教科書の「逆用」

 例の歴史教科書採択(採択自治体の拡大)が、またいろいろと波紋をよんでいる(杉並区、横浜市、東京都)。

 こういう時は、過去の実践に学ぶべきである。
 例えば、戦前の日本、国定教科書使用が絶対という閉塞的状況下で、教育内容として通底している国定イデオロギーに抗う教師達は、それを「無害化」するためにどのような策をとったか。
 一つとして、教科書の「逆用」が挙げられる。すなわち、「教材を現実と対照して教材が主張しようとした事柄を逆に此方で使って児童の観点を正しい方に導く」方法である。

 尋常小学修身書巻三第二十一「けんかう」
 益軒は小さい時にはからだがよわかったので、つねにやうじやうにきをつけました。いろいろの書物を読むをりに、やうじやうのことが書いてある所があれば、書きぬいて、その通りまもりました。それでからだが次第にぢやうぶになつて、年をとつてもおとろへず、八十五さいまでもながいきをして、多くの本をあらはすことができました。クスリヨリ、ヤウジヤウ

 教労長野県支部編纂修身科無産者教授教程尋常小学修身書巻三の取扱ひ第二十一「健康」
 如何に大多数のものが不健康に落とされているか! 住居、小さなゴミゴミした不潔の家、大多数同居、日光のない家、うすぐらい家、工場の寄宿舎、労働者の長屋、農民の家、蚕時はねるとこものない。……衣服、労働、死亡統計、罹病統計、幼児の死亡率、登山、海水浴、温泉、公園等は誰のものか。病気の際。病気になても―何故なるか―過酷の労働を続けなければならない。医者は来ない。又かかれない。―何故。われわれの健康を破壊するものは誰だ。そのための闘争、ソヴェートでは。

 (文部省学生部「プロレタリア教育の教材」1934年。春田正治・宮坂哲文編『今日の道徳教育』誠信書房、1964年、308-309頁から転載)

 以上は、新興教育運動における一例である。
 「逆用」という方法の底には、教科書内容と現実との間の明らかなくいちがい・矛盾を、事実にたよることによって暴露できるという考えが流れている。一歩間違えば、事実を媒介としない、「プロレタリアイデオロギー」の単なる注入に陥る可能性もある。そこで、「具体的な事実、児童の直接的経験を豊富に準備し巧みに捉へ……徳目の実践を中心に其の実践的矛盾を児童自身に依り発見しバクロする様に導く」わけである。「事実への限りない信頼」を基礎とした教授法は、思想的立場に囚われることなく、生活綴方など広く教育実践に影響を及ぼした。

     ◇  ◇
 
 本来、教科書は教材の一つにすぎない。しかし、日本の歴史教科書は、教材(事実・情報)の一つにとどまることなく、歴史的事実を特定の視角から切り取った一つの解釈=教育内容まで明示してしまっているケースが多い。しかしながら、特定の解釈(=答え)を先に示されてしまっては、かえってその説明にかたよった、詰め込み式のつまらない授業を生み出すことにつながりやすい。
 いかに、教科書を使いつつ、教科書の枠にとどまらない=豊富な歴史的事実をもとに、教科書に記述されていない現象を生徒たちが自ら知的に解釈・創出する授業を行うか。どうすれば、啓蒙主義・説明主義の歴史教育を越えることができるか。その授業構成こそが重要な論点であり、最終的には教師の裁量が問われるべきである。先生方の奮起を望みたい。

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大人の力量が問われている

 学校での携帯電話取り扱いに関する指針について、文部科学省は次のように説明する。

□【トピック】学校における携帯電話の取扱いについて指針を示しました
                     〔初等中等教育局児童生徒課〕

 文部科学省が携帯電話の学校への持込みに関する調査を行ったところ、平成20年12月1日時点において、
 (1) 小中学校では、持込みを原則禁止としている学校が約90%以上、
  (2) 高等学校では、持込みは認め、授業中での使用禁止としている学校が約57%、
  (3) 教育委員会で指導方針を示しているのは、約51%という結果が明らかになりました。
 この結果を踏まえ、1月30日付で通知を発出し、学校における携帯電話の取扱い等について、学校及び教育委員会の取組の基本とすべき事項を示しました。その概要は以下のとおりです。
 (1) 小・中学校では、持込みは原則禁止とすべきこと。
 (2) 高等学校では、持込みを認める場合には、授業中での使用禁止などのルールを定めるという指針に沿って、学校や地域の基本的な実態を踏まえた上で、基本的な方針を定めること。
  (3) 「ネット上のいじめ」等から子どもたちを守るため、学校だけでなく家庭や地域における取組も重要であり、情報モラル教育をしっかりと行っていくことに加え、家庭でのルールづくりやフィルタリングの普及啓発など、学校・教育委員会等が家庭や地域に対して積極的に働きかけていくこと。
 文部科学省は、今後とも関係省庁とも連携した取組を行い、子どもたちを「ネット上のいじめ」や違法・有害情報から守る取組の充実を図ってまいりますので、ご協力をお願いします。
〈註〉『初中教育ニュース(初等中等教育局メールマガジン)』第108号(2009年1月30日)から。

 すでに各地で「原則禁止」としている小・中学校が9割以上、高校でも6割近くであったということだから、今回の文科省通知は現状に追随したものであり、すでに現場で取られている対応にお墨付きを与えた程度のものに過ぎない。
 そして、このような措置が、当面の問題をしのぐための対処策でしかないことは明らかである。
 結局、教育現場を含めて、大人の側に、「現在使われている道具がどのようなものか」についての知識が確立されていないこと、そのために必要以上にネガティブなイメージを持って受け止めてしまっていることが、象徴的にこの通知に反映されているといえるのではないか。
 もちろん、子どものケータイ依存は容認できることではない。ケータイによる狭い仲間内でのコミュニケーションにとどまっている限り、モノを読む力、書く力は伸びない。親しい関係の間でしか通用しない範囲に、言語体系や価値観が限定されてしまう。ケータイ依存は、モノを書く力を鍛えることなく、自己を「外部」の世界へと開いていく〈教育〉本来の可能性を狭める方向に働くはずである。だから、その点は、学校の先生にしっかり指導をお願いしたい。  
 とはいえ、10年先の社会を想像すれば、子どもを「危ない」状況から遠ざけるという消極的姿勢よりも、その使いこなし方を積極的に考えさせていくほうが有益である。そして、多少の失敗をしても周囲の大人がカヴァーしてくれる環境の中で、彼らなりに人間関係構築を模索していくほうが有意義であろう。現在、小・中学校、高校に通う生徒たちは何年後かには、否が応にも情報社会に出ていき、その中心を担うはずなのだから。文部科学省は、「ちょっと待って! はじめてのケータイ」リーフレットを合わせて公開したが、あのリーフレットだけではちょっと心許ない(方向性は間違っていないと思うが)。福岡県・芦屋町のように町が「宣言文」(お題目)を出すという方法(「福岡・芦屋町が小中学生の携帯禁止、強制力ないが賛否」、YOMIURI ONLINE、2009年1月20日)も、未来を展望した建設的な策とはとてもいえない。
 IT企業勤務でブロガーの吉田賢治郎氏は、ご子息が「ネットいじめ」に遭った経験(それを自身のITの知識を生かしつつ解決した経験)から、学校に対して次のような提案をしている。

 教育現場にいる方々にお願いしたいのは、「いじめ」への学校側の対応方法(危機管理マニュアル)を作成して、生徒と保護者に公開してもらうことだ。どのような場合に誰に連絡すればいいのか? その時、学校や先生はどのような行動をとるのかなど、具体的な対応を事前に知っておけたら、学校に連絡して、親と学校が共同で対処できるはずだ(引用者注-吉田氏は、学校側の対応が予測できなかったため、学校には相談しなかったという)。
 さらに可能なら、生徒に対して保健室でメンタリングやコーチングが受けられる環境づくりをお願いしたい。親に頼れない生徒の場合、自分の話を真摯に聞いてくれ、状況の整理と自分がすべき行動の決定を手助けしてくれる大人が必要だろう。
〈註〉吉田賢治郎「『学校裏サイト』で娘が攻撃されたとき―ある父親の記憶―」『論座』2008年9月号、218頁。

 陰惨にみえる「ネットいじめ」の問題にしても、じつは掲示板でのストレス発散や息抜きを反映したに過ぎないものだったりする。ただ、そのインパクトがどれほど大きいか理解できていないだけである。その誤りを大人がいかに軌道修正していくか。
 ケータイ、ネットについての知識をどれだけ真剣に学び、子どもからの意見に対してどれだけ真摯に対応できるか。大人の力量が求められる時代になっているといえよう。

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果たして「信頼される教育現場作り」につながるのか

 毎日何かメモ的なものは書いているのだけど、なかなかブログに載せられるだけの記事にしようという根気がわかなくなっている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 ということで、ちょっと前にメモしていたものになるけれども、せっかくなので取り上げてみる。
 
