは、日教組側は後になって知ったことだが、この一帯は「国会議事堂周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」によって拡声器の使用が禁じられている。だからこそ、自民党は例年グランドプリンスホテル新高輪で党大会を開くのだ。福田康夫首相が今年一月一七日、“生活重視”の党運営を打ち出したのも、この場所だった。(75-76頁)

 しかも「この種の出来事が、二〇〇八年の日本には珍しくない」(76頁)として、「DV防止講演会を中止したつくばみらい市」の問題なども挙げられている。斎藤氏の最後の指摘が、不気味に響いてくる。

今回の事件がヒントとなって、反権力的な集会や会合を容易に潰すノウハウが確立されていく危険も小さくないと思われる。彼らだけを笑う資格が、しかし、現代の私たちにあるのだろうか。(82頁)

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本が出ました

■梶山雅史編著『近代日本教育会史研究』(学術出版会、2007年。定価3,990円)

中央・地方教育会の具体的活動内容とその歴史的役割を鮮明に浮かび上がらせる!
 明治10年代に全国各地に登場した教育会は、行政担当者、師範学校スタッフ、現場教員、地域名望家を構成メンバーとし、各地域の教育事業振興に極めて大きな作用を及ぼした。日本教育会史上、教育会は全く新たな組織・システムであり、強力な教育情報回路を形成し、多様な行事・事業を繰り広げ、時事案件の処理にあたり、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を水路づけ、さらに地域住民の教育意識形成に深く関わった。教育会の本格的研究である本書は、日本教育会史像の点検と再構築を提起する。(広告より)

 学術出版会から発売されている(ここで宣伝だ!)。
Shiraさんすだ公民館長ら若手による執筆が多く、一部私も何頁かを汚している(汗) ブロガー率が高い(?)という意味でも画期的な教育史研究書である(笑)
 「序章 教育会史研究へのいざない」を読むと、何かカジヤマ先生の教育会史研究に賭ける熱い想いが伝わってくる。「教育会の実態解明なくしては、近代日本の教育実態の構造的解明は、その深部の核心を把握し損ねるといっても過言ではない」(32頁)なんて文章を読むと特に。
 また、「序章」では教育会史研究に関する重要な先行研究にしっかり言及しているので、教育会史研究の論点整理をする上でありがたい。
 以上、ご紹介まで。

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