高等学校、とりわけ伝統校、進学校と呼ばれる男女別学校の共学化をめぐって、宮城県では議論が紛糾し、半ば混乱の様相を呈しているような印象を受けます。
以下は、「別学」/「共学」をめぐる記事、意見が豊富に掲載されているサイトです。
いろいろな立場からの意見を読むことができて興味深いです。
http://transnews.at.infoseek.co.jp/kyogaku.htm
http://asa.co.jp/will/sendaikko/rondan.html
さて、「共学」対「別学」という二項対立の図式に、私はどこか違和感を感じてしまいます。問題の核心はどこにあるとみればよいのでしょうか。
私は学校の「個性」とか「特色」をめぐる解釈にあるように思います。本来、問われるべき学校の「個性」とか「特色」といったら「共学」や「別学」といった外的形態ではなく、教育内容、カリキュラム、授業といった対象を指すはずです。しかし、「別学」支持の方々は、教育内容ではなく、「雰囲気」(校風=「古き良き伝統」)を「個性」「特色」として強調しているのではないかと思います。学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、後者という歴史的問題があるためにそれを保護すべきか否かが争点となっているという状況ではないでしょうか。ただ、後者を保護する法的根拠はどこに求められるのかは、私にはわかりません。
「共学」の観点からすれば、性別によって特定の公立高校に対する受験の権利すら認めないという男女別学制度(例えば、あの高校、とくにあの先生に勉強を習いたいのに女子/男子というだけでその権利がない、といった問題)は、少なくとも、公立学校に関する限り、認められるべきではない、一刻も早くすべての公立学校の完全共学化を実現することは宮城県という地方公共団体の法的責務だということになります。
これは「別学」支持にとっては、論破することが難しい指摘です。「良き伝統を守れ」というノスタルジックな主張に固執するだけでは無理でしょう。だからといって、政治的な力や復古主義的なイデオロギーを持ち出して「共学」意見を押しつぶそうというのは、えげつない最も忌むべき手法です。
一瞥したところ、「別学」支持の論陣で、ジェンダーという観点から主張を展開されている方はさほどいないようです。「ジェンダーフリー」という言葉から、ジェンダーという概念まで毛嫌いされているせいでしょうか(なお、専門家の間では「ジェンダー・フリー gender-free」という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語「ジェンダーフリー」とは区別しています。性差は抹消することも、無視することもできません)。性別役割、良妻賢母を肯定したいという思いをひそかに込めつつ、表向きには「男らしさ」や「女らしさ」を強調する形で主張を展開しているケースが、バックラッシュの影響で多くなっているようにも思います。しかし、それは女性解放史上何度も用いられてきた男女特性論の繰り返しにすぎず、あまり説得力を持っているとは思えません(矛盾しているかもしれませんが、男女特性論は女子の特性=セクシャリティ・ジェンダーを強調することで男女平等を図ろうとする女性解放思想の一つとして位置づけられます。最終的には問題を個人の内面へと矮小化してしまうため、批判にさらされます)。
私からすれば「共学」派への最も有効な反論は、実はジェンダー概念を活用することで成り立つと思うのですが。例えば、こうです。
ジェンダーは、そもそも法理念的には男女平等が達成されているはずなのに、現実として性差別的階層構造が残っていることから、その問題的状況を効果的に捉えるために登場した概念である。社会規範や秩序を再生産するという学校機能の観点から見れば、男女共学制度が全国的には広く実施されているにもかかわらず、実態として社会ではジェンダー秩序(男が標準、普遍、女は差異、特殊というタテ型社会の階層性)が再生産されている。これは、「共学」になったからといって、ジェンダー秩序が即解消されるとは限らないことを意味している。むしろ、その再生産が助長される可能性すらある。だが、例えば女子校ならば男子の介入を問題視することなく、すべての事を女子自身の手で行うわけだから、男主女従という秩序にはまらずに、リーダーシップなどの資質が性差にとらわれることなく育成される可能性がある、云々。
坂本辰朗さんは、アメリカでも男女別学をめぐるさまざまな試みが実施されており、論争が起こっていることを、以下の事例を挙げながら指摘しています。
①1972年改正教育法(公立の別学校の共学化)
②1980年代末からの、公立学校による男女別学の試み(例 ヤング・ウィメンズ・リーダーシップ・スクール)
③2002年教育法(別学校や別学クラスを維持するために、地方教育当局による革新的教育プログラム資金の使用を可能にし、論争に)。
④カリフォルニア州における大規模な公立学校での別学パイロット・プログラム(男女別の12校のシングル・ジェンダー・アカデミーの確立)
⑤公立学校における別学への反対論(全米女性機構(NOW)とアメリカ女性大学人協会AAUW)、米国自由人権協会(ACLU)など)
〈註〉坂本辰朗「ジェンダー・フリーな教育からジェンダー・センシティブな教育へ」、東北大学21世紀COEプログラム「男女共同参画社会の法と政策」公開研究会資料、2004年9月24日。
報告のまとめで坂本さんは、ジェンダー・バインド対ジェンダー・フリーという二分法の罠に陥らないよう指摘し、ジェンダー・センシティブな教育の理想像の追求により、ジェンダーの関係そのものが変わってゆく可能性について主張しました。これは「別学」か「共学」かという外的形態にこだわらずとも、ジェンダー・センシティブになることは可能だということを示唆する主張でした。
結局、どのような条件がジェンダー不平等を改善する手がかりとなるのかは、私には依然としてわからない状況です。ですから、なお議論を継続する必要があります。坂本さんが指摘されたように、「共学」「別学」といった既成の枠組み自体を再考の対象としていくことが、現在の議論を進展させるきっかけになるのではないかと思います。
【追記】私は福島県の男子高の出身です。周知の通り、現在は共学化されています。だからといって、私はそのことに大きな問題を感じてはいません。むしろ「新たな伝統の芽吹き」を喜んでいます(過去の歴史において女子生徒が在籍したという時期がすでにあったようです)。伝統とは自ら創るものであって、すでにあるものとして外から強要されるものではありません。
たしかに世間は、私が「古き良き伝統」の中で高校生活を送ったと見るでしょう(部活動は男子高を象徴するような体育会系に在籍していましたし)。しかし、私が高校生活から得た「伝統」観は、私固有の、私自身が選び取ったものであって「古き良き伝統」といった特定のイメージに解消されるような質のものではありませんし、周囲からも特定の「高校生」像に矮小化されて見つめられたくはありません。それに、もし共学校であったなら、またちがった素敵な生活を送れたかも知れないとも思っています。
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