      ◇
 
 政府インターネットテレビ(内閣官房及び内閣府オフィシャルサイト)に、以下の番組(動画)がアップされている。
 
■「信頼される教育現場作りへ~教員免許更新制~」政府インターネットテレビ、2008年10月30日。

 来年度からの本格実施を前に、今年の夏に各地で予備講習が行われた。
講習内容は、以下の通りである。
 ・教育の最新事情に関する事項(12時間以上)
 ・教科指導、生徒指導 その他教育の充実に関する事項(18時間以上)
開設機関は、「大学・指定教員養成機関、都道府県・指定都市等の教育委員会」となっている。だが、今年度の予備講習では「大学」以外に手を挙げた機関がないという事実。これは意味深だ。ある先生は、最初から行政サイドは免許更新制に期待などしていないのでは、と推測していたが正しいと思う。膨大な労力を要するし、大学側も不満たらたらである。現場教員・大学双方が不幸な結果に陥る結果も予想される。

 さて、動画を(バイアスがかかっていることが間違いないことを前提として)見ての率直な疑問と感想を。

・「その時々で教員として必要な最新の知識や技能」とは何だろうか。危機管理やインターネットに対する知識、問題への対応策だろうか。しかし、そのような知識に詳しい大学研究者は限られていると思う。むしろ、民間のほうがノウハウを持っている。
・「最新の知識技能を身に付ける」ということから、どうして「免許の更新」という話になるのかがわからない。
・日頃の業務が忙しい教師の実態が推測される。
「強制的に機会を持ってもらえたら」(中学校美術教諭)
「差し迫った状況がないとなかなか取り組めないという状況もありますし、やっぱりいい面もあるんじゃないかと思うんです。」(高等学校化学教諭)
 →個人研修・現場での校内研修では満足しきれない現状がうかがえる。
・「大学で何を研究しているのかっていうのも、進路指導する上で、大学のことはよく知らないので、そういう意味では大変参考になりました。」(高等学校化学・生物教諭)
 →大学との連携という面ではメリットもあるかもしれない。でも、その場が更新講習である必要はない。
・現場教員にとっては、「息抜き」という側面があるのだろうか。

       ◇

 更新講習は個人個人がバラバラに現場を離れて「自主的に研修」することを強いられる、制度化された「自己責任」による研修である。
 だが、今回のように「最新の知識や技能」を講義形式というかたちで学ぶと更新講習は、おそらく受験勉強などと同じように「蓄積的知識」として学ぶという以上の意味にはならないだろう。
 講習で得た一般的知識を、現場で活用できるものへと自ら血肉化(具体化)できるというのなら問題はない。だが、それには時間がかかると私は思う。少なくも、更新講習終了後のテストで判断できることではない。
 自分が思うに、現場が求めているのは、一般的な知識では対応できない質の知識(経験・知恵)の収得である。その知識は、状況依存的なものであって、現場を離れて成立するものではない(その「状況依存性」、多様な子どもへの教育を全人的問題として引き受ける「総合性」に「教職の専門性」の捉えがたさがある)。

 したがって、むしろ必要なのは、現場教員がお互いを刺激しあい、協働して組織的に教育問題に取り組む姿勢=同僚性意識であり、それを可能にする校内研修体制である。
 動画をみて、自分が危惧したのは、もっとも中心であるはずの学校現場を土台として、教師としての資質を高めようという研修意識・同僚性意識が失われているのではないか、ということであった。
 教師のキャリア形成において、本来最も重視すべき履歴は、10年に一度の更新講習などではなく、この現場主体の研修のはずではないのか。その点に配慮した教員研修制度の見直し(校内研修の実績評価)が必要だと思う。

 私は更新制には否定的であるし、肯定的に捉える教育学者はほんとうに少ない。むしろ、これを「前向きに廃止」していこうとする意向が強い。研修体系の整理(10年経験者研修との統合、教職大学院との関連・整理など)、更新目的の転換(上級免許状取得へのグレードアップ)をめぐる主張がそれである。
 自分もその意見に賛成である。

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「これにもお豆がなるの?」

~「教える『加減』~それは教授者の知恵や技術に帰結すると思う~」補遺(2008年10月19日)

 学習者は、教授者から示された学習素材(知識・情報)を、何も知らない白紙の状態からそのまま刷り込むのではない(それは単に、断片的な文字やコトバの集まりを記憶することとイコールである。 今の学校は、どうしてもそのような断片的な知識を急いで教えることになりがちである)。
そうではなく、自己の過去の経験によって獲得した認識構造を活用して、新しい知識・情報を自己の内部に構造化していく。その可能性を子どもは有している。
したがって、その可能性を十分に開かせない、「教えすぎる」授業では、「こうすれば、こうなるはずだ」といった自律的な思考が働かない、「断片的な知識」しか子どもに作らせ得ないことになる。
 “子どもは何も知らないから、こちらから強制的に与えなければならない”、というのは短絡的である。
小さな子どもであっても、しっかりとした認識構造をもっている。以下は、それを示す、渡辺万次郎氏(元秋田大学長)とそのお孫さん(5歳,4歳)の有名なエピソードである。

 私はかつて幼稚園の2児を近郊に伴った。彼らは“みやこぐさ”の花に注意を引かれたが、その名を問うほかに能がなかった。当時、私どもの菜園には、同じ豆科の“えんどう”の花が咲いていたので、私は名を教えるかわりに、その花をもって帰り、おうちでそれによく似た花を見出すようにと指導した。彼らが帰宅後両者の類似を見出した時には、小さいながらも自力に基づく新発見の喜びに燃えた。やがて一人は“みやこぐさ”について、“これにもお豆がなるのか”と尋ねた。それは誰にも教えられない独創的な質問であった。私はそれにも答えず、次の日曜に彼らに現場で確かめることを提案した。彼らがそこに小さな“お豆”を見出した時、そこには自分の推理の当たった喜びがあった。秋がきた。庭には萩の花が咲いた。彼らは萩にも豆のなることを予測した。彼らは過去の経験から、いかなる花に豆がなるかを自主的に知り、その推論を独創的にまだ見ぬ世界に及ぼしたのである。
(渡辺万次郎「科学技術と理科教育」『理科の教育』Vol.8、No.11、高橋金三郎『授業と科学』国土社、1973 より引用)

〈註〉細谷純『教科学習の心理学』東北大学出版会、2001年、47-48頁。

 渡辺万次郎氏の文章の、別の本からの引用の、そのまた引用で申し訳ない。だけど、中身はおもしろい。
幼稚園児でさえ、「(じゃあさ、)これにもお豆がなるのか」と、自身の過去の経験をもとに共に豆科であるという〈知識の構造化〉を行いうる二種類の植物間の関連づけを行い、さらに推論から獲得した知識を(自ら使って)、他の事例にも広げていこうとする喜びを味わっている。そして、それを可能にしたのは、学習者を自律的な思考へと導く教授者の意図的な指導である。
 すぐに答えを教えてしまうのではなく、彼らが過去の経験やそこから獲得した知識を使って、推論し、自ら答えを導きたくなるような筋道をそれとなく示してあげる、そんな指導の一例を、上記のエピソードは示している。

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教える「加減」~それは教授者の知恵や仕込みに帰結すると思う~

 友人、すだ公民館長の授業実践にまつわるエピソード(「授業の『加減』~子どもの学びをコーディネートできるか~」)を読んで、外山滋比古氏の「不幸な逆説」を思い出した。

 どうしても制度としての学校では、各人の自発的な学習意欲如何にかかわらず、半ば強制的に学習が開始される。その中では教授者が効率的に知識を伝達することが望ましいとされ、学習者も意識的・無意識的に受動的に知識を身につけるように習慣づけられる。お互い、そのことが決して望ましいとはどこかで分かっていながら。
 では、近代学校教育が確立する前、昔(近世)の塾や道場ではどうしていたのか。

 入門しても、すぐ教えるようなことはしない。むしろ、教えるのを拒む。剣の修業をしようと思っている若ものに、毎日、薪を割ったり、水をくませたり、ときには子守りまでさせる。なぜ教えてくれないのか、当然、不満をいだく。これが実は学習意欲を高める役をする。
 じらせておいてから、やっと教える。といって、すぐにすべてを教え込むのではない。本当のところはなかなか教えない。いかにも陰湿のようだが、結局、それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。
 …… 
 秘術は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらうことはあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗みとろうと考える。ここが昔の教育のねらいである。学ぼうとしているものに、惜気なく教えるのが決して賢明でないことを知っていたのである。……
 師匠の教えようとしないものを奪い取ろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。……伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。
 昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。……
 それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。何が何でも教えてしまおうとする。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

〈註〉外山滋比古『思考の整理学』ちくま学芸文庫、1986年、17-19頁。

 今の「学校」という教育形態では、子どもが考える前に意味・内容をおしつけすぎてしまう。市場原理が導入され、ペーパー・テストの結果が重視される風潮のもとではいっそうその傾向に拍車がかかる、という予測は容易に成り立つ。
 だが、長い眼で見たとき、それは本当に子どもにとってためになる事なのか。「教えられないことを自ら学びとる力」を削ぐ結果にならないか―、教師にはこのような問題をたえず意識することが求められるように思う。

      ◇

 もう一つ、思い出したのは大村はま氏の「仏様の指」の話。以下、『教えるということ』から引用する。

 終わりに、私の好きなお話をご紹介したいと思います。
 私はかつて、都立八潮高校(当時、府立第八高女)在職のころ、奥田正造先生の毎週木曜の読書会に参加していました。奥田先生は、そのころ成蹊女学校の主事をなさっていました。先生は私が今日までお会いした先生の中で、いちばんこわい先生でした。……
 先生の前でかしこまって緊張している私に、先生は急に、「どうだ、大村さんは生徒に好かれているか」と、お尋ねになったのです。私は、はたと返事に困りました。……先生は「そう遠慮しなくてもいい、きっと好かれているだろう。学校中に慕われているに違いない」と言って、お笑いになりました。私は、どうしてよいかわかりませんので、下を向いてもじもじしていますと、先生が一つの話をしてくださったのです。
 それは「仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらしたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった」という話です。「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ」こういうふうにおっしゃいました。そして、「生徒に慕われているということは、たいへん結構なことだ。しかし、まあいいところ、二流か三流だな」と言って、私の顔を見て、にっこりなさいました。私は考えさせられました。日がたつにつれ、年がたつにつれて、深い感動となりました。そうして、もしその仏様のお力によってその車がひき抜けたことを男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、何分の一かに減っただろうと思いました。仏様の力によってそこを抜けることができたという喜びはありますけれども、それも幸福な思いではありますけれど、生涯一人で生きていく時の自信に満ちた、真の強さ、それにははるかに及ばなかっただろうと思うとき、私は先生のおっしゃった意味が深く深く考えられるのです。

〈註〉大村はま「教師の仕事」(山形県天童市東村山地区教育委員協議会主催講演会、1973年2月)『新編 教えるということ』ちくま学芸文庫、1996年所収、155-157頁。

 子どもの重荷になるような教師では問題だけれども、かといって、過度の配慮から子どもに何でもかんでも教えればよいというのも、かえって子どもが一人で生きぬく力を奪い取ってしまいかねない。そんな「教えるということ」の難しさを、上の文章からも直感する。

     ◇

 「教えること」において、あくまでも根本に置かれるべきなのは、児童生徒の自律的な思考や自立的な態度を引き出す、教授者(=授業の専門家)の知恵や工夫(わざとじらす、「仏様の指」になる)だ。「授業」に引きつけていえば、何をあらかじめ与え、何を教えないでおくのか、といった計画・仕込みを指すことになろう。単に「これはこうなのだ」という知識の網羅的説明(与えること)に終始したり、あるいは反対に(事前に何も与えず)「自由に考えてみよう」といった働きかけでは、その授業は子どもにとってパッとしない、「やり抜いた」「成し遂げた」という実感のないものに映るに違いない。

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それこそ犬山市から学ぶべきでは

■「『橋下知事は教育介入を』 府内市長から共感、賛同」、asahi.com、2008年9月17日。

 教育委員会への批判を強める大阪府の橋下徹知事は17日、府内の市長と会合を持ち、大阪の教育のあり方について意見を求めた。首長が介入できない教委制度そのものを疑問視する橋下知事に対し、各市長は「知事には教育に介入してほしい」「教委に指示できず隔靴掻痒(かっかそうよう)の思い」など、知事に共感する意見が相次いだ。知事が主張する全国学力調査の市町村別の結果公表の是非についても、大半が賛同した。
 「教育に関する意見交換会」は、橋下知事が府の市長会を通じて開催を呼びかけた。府内33市のうち東大阪、富田林、岸和田など16市長が参加。大阪、堺の市長らは欠席した。
 8月末に発表された全国学力調査の結果で、大阪の公立小中学生の成績は2年連続で全国平均を大きく下回り、知事は「教育非常事態」を宣言。教委批判を繰り返し、市町村教委に対しこれまで非公表だった学力調査の市町村別データの公表を強く求めている。
 各市長からは知事への激励、賛同が相次いだ。
 教育委員会は戦後、政治からの中立性を保つため、首長から独立した行政委員会として創設された。この教委制度のあり方について、各市長は「知事は教育内容に介入するつもりはないと言うが、ぜひ教育に介入してほしい」(倉田薫・池田市長)、「選挙公約で教育問題を掲げても、首長ができることは校舎のトイレの修繕ぐらい。隔靴掻痒の思いだ」(岡本泰明・柏原市長)などの発言が続いた。
 また、学力調査の市町村別結果の公表についても「国は府県データを公表していて、府県が市町村データを言ったらだめだというのは矛盾している。文部科学省はひきょうだ」(浅利敬一郎・豊中市長)など、公表を求める意見が大勢を占めた。平均正答率の非開示を表明したのは、貝塚市の吉道勇市長だけだった。 最後に橋下知事は「文科省は自分の判断がすべてだと考え、おごっている。地方分権すればするほど、教育委員会の中立性は薄まるべきだと考えている」と持論を述べた。

 市町村別結果を公表して、首長さんらは何をしたいんでしょうかね。教育予算(とりわけ人件費)カットの口実を何とかつくりたいという意図が透けて見えなくもない。何しろ教育への国・自治体による公的支出は少なく、私費負担の割合は高く、というのが日本の「公教育」観ですから(その穴を埋めるのが精神主義や、自己責任論であったりする)。

 ただ、あの学力テストの解像度の低さからいって、市町村間に差が出てもその信用度はかなり低い。市町村という括りで評価することにまず無理があるし、学校ごとで括っても、能力の高い先生とそうでない先生とを区別せずに評価することになってしまう。そもそも先生間にキャリアから来る能力の違いがあるのは当然のことで、それを補完するために教員の同僚性・協働性が重視される必要があるのだが、学校・教員を競争的な環境に置くことでその可能性も薄れ、むしろお互いを敬遠しあう冷たい職場環境を作り出す危険性がある。それに、各クラスには発達障害を抱えた子どもや、いわゆる貧困層、外国人労働者の子どもなど社会的マイノリティに属する生徒といった多様な面々が属しているはずである(大阪府であれば尚更では)。そういった子どもたち一人ひとりの顔を無視して、教師の能力・学校のがんばりを、テストの点数から一律に評価すべきなのだろうか。競争は公平性が確保されてこそ競争として成り立つ。そもそもスタート地点の平等性すら怪しいのを無視しつつ問題を考えようというのでは、出発点において間違っている。

 また、あのテスト自体、教師・学校を競争させるために作成されたようなもので、所与の教育内容のあり方を問い直し、改善につなげるといった性格を有していない。つまり、国の教育課程政策自体に問いを向けるような意味を与えられていないのである。改善を問われるのはたえず現場でしかない。「教育内容に介入する」というのなら、この点こそ自治体側は問題にすべきではないのか。「うちの自治体では、子どものこのような能力を測りたいからこういったテストをつくってほしい」といった要望が出されたという話も聞こえてこない。要するに、文句を言うわりに、自治体側のビジョンがいまいち見えてこないのである。
 
 橋下という人間には、とにかく煽動的な放言・暴言が目立つ(「くそ教育委員会」とはまた…)。府知事になってからの言動をみていても、まず「敵」をつくってから、ひとびとの情動的な部分に語りかけることで自らの支持を広げている。小泉とも共通するその戦略は、ファシズム的といっても過言ではない。だが、そのような戦略から何が政策として実現されうるのだろうか。結局のところ、合理化合理化で、短期的に目に見える成果はでない教育・福祉の「ライフライン」はひたすら縮小していく、という結果しか生まないのではないか。

 ■  □  ■

 とはいえ、「選挙公約で教育問題を掲げても、首長ができることは校舎のトイレの修繕ぐらい。隔靴掻痒の思いだ」という首長さんたちの不満にも一理ある。
 住民の直接選挙で選ばれた自治体行政のトップである首長の権限が、義務教育に関して教育予算の執行等に留められている(地教行法24条)というのは、近年の地方分権改革の流れを念頭におけば、再考されてしかるべき問題である(一方の教育委員会からすれば、教育予算に関する独自の権限をもたず、首長から任命される教育委員は非常勤・兼職、実際の広範な教育事務を教育長等に委任せざるを得ないという現状がある。教育委員会もまた、主体性を発揮しにくいのが現状である。なお、「教育委員会」という時、3~6人の教育委員からなる合議制委員会を指す場合(狭義)と、それに教育長-事務局体制を含めて「教育委員会」という場合(広義)があるのだが、最近の教員汚職事件をめぐる報道などから、多くの人は教育委員を除いた教育長-事務局体制を指して「教育委員会」と誤解していたりするのではと、ふと思ったりする)。

 だが、現行法下でも首長のリーダーシップと教育委員会との連携によって市町村が主体的に教育改革に取り組むことは可能である。それこそ、全国一斉学力テストには参加していない愛知県犬山市(現市長からは何やら不協和音も聞こえるが)や、あるいは構造改革特区を活用した埼玉県志木市などすぐれた先行事例がすでに存在するのだから、大阪の首長さん方はこれらの事例に学ばれたらどうだろうか。
 今回の記事は、大阪府各自治体の首長と教育委員会との協議・意見交換すら、実のところほとんど行われていない現状をほのめかしているようにも読める。

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意見聴取会を傍聴して思う

 昨日、「宮城の教育振興基本計画策定に関する意見聴取会」が宮城県庁で行われると知り、傍聴に行ってきた。
 県の教育振興基本計画策定の趣旨はウェブページにある通りだが、最も直接的な要因は、教育基本法改正であろう。

教育基本法(新)
第十七条 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。
2 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興
のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。

国の「教育振興基本計画の概要」(文部科学省HPより)

そして、「本県の教育振興基本計画を策定するに当たり、県民や関係機関・団体等から広く意見を聴き、当該計画の内容検討の参考とする」ため、県内各地で意見聴取会を一ヶ月かけて開催するに至ったということである(主催:教育庁教育企画室)。

 県庁での聴取会、「意見発表者」として意見を発表したのは、校長先生(小学校、高校)、社会教育委員、発達障害児関連団体や子育てNPOの代表者などであった。各発表者は、自身の教育活動の現場において感じている問題などについて述べた。「教育問題を子どもだけでなく、大人(社会)の問題としてとらえる必要がある」というのが、各意見を貫いていた共通の問題認識だったと思う。その後、「『社会全体で教育の向上に取り組むために』 ~学校・家庭・地域の協働を進めるためには,何が必要か~」というテーマで、意見交換が若干なされて会は終了したのだが、全体を通して「MONOTARINAI」というのが、正直な感想である(単に「意見を聴取する」会だと、ああなってしまうのだろうか)。
 各「意見発表者」の意見が、結局、個人の体験的エピソードかもしくは理想論の披瀝に終始してしまい、多少なりともとも客観的・実証的事実に基づいた建設的な意見交換がなされたとは言い難い。もちろん、それぞれの現場をめぐる生の現状(そこにいるからこそ見えてくるもの)を語る・聞くということはそれなりに意義のあることだろうし、「意見聴取会」とは、もしかしたらそのような場なのかもしれない。
 とはいえ、体感的な「事実」をいくら蓄積しても、それだけで問題の本質や政策的展望がみえてくるとは限らない。それは、多くの発表者の意見が「治安悪化」や「モラルの低下」、「何も知らない親」といったステレオタイプに乗っかかって論じられていたことからも窺える。それでは、現場で起こる問題をそのようなコンテクストにあてはめて論じることで、自身の不満を提起していると指摘されてもしょうがないだろう。社会的状況が変化すれば「問題」の発現形態も、また問題を捉える我々の認識枠組みも変化するわけで、それを「大人や子どもが問題だ」という個人的な次元に還元しても根本的な解決策は得られないだろう。個人の直接経験から社会の構造へと視野を広げ、そのコンテクストからの問題の発見と課題~めざすべき社会像~の設定が必要である。そのうえで、県レベルでの教育施策は、すべての子どもにとって最善の利益となる公教育条件の整備として行われるべきものであるはずだ(「何を"県が行うべき施策"として求めるべきなのか」という視点も、「意見発表」の場では明確に意識されていなかったと思う)。

 このような意見聴取から、県の教育行政当局が何を得たのかということが気になる。10年単位での計画(平成31年まで)であるから、まだ助走段階なのかもしれない。ならば今の段階では専門的識見に基づく諸々の教育問題に関する統計的資料や研究についても県教育行政当局は蓄積し、次の議論の土台としていくことを強く求めたい―といった趣旨のことを意見として書いてきた。
 これは、大学の教育学者・研究者が政策的に貢献できる―教育学の「危機」を「好機」に転換する―余地は十分残されている、むしろ今こそ組織的に力を発揮すべき時期にあるという意味も込めている。
 しかし、大学の内側の現状を垣間見ている者としては、なかなかそれを強く押し出せない点もあるというのが何とも歯がゆい……。

 なお、宮城県教委では、ウェブ上でも教育振興基本計画策定に関する意見を広く募集している(7月末まで)。

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事務次官特別講演

 土曜日は、文部科学事務次官の特別講演会に出席してきた。現事務次官の銭谷さんは大学(学部)のOBであり、また講座の先輩である。これまでも、数回講演などで仙台にお招きしておりお目にかかったことがある。が、今回はまさに事務次官としての凱旋講演といったところ。学部としてもぜひとも事務次官のうちに招聘せねば、といったところだろう。とはいえ、今回はホテルのレストラン(?)を会場とした内輪向けの、小さな講演会だった(会場の確保が困難だったらしいから、もともと小規模に設定され、大きな宣伝も行わなかった)。
 藤井前仙台市長(こちらも大学[院]OB)のこぼれ話も飛び出しつつ(銭谷さんは藤井さんの「調査・統計論」受講学生の一人で、評点はAだったとか)、「グローバル化時代の日本の教育の課題と展望」について、一時間ほどお話をいただいた。

 箇条書きになるが、その内容を自分なりに整理すると、以下の通り(内容を正確に反映しているわけではありません)、

(1)教育行政は、国際機関の動向を無視できない 
①国連(ユネスコ)
世界初の民間ユネスコ協会が仙台の発祥であること(仙台から世界へ)
・日本の世界遺産条約への対応の遅れは、その登録件数の少なさに表れている(登録件数はヨーロッパが圧倒的)。
ESD(Education for Sustainable Development)
 「持続可能な開発のための教育」という動向
②OECD
・日本のPISA(2003)ショック
 とはいえ、G8の中ではカナダに次いで2番目に高い
☆調査をしてわかったこと
・下支えがなくなっている。
 成績を段階別に分けると、上位層の厚さは変わっていない
 =下層が増えている
・学年があがるにつれて勉強しなくなる。
 意欲の低下、ビジョンがもてないでいる
 高校と小・中とのギャップ―学習の継続性の問題
・PISAは「どれだけ学んだか」を問うテストではない
 TIMSSではまだ上位にいる
 知識の「活用・応用」をどう教えるのか
ユニセフの調査
 自己肯定性が低い日本の子ども(15歳)
 「自分は孤独だ」と感じている子どもの割合-日本はズバ抜けて高い(29.8%)
 平均は7.4%
◎OECDの教育統計―各国に影響を与えている
・PISAによって各国とも学力への関心が高まっている
☆フィンランド:教師は尊敬されている、読書に力を入れている、少人数教育、学校の自主性尊重
☆ドイツ:日本以上のPISAショック(2000)
・給食なし→給食ありの全日制へ移行(これまでは午後1,2時で下校時間だった)
 さらに朝食を提供する学校まで

(2)日本の教育の課題
①全国学力・学習状況調査
*結果からわかったこと 
 過去問との比較―学力は低下していない
 住んでいる場所で学力に差はない(沖縄がやや低い)
 都道府県(教員採用、免許公布区分)でも差はない
 学校間格差も外国ほどではない
 問題Bについて、無答が多い
・競争にしない工夫の必要
 秋田県の教育長は順位が低いだろうと予想して、言い訳を考えていたとか
②少子高齢化がすすむ国、日本
・OECD加盟国中で最もすすんでいる。
 0~14歳:14%, 65歳以上:21%
次官の出身地、秋田県はもっとも高齢化がすすむ
・日本の世帯の半分は夫婦のみか、一人暮らし
 核家族は三割
③低い教育投資
・日本の教育投資は低い、その中でよくがんばってきたというのが実態
 初等、中等教育は国際平均より若干低い…
 高等、幼児教育はひじょうに低い(幼児教育無償化の検討)
④日本の高等教育
・ここ10年間で大学は150増え、短大は150以上減った。
・日本の大学進学率は、国際的には高くない。
・追い上げられる日本
 高等教育政策にその差が表れている
・「学士力」強化
 大学で何を学んだかが問われる時代
⑤その他
・教育基本法改正
→学校教育法改正、小・中一本化
→指導要領改訂、平成21年度から実施
・職業との接続
・教員定数の改善
・地域の働きかけ-学校支援地域本部
・教員給与―超過勤務の実態の問題
……

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「自己責任」としての教員免許更新制

 年の瀬というのに、教育には暗い話ばかりが続く。
 一年前の教育基本法改悪にはじまる安倍晋三の行った愚行に、教育は翻弄され続けている(本人は性懲りもなく、最近またテレビに出演していた。その言い訳がましさは「男子の本懐」に悖る)。

 教員免許更新制という愚策をめぐっては、すでに所見を述べてきた。
その後もまったくもって、こんな無謀なことができるのかという疑念が解消されない。
 大学の中にいると、更新講習実施に向けた調査の動向が耳に入ってくる。
それを聞くと、この制度実施をめぐる混乱ぶりがよく伝わってくる。
膨大な教員人口に対処するために、大学が翻弄されることは必至である。
更新のためにやらなければならない作業が膨大なものになる(講習:1人あたり30時間、試験、評価報告書…)。
一年を通して、大学教員の休む暇というものがなくなる。だって、更新講習は長期休暇期間にやらざるを得ないのだから。
大学は、国の政策の外注を請け負うことになるわけである(国はそれを外側から監視する)。
果たして、本来の〈研究〉から切り離されて、そんな実務に振り回されていいのだろうか。
大学の意義がわからなくなってくる。
 しかも、更新講習は、教員の自己負担である(30000円程度)。
国がめざす教員の質保証が、教員の「自己責任」でまかなわれる――端的に言って、国の責任の放棄ではないか。
結局、国は、さんざん「教育再生」を喧伝しておきながら、することといえば、個人を「不安」にさらし、「監視」をするだけでしかないのである。
 もし、この制度をプラスに評価するとすれば、それは(教員養成系)大学にとって、新たなドル箱産業になるという意味でしかない(教員の過労と引き換えに)。

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インド式計算から二位数のかけ算を直観

 今日はクリスマスなのか。もうすっかり、頭からそういう感覚が抜け落ちている。
 「そんなの関係ねぇ」といったところだ。
 
 さて、最近テレビによく流れる「インド式計算」。
「学力」についてうるさく扇動される国内状況が、国内発展著しいインドの高度な算数・数学教育へと、われわれの眼を向けさせるのだろう。
 でも、テレビで解説を聞いてもすぐに忘れてしまうというのが正直なところである。
それぐらい、興味関心としては薄い。
さまざまな計算方法が紹介されるのだけど、各々がある限定されたケースにしかあてはまらないのだと思うと、果たしてそれらを覚えることが効率的なのかどうかも微妙である。
むしろ、一般的な(われわれ日本人が学校で習ってきた)筆算に精通していればそれで十分なのではないかと思ってしまう。
筆算は、それだけ一般性を持っているのだから。

 ただ、以下の計算方法だけはしっかりと覚えることができた。

【問】78×62=?

【解答】
78=70+8
62=70-8
70×70=4900
8×8=64
4900-64=4836
 答 4836

なぜ、このような計算方法になるのかは、以下の手書きの図を参照してもらいたい。
ちょっとわかりづらいかもしれないけど。
単なる計算上の操作(儀式)としてのみならず、図のイメージによって理解することで、この計算の意味を理解できた。
だから、脳裡から剥落せずに済んだのだろう。

Scan3_2

 このように考えた後、次のことに気が付いた。
これって、中学生の時に因数分解で習った「あれ」じゃないかと。

Scan1_4   

まさか、インド式計算をきっかけとしてあの多項式の展開を「直観」するとは!
これは、一つ賢くなった。
と同時に、数学の授業実践において、図形のイメージ操作と合わせて、文字式・計算を考えさせていくことの意義を実感した。

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アジアの高校がめざす「学力向上」

 先週15日(土)は、国際シンポジウム「学力向上を目指すアジアの高校教育」に参加してきた。
日本の教育論議の現状に照らして、非常にタイムリーな企画であった。
お招きしたのは、韓国・台湾・シンガポールの三か国の高校の先生方(高校教育関係者を招いての国際シンポジウムというのは、かなり独自)。
いずれも(形式的・順位的な意味で)日本より「学力」が高いとみられている国々である(PISAでは韓国との比較しかできない。TIMSS2003で順位を把握していただきたい)。
そして、教育面での共通性がみられながら(テスト中心、大学入試、高学力)、グローバリゼーションの下、共通の問題(就職難、学力向上へのプレッシャーなど)にそれぞれ異なる戦略で立ち向かっている。
 自分は会場係でシンポジウムの内容を集中して聞くことはできなかったが、O川先生の基調報告を拝借すると、各国の特徴(の変遷)は「ナショナリズムと学力向上」を共通の前提として次のように区別される。

・シンガポール 
  国民教育→幅広い学力観(脱点数至上主義)
・台湾
  「台湾人」形成→多文化への配慮(底上げ)    
・韓国
  国家の威信→世界トップ(上位層の上昇)

「どの国も、日本の教育論議に突き刺さってくる問題を提示してくれている」。
それが、自分の第一の感想である。
シンガポールについては「日本が目指し、そして挫折しかけている教育の行方」をみることができるし、韓国の「超エリート教育」政策は、一部日本の教育論者が興味を持ちそうな内容であるし、また「学力格差」が問題視されている日本の現状からすれば、原住民への対応に取り組む台湾の事例もまた大いにヒントを提示してくれるものであると。
もちろん、まだまだわからないことがたくさんある。
例えば、韓国の先生の報告を聞いたときは、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』が頭をよぎったし(生徒は全寮制の好待遇のもと平日約12時間の猛勉強だから、生活指導面でのケアがどうなっているのか知りたかった。日本以上の学歴格差社会といった逼迫した現状との関連も気になる)、シンガポールではなぜ日本が挫折しそうな方向に積極的に向かおうとしているのかが知りたかった(小さい国家で教育予算が高いから教師や学校をめぐる環境が整いやすいのか)。

また、いずれの国も、「学力vsゆとり」といった貧困な二項対立の枠組みの上で議論などしていない(日本と同様の問題状況も一方ではあるのだろうか、そんな地点で停滞などしていない)。
それが第二の感想である。
学力(適正な競争)も大事だし、人格も大事だし、修学支援も大事なのである。
とくに、シンガポールの先生の報告は日本の教師の目を覚まさせるに十分なものだった。
同国教育省が2005年に打ち出した教育スローガンは、“TLLM―Teach Less, Learn More”だった。
教師がそれほど教えないということなのかと解釈してしまいがちだが、報告者の先生は「そうではない」と再三注意を促していた。
問題は、学習者を参与させることによる学力向上だと(「学力」か「ゆとり」かではない)。
そして、私たち現場の教師は「なぜ教えるのか」そして「何を教えるのか」という点について価値判断をし、教授学習の質的転換を図ることをめざしていると述べていた。
日本の学力政策が「どう教えるか」ということに凝り固まっていることを考えれば、スタンスの違いは明白である。
“何を学ばせ、評価するのか”という根本的な面を議論の対象としているのである。
旧来点数で計ってきたものだけを尺度とするのではない。
だから、日本でいえば「総合的な学習の時間」で学んだことをセンター試験の評価(点数)に盛り込むような、そんな対策もとられているようだ。
さらに、そのような知の質的転換を通しながら、旧来の点数的な学力も〈結果的に〉向上させようとする思惑も読みとれた。
そして、小国家で頭脳流出が問題とされるだけに、実は愛国心の涵養とも以上の動向が結びついているということも。

 そして、以上の論点は、大学が入試に際してどのような評価を行うべきなのかという問題―教育の接続、高大連携といった議論―に連なってくる。
上記三か国では、いずれも高等教育が拡大している傾向にある(何を「高等教育」に含めるのかは単純ではないが)。
これは日本と対照的である。どの国も教育の接続をさまざまなかたちで議論している。
その点で、日本と各国ではかなり温度差があるのではないかというのが、第三の感想であった。

日本の学力論議を相対化してくれる、きわめて有意義な機会であったと思う。
教育再生会議にみられる教育論議の低次元ぶり(戦略のうすっぺらさ)が、より際立って見えてくる。
とても恥ずかしくて、ゲストの先生方には教えられなかったよ。

※自分の理解に甚だあやしい部分もあるので、ヤギーさんあたりにいろいろ当日の補足をしていただけると助かります~。

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[メモ]とかく「学力向上」が叫ばれる世の中だから

 全国学力調査の結果が公表されたのは、約一ヶ月前(平成19年度全国学力・学習状況調査 調査結果資料@文部科学省)。この学力調査への私見については以前述べたとおりであり、現在もその見方は変わっていない。むしろ、いっそう思いを強くした。70億円を超える税金を毎年この学力調査に投入するくらいなら、教員の負担を軽減する施策(=人員増加)等ほかにいくらでも有効な対策が考えられそうなものである。同調査について、苅谷剛彦氏からは「精度の悪さ」「解像度の不十分さ」が指摘されている(「第12回 全国学力調査から見えてくるもの・見えてこないもの」『webちくま この国の教育にいま、起きていること』2007年11月9日)。「調査結果のポイント」をみても、まったくその通りといわざるをえない。むしろ、全国的なばらつきが少ないことに驚いたくらいだ(平均正答率±5%以内)。教科ごとの正答率も、小・中ともAが80%以上、Bが約60~70%だから、これでは子どもの「学力低下」を嘆くことすらできない(とかく青少年を謗りの対象にしたい保守派の方々にとってはとても残念なことだが)。
 問題として自分が受け止めたのは、「AよりBのほうが正答率が低い。これをどう改善していくか」という点だが、ただ、これなど別に“全国”学力調査を行わなくともわかっていたことである。知識を「学ぶ」ことが結局、日常の生活世界の文脈から切り離された空間での「蓄積・付加」に終始していて、自分が消化しやすいように「調理・加工」していく技術にまで達していない点。これは、まず地道に大人たちが「わかる」ことの大変さとおもしろさを子どもたちに示していく以外にないと思う。だから、教材研究の時間が必要であり、そのためにこそコストをかけるべきだと、何度も言っているのだが…。
 さて、それより深刻に読みとるべきは、これも「全国学力調査」をしなくてもすでに指摘されていたことだが、〈家庭の経済力と学力との相関関係〉だろう。
 Webでも見られる最近のものとして、学力格差の要因・改善の視点として指摘される「ペアレントクラシー」(耳塚寛明「学力格差と『ペアレントクラシー』の問題」『BERD』8号[2007年4月])、あるいは、学力格差をもつ学校が「力のある学校」として発展していく際のポイントとして提起される「家庭・地域との協働による教育活動」(志水宏吉「金川小学校が『力のある学校』となったのはなぜか―「学力の樹」を基にした子どもが伸びていく仕組み―」『BERD』8号[2007年4月])などが注目される。
 これらの指摘を受け、また学力調査の結果も含めて、最近自分が考えていることについて述べてみたい。
 それは〈「学力」を伸ばすことは、学校内での知識伝達といった発想だけでは困難だ〉ということである。要するに、「学力」を形成していくうえでの前提条件―文化的環境と、そこでの子どもの経験といったものが非常に重要になってくるということである。家庭や地域という「場」が備えもつ文化性や包容性といったもの―J.R.マーチンが『スクールホーム』で述べる「3C」―が、実は、子どもの「学力」(3Rs)を用意する前提になるのであり、それを無視して「学力」向上を議論することは困難だということだ(*1)
 そう考えると、新自由主義的路線の中でこの前提が失われ―家庭・地域という「場」の「崩壊」―、そしてそのような中で「競争意識を喚起する」を合い言葉に「学力」テストが行われていったとしても、教育不信ばかりが増大してあまり効果はないということになる。「学力」が伸びないばかりか、むしろ、いっそう学校内の雰囲気が殺伐としたものになる。そのような“冷たい雰囲気”のなかでの「学力」形成が果たして、ほんとうに子どものためになりうるのか、自分には甚だ疑問である。ただ「できのいい子」と「できの悪い子」のレッテル貼りを加速させるだけではないのか、という危惧がたえない。
 もし、家庭や地域に現在その準備がないとすれば、さしあたり学校が中心となって地域・家庭に働きかけ、そのような「学力」形成の前提としての子どもを包容できる環境作りを考えてみるのは一つの方法なのかもしれない(くれぐれも学校・教師に多大な負担を強いることだけは避けなければならない)。今のところ具体的なイメージはついていないが、例えば、学習発表会での演劇活動や社会科での新聞づくりなど、既定のカリキュラム内でも可能だと自分は考える。教師と子どもたちがともに「参加」し(*2)、文化的活動を実践できるような「学びの場」が用意できれば―。「総合的な学習の時間」などはそのような「場」になりうると考えるので、その安易な時間削減には反対である(教師の奮起を期待したいのだが…)。

*1 こういうふうに言うと、すぐ「食育」「親学」とかが言われるが、そう単純なことは考えていないので、あしからず。一斉教授の中で知識〔文字・記号の機械的操作でしかないもの〕を蓄積させていくといった従来の「教育観」「学校観」を、〈家庭〉や〈地域〉といった観点から書き換えていくことは可能か、そこから現状の改善策を導きだせないか、というところに自分の関心がある。「教育改革」論議における「親学」や「食育」は、既存の学校教育の補完的位置づけでしかないだろう。それは根本的解決にはなりえない。
 
*2 〈教師〉が〈子ども〉に知識を教授するという一方向の考え方ではなく、〈教師〉〈子ども〉がともに〈文化〉に対して働きかけ、学ぶという「三角形の関係」を、この場合の「参加」としてイメージしている。「三角形の関係」のなかでは、教師は援助者として子どもに働きかける。

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金が出せないなら口も出さないでくれ

「財政審:教員の定数増を求める文科省に批判的意見が相次ぐ」『毎日jp』2007年10月12日。

「教育に対する日本の『公的支出』は高い?低い?」『Benesse教育情報サイト 教育ニュース』2007年10月12日。

 教育予算の増減をめぐって文部科学省と財務省との駆け引きが今後予想される――そんなニュースが今朝のテレビでも流れていた。財政審の姿勢については、すでに前から分かっていたことだから、今さら何も感じることはない(彼らがどの程度、教育現状について正確な事実認識を持っているのかは不明であるが。予算をめぐっては、例えば、「輝ける『団塊』に暗澹たる『教員大量退職時代』」2005年11月10日で指摘した問題が挙げられる)。
 そもそも最近の教育改革は、基本的に「行政改革の一環」としての教育改革、外在的な理由に基づくものなのであって、教育内在的な理由に基づいた議論によっては動いていないのである。従来の各種審議会はほとんど中教審へと一元化され、その結果として、教育改革論の劣化が目に余る事態に陥っていることは、すでに方々から指摘されていることではないか。教育再生会議のように俗悪な議論がまかり通ってしまうとすれば、さすがに国民総脱力してしまうというものだ。昨年暮れ、寺脇研さんが本学研究科にいらして講演したとき、今の若手文部科学官僚はほとんど志気を失っている旨のことを話されたのを思い出す。今ほんとうに求められているのは、「教育改革論の改革」(=我々大人が教育をみる「まなざし」の高度化)なのである。ポピュリズムが蔓延する状況下でいくら教育改革をしても、よい結果を得られるはずがない。とかく、「教育再生」(このネーミング自体に俗悪さを感じる)を唱える論者たちは市場原理を教育に導入したがるが、他国における市場原理主義の帰結がどれほど惨憺たるものになったか。「教育再生」論者たちは、単なる好みや信条の発露にとどまらず、そのことにもう少しは配慮してもいいのではないか。
 もちろん、財政的見地からすれば予算の増額はできるだけしたくないのが本音だろうし、教育内部での改善の余地もまだまだあろう。その点にはある程度共感できる。だが、「教育改革」が本音として教育内在的な理由には根ざしていないのだから、そのことに少しでも自覚的であるならば、異論者に発言機会も与えないほど大きな声で持説をがなり立てることだけは避けてもらいたい。それが私の「教育改革」論者への要望である。
 これまでの「教育改革」論はあまりに欲張りすぎだった。「金は出さないが口は出す」レベルの、現場からすればたまらないものであった。「金が出せないから口も極力出さない」(だから、学習指導要領による縛りも極力避けるというのが、「ゆとり教育」の本旨だったと私は思っているが)。せめてそれぐらい自重もしくは苦悩が透けてみえる教育改革論の展開を見たい。

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また余計なことを

・「中学で『武道』を必修化=中教審」『時事通信出版局 内外教育研究会』2007年9月5日。
・「中学で武道必修化へ 中教審体育部会 「伝統文化」重視で」『Sankei Web』2007年9月4日。

 武道に励んでいる者として言わせてもらえば、「武道」を必須化した今回の中教審素案は「下らない素人発想」という評価に尽きる。さしあたり、自分の意見として次の点を指摘しておきたい。

(1)改正教育基本法中の「伝統と文化の尊重」の文言を受けた旨のことが記事には書かれているが、そこから「武道」という、近代以降に形成された新しい「伝統」を選ぶこと自体、極めて恣意的な発想であることを指摘しておく。武道を体験させることは多様な運動体験を積ませることにはなるかもしれない。だが、どういう意味でそれが「伝統と文化の尊重」の実現につながるのかは、まったくもって私にはついていけない意味不明な思考である(柔道などはもはや完全に国際「スポーツ」化してしまい、武道的意味づけは墜落しかけている)。まちがっても、これによって武道の意義を精神主義的・根性主義的な方向に狭めてほしくはない。それは武道への侮辱である。

(2)「武道」を必須化したときに、一番問題となるのは設備面の整備である。実はこれにはとてつもなくコストがかかると考えていい。剣道についていえば、とくに防具類面での費用がかさむ。メンテナンスも大変であり、それを怠ると香ばしい腐臭をあたりに漂わせることになる。しかも、生徒一人一人に防具を用意させることなど到底できないから、防具の使い回しは必至である。となれば、女子はドン引きすることまちがいなし(断言)。
 柔道にしても設備は大変だ。畳が張りめぐらされた道場の管理を、すべての中学校に望むことは困難だろう。

(3)用具費は無償ではないだろう。道着・(剣道なら)竹刀などは、生徒側が用意しなければならない。自費負担となることは間違いない。とすれば、給食費同様に、用具費の滞納という事態が容易に想定される。
 ちなみに、自分が高校の時経験した体育での剣道は、実にひどいものだった。どういう点でひどかったというと、体操着の上に防具をつけて稽古をするという点においてだ。道着は決して安くはないし、生徒一人一人に購入させるわけにもいかないのである。しかし、そんな「美しくない」格好で、ほんの少しの時間と指導で稽古をしてみたところで、「伝統と文化の尊重」という態度を実現させることなど、まずできないだろう。

(4)指導面でも困難がつきまとう。すべての学校に、武道の指導者を配置することは難しいはずである。そして、武道は危険と隣り合わせだということも覚えておいたほうがいい。私が在籍した大学の剣道部では、その昔死者を出したことがある。稽古前の何気ない竹刀のチェックという慣行の背景に、にわかには信じられないような理由があることを知って、私は驚愕した経験がある。武道の指導には、安全面への配慮が行き届くだけの専門性が求められるのである。
 
(5)結局、必須化することに意味はない。そればかりか、地方の教育財政を圧迫し、現場を混乱に陥れる危険性すらある。地方分権の流れのなかにあっては、むしろ、地方の自主性を尊重した柔軟な体育のカリキュラムを構築すべきであり、これについて国家が一方的に決断する必要はまったくない。

要するに、「また余計なことをしてくれるなぁ」というわけだ。

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「教師は授業の専門家たれ」

 日向康『林竹二・天の仕事』(講談社、1986年)。だいぶ前に古本屋で購入したまま、積ん読状態だった。
  久しぶり頁をめくってみたところ、新聞記事の切り抜きが挟まっているのに気づく。
林竹二「〈論壇〉教師は授業の専門家たれ 実質そなえぬ教員養成教育」『朝日新聞』1975(昭和50)年12月21日付の記事である。
  切り抜きの痛みが激しいので、ここに掲載し、保存しておくことにする。

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■林竹二「〈論壇〉教師は授業の専門家たれ 実質そなえぬ教員養成教育」(『朝日新聞』1975年12月21日)

 教師は、その仕事の本質からいえば、医師以上に高度に、専門的な仕事に対して、責任をもたされている。子どもがもっている可能性にとりくんで、これを引き出すという仕事は、病気をなおすよりも、はるかに複雑で困難な仕事である。
 学校教育の核心は、授業である。したがって、教師は、一人一人が授業の専門家でなければならない。ところが、すこしく立ち入って学校教育の実態にふれて見ると、いわゆるベテラン教師はいても、授業の専門家はいないというのがいつわらざる実情である。だが、これは極めて当然の事態で、だいいち、大学における教員養成教育は、ほとんどその実質をそなえていない(この事にたいしては、教育学者の怠慢が声を大にして責めらるべきだろう)。
 そのうえ、致命的なのは、教師の専門家としての訓練は、現場に出てからでなければ与えられえない性質のものであるのに、学校という現場は、若い教師を授業の専門家として訓練し、育てる「場」では、およそないのである。これは、とりも直さずいま学校では、専門家としての訓練を受けない教師の手で、教育が担われているということを意味している。
 ある小学校の四年で授業をしたとき、こんな感想を書いた子どもがいた。
 「林先生のじゅぎょうの教え方はうまい。それは、大きくわけて、よく考える時間をくれるし、こまかくきりきざむ所まで心をいれ、よくわかりやすくせつ明し、よけいな所のはぶき方もうまいからです。
 この差がプロフェッショナルとふつうの先生がたのちがいです」(原文のまま)
 私は五年ほど前から各地の小学校や中学校で授業を試みている。百九十回ばかりになるが、この経験を通して私の痛感するのは、子どもが実にすばらしい力を持っているということと同時に、今の学校教育ではその力のごく一部分、しかも上っつらの部分しか引き出されていないのではないか、ということである。授業の貧しさがこの結果を生んでいる。これは単に子どもの不幸であるばかりではない。それは民族の将来を閉ざしてしまう結果をもたらしかねない。もし学校教育が未来を開く機能を失うなら、それは民族的自殺にほかならない。
 私はいろいろな機会に、現場にむかって、授業を根本から考えなおす必要を訴えているが、青森県のある町で、研究授業と話し合いをしたとき、主催者に、こういう感想をよせた小学校の校長(W氏)があった。それは、「えぐられる思い」と題されていた。W氏は会のあと、足もとが崩れ去るような異様なさびしさを感じ、だれとも顔を合わせたくないまま、裏道を家に向かうところを、O校長の車に拾われた。O氏は開口一番「おれは四十年間、いったい何をしてきたのだろう。医者だったら、とっくに廃業だ」といった。W氏はその感想をこう結んでいる。
 「落ち着いたあとで、私はくやしかった。現場の人間として、まずわれわれから高らかに言い出し、表現しなければならぬことを、事もあろうに、よそさまから突かれたのである。家に帰りついて、家内にこのことを語り、明日からは、もう俸給は返上だといったら、家内は、なんとか来年からにして下さい、といった。二人で苦笑いした」
 W氏やO氏のような校長がいることは、文字通りありがたいことだ。学校教育は、いま出直しをせまられている。この事態を直視して、根底からのとりくみがはじめられないかぎり、学校教育の起死回生はない。
 出直しの第一歩は、教師が授業の専門家としての力量をそなえる努力でなければならないが、それは教員養成教育と、教育行政(特に県レベルでの)との「回心」によって支持されないかぎり、成功の望みはない。主任の制度化もそれを阻止する戦いも、根本にある問題を解決する力はない。
               (前宮城教育大学学長=投稿)
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 今読んでも、まったく古くささを感じない。それどころか、現在の「教師教育の危機」を先取りするような主張である。
今から30年以上も前に、「臨床的な教育の学」の確立を訴えた林竹二。その主張に改めて耳を傾ける必要があると痛感する。

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「箱物」と名づけよう

 今回の教育再生関連3法案可決によって、導入されることになる教員免許更新制は、無駄無駄無駄…、ただそうとしか言いようがない施策である。箱物行政と変わらない。さすが、拙速な議論に強行採決というかたちで出来たものにふさわしい出来映えだ。


 教育再生会議(「第2回学校再生分科会」平成18年11月30日、再生会議副室長発言)や衆議院「教育再生に関する特別委員会」(平成19年4月18日議事録、文科相発言)において、免許更新制に「不適格教員」排除機能を持たせるかのような説明がなされている。中教審の議論ではその点、「不適格教員の排除を直接の目的とするものではなく」と慎重に避けられていたのにである(「今後の教員養成・免許制度の在り方について(答申)」平成18年7月11日)。
 しかし、少し考えれば、そのように機能するはずがないことは理解されよう。免許の更新は10年ごとになっている。「不適格教員」への対処に10年もの年月をかけるというのは制度としてどうなのよ、と問いたくなる。佐久間亜紀氏が述べるように、そもそも「不適格教員」の処遇問題は、免許制度ではなく任用制度で対処すべき問題である(佐久間亜紀「なぜ、いま教員免許更新制なのか―教育ポピュリズムにさらされる教師たち」『世界』第761号[2007年2月号])。


 すでに、「不適格教員」への研修の義務化など、処遇のための仕組みはあるのに、すべての教員(免許回復者・ペーパーティーチャーを含む)をふるいにかけるという更新制。「教育不信ここに極まる」といったところだが、根本的に教師を信頼しない制度を設けることで、学校がよくなるはずがない。現職教員や教員志望者の不安を煽るだけでしかない。団塊世代の大量退職という状況にもかかわらず、教職は魅力ある職業ではなくなり、有望な人材の獲得すらままならない状況に陥るのではないか(すでにその兆候ははじまっている。苅谷剛彦「この国の教育にいま、起きていること 第6回 免許更新制と教員受難のパラドクス」『webちくま』2007年5月18日を参照)。教員を萎縮させる施策は無駄なものでしかない。


 教員免許更新制を実施しているのは、アメリカ以外に見あたらない。それはアメリカ特有の事情(教員不足、貧弱な研修制度、そのなかでの地位の向上という課題)によるものである。また、アメリカの更新制は個々の教師の職能成長計画に位置づくものであり、免許状の(より上位のものへの)切り換えといったメリットを持っている。
 それと比較して、日本の教員免許更新制が「不適格教員」排除のためのチェックをするにとどまるのだとしたら、あまりに非効率的であり、無駄もいいところだ。


 2002年に免許更新制が見送られた際、その代替策として10年経験者研修が登場し、実施されている。現状の議論のレベルだと、免許更新制も、結局「行政研修」というポジションにおさまらざるをえないだろう。「その時々で必要な資質能力に刷新(リニューアル)する」云々と高らかに謳いながら、結局形式的なものになる可能性が高い。現職教員だけで110万人以上を越える膨大な人数に対処するのだからそうならざるを得ない。
 また、日本は現職研修制度が整いすぎているといっていいほどだが、校内研修は別として、更新講習などは学校現場から離れざるをえない。その教員が抜けた間の穴埋めはどうするのか。結局、教員の多忙化に拍車をかけるだけである(いわゆる夏期休暇期間が講習に充てられると考えられるが、まさか今どき「先生は夏休みがあっていいねぇ」などとツッこむ無知な人はいないだろう)。


 はやい話が、税金と労力の無駄である。そもそも教員免許更新制は、教育内在的な論理から登場したものではない(義務教育費国庫負担金制度を堅持するための代償・生け贄。藤田英典『教育改革のゆくえ―格差社会か共生社会か―』岩波ブックレットNo.668、2006年、43-44頁を参照)。
 「教育不信」(いじめや未履修問題)も強く作用していることは確かだが、制度改革をすれば問題は解決するかのような安易な発想からは、そろそろ脱却しなければならない。

…ほかにもたくさん言いたいことがあるのだが、とりあえずこの程度にしておく。書くたびに、ため息が出るから。

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知識観の矮小化と空疎な「徳育」

 教育再生会議については、すでに方々から的確な批判が蓄積されている。ついには自民党内からも批判が展開されるようになった。衆議院議員有志による「マネジメントの観点からの教育再生研究会」の批判と提言は、至極真っ当なものだ(マネジメントの観点からの教育再生研究会「教育改革の改革を―教育再生会議への七つの疑問」『世界』2007年6月号〔no.766〕。)。

 先日出された第二次報告『社会総がかりで教育再生を~公教育再生に向けた更なる一歩と「教育新時代」のための基盤の再構築~』(2007年6月1日)もまた、それらの批判を克服し得たとは到底いえない代物となっている。(必ず批判を展開するであろう邪魔な)教育学者をあえて避けて組織された「結論ありき」の会議(客観的・具体的な議論など最初から念頭にない)なのだろうから、このような結果は当然といえば当然である。

 自分は「徳育」の教科化には反対の意思(というより、道徳教科の実効性のなさ)をすでに示している(『朝日新聞』「声」欄、2007年4月4日、当ブログ「道徳教科、効果は疑問」、2007年4月5日)。
 率直に言えば、自分自身、「徳育」の教科化に反対しているとはいえ、道徳教科という枠組み自体にそれほど問題性を感じているわけではない。しかし、戦前の修身科にしろ、特設「道徳」にしろ、それが結局のところ社会(科学的)認識を経ない〈心情主義〉という実際的帰結に陥っているから問題なのだ。
 〈心情主義徳育〉への志向は、今回の第二次報告でも、知識(「学力」)と「規範意識」が、それぞれ別々に論じられていることなどから容易に読みとることができる。たとえば、以下の記述。「私たちは、全ての子供たちが、高い学力と規範意識を身につけ、知・情・意・体、すなわち、学力、情操、意欲、体力の調和の取れた徳のある人間に成長すること、一人ひとりが夢や希望を持ち、社会で自立して生きていくために必要な基礎的な力をしっかり身につけた人になることを望んでいます」(1-2頁)。非常に「美しい」全人教育の理想である。もちろん、「知・情・意・体」といったように「全人的」諸要素を便宜上設定し、それらの調和的発達の具体的方法をめぐって議論することは大いに結構なことである。だが、再生会議での議論の現状からいえば、このような区分を設けることで、かえって知識と道徳(情意)とが切り離されて捉えられてしまい、もっぱら道徳は個々人の「心」(いかに秩序に順応的であるべきか)の問題に還元されてしまっている。このような知識観の矮小化は、教育論議にとってきわめて非建設的である。「心」がどうにかなれば自然と道徳的行為へ至るなどと考えたり、あるいは「自然体験や職業体験を行うことで、子供たちは、命の尊さや自己・他者の理解、自己肯定感、働くことの意義、さらには社会の中での自分の役割を実感できるようになります」(6頁)などと捉えるのは、あまりに短絡的で、俗悪である(なぜ「自然体験や職業体験を行うことで」「子供たちは……実感できるようにな」るのかがまったく説明されていない。明らかに「論理の飛躍」である)。

 今から二か月近く前になろうか、特急列車内で女性が男にレイプされるという犯罪が起こっていたにもかからわず、同じ車両に乗り合わせた乗客約40人が何もアクションを起こさなかったことが事件として取り上げられ、乗客の「沈黙」などと報道された。自分はこのようなケシカラニズムに染まった報道の仕方にかなりの嫌悪感を感じた。そもそもその場に居合わせた乗客がどれほどその事件性の高さを「認識」できたのか、疑問である(私が乗客であったら、夫婦もしくは愛人関係にある男女のいざこざと認識するかもしれない)。仮に事件性が認識できたとして、そのうえで重要なのは「勇気」などという「心」や徳目ではなく、効果的なアクションの取り方である。「非常用ブザーを押す」「車掌に連絡する」…、それは知識に属する問題であろう。そのような知識・認識を基盤として道徳的といえる(=望ましいと社会的に評価される)行為に至ることができると、自分は考える(無鉄砲な行動もそれはそれで好きだが、小心者の自分には無理だ)。

 モラルの問題を個々人の内面に閉じこめるのは、道徳的行為の観点からすれば何の問題解決にもならない。かえって独善的な発想に流れやすい。また、エピソード主義(「ふるさと、日本、世界の偉人伝や古典などを通じ」云々)に走り、感傷に浸ったところで、さほど大きな効果は得られないだろう。
 子どもたちに「規範意識」を身につけさせたいのなら、モラルが求められる問題的な場面を通して、そこから心理的意味ではなく、社会的意味を引き出さなければならないはずである。ちょうど『すだ公民館』において、素敵な授業実践が報告されている。ぜひ、読んで頂きたい。

 いかに所与の秩序(ルール)に服従させるかではなく、どのような意思決定を自ら行うことが社会的に望ましいのかを教えることが、意義のある徳育というものではないだろうか。(了)

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教育的「変身」の実例

 唐突だが、まず、以下のJ.R.マーティンの論文の論旨を整理することから始めたい(さりげなく本の宣伝も兼ねて)。

■ジェイン・ローランド・マーティン(Jane Roland Martin)、尾崎博美訳
「第2章 教育による変身 (Educational Metamorphoses)」
生田久美子編『ジェンダーと教育―理念・歴史の検討から政策の実現に向けて―』(ジェンダー法・政策研究叢書第4巻)東北大学出版会、2005年12月。

 本論でマーティンは、教育という現象の「変身」(educational metamorphoses)という側面に光をあてる。この試みは、従来の研究が教育という現象を付加的な変化(incremental change)、つまり、教育を(学習者が知識を積みあげていくように)小さな変化や進歩を積みあげていくという側面のみで捉えられていることへの批判を含むものである。
 教育を付加的な変化として捉えることは、生徒の学習到達度評価を可能にするなどのメリットはある。だが一方で、教育目標の画一化など、細かい点に及ぶ管理を推奨することにつながる。教育者たちに管理という幻想をもたらす。
 だが、実際の教育は、ほとんどの場合、予測不可能的な現象であり、そのことを知らない人はいない。それにもかかわらず、その多くの側面を持った教育という行為を、きっちりとした制御の下に置こうとする試みが頻繁になされてきた(もしも教育が自発的で意図的で自覚的な行為であるとしたら、教育が手に負えない予測不可能な現象であることを心配する必要がなくなる)。
 マーティンが問題にするのは、教育を知識や理解の獲得を目的とする行為とし、学び手の自発性や教え手の意図をその前提としている教育の合理主義的な定義である。そして、この「狭すぎる定義」が、教育領域から母親たちの教育的行為を放り出し、さらには「新生児の変身」や「文化横断による変身」をも教育から排除することになると指摘する。
 マーティンはビクターやマルコムXを具体的事例として、合理的定義では捉えきれない教育的「変身」―人を全人的に変貌させる行為としての教育―を論じてみせる。

 なぜ、このマーティンの論文を挙げたのかというと、このマーティンの指摘が、自分が今読んでいる本の内容と極めて密接に絡むものであり、教育哲学者マーティンの思考実験を実証してくれる日本の事例がその本に示されていると考えたからである。

 その本とは、宮本延春『オール1の落ちこぼれ、教師になる』(角川書店、2006年)
 同書では、小さい頃からいじめられっ子で、中学では成績がオール1だったという「落ちこぼれ」の宮本さん―中3で漢字は自分の名前しか書けず、英単語はbookしか知らず、九九は2の段までしか言えないという状態―が、奥さんとなる「彼女」や職場先の上司・同僚、定時制高校の先生との出会いを通して劇的に変化し、勉強する喜びに目ざめ、その後、名古屋大学大学院にまで進み、母校に数学教師として赴任するという、その経緯が自伝的に書かれている。
 これこそ、付加的な変化という枠組みでは捉えきれない、教育的「変身」を指すのではないのか。知識や技能が「加えられた」という次元に、この宮本さんの学びを還元することには、さすがに無理がある。しかも、「落ちこぼれ」の宮本さんを学びへと誘ったのがアインシュタイン(のビデオ)だというから、さらに驚く(宮本氏自身も「不思議」だと述べている。)。教育の予測不可能性をこれほど明快に物語るエピソードは、世界でも稀であろう。
 また、宮本さんが純子さん(「彼女」)はもちろん、土田先生(「父親のような先生」)、そして、「死ぬまで勉強だよ」という母親の言葉をとくに印象深く語っていることも興味深い。教育を語る主要概念として「家庭」概念―それは「逃げ去る場所」のように不当に評価されてきた―を積極的に捉え直し、新たな学校像/教育像を提起しようとする、マーティンの「スクールホーム」構想(≠ホームスクール)の有効性や意義を、宮本さんが自身の経験を通して示してくれているようにも読めるからである。
 …と書いておきながら、自分自身「スクールホーム」概念についてよく知らないのだが、日本語訳が近々刊行されるので、それからまた勉強するということで、今日はこれでおしまい。

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セクショナリズムの発露か

 小学6年生と中学3年生を対象にした全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が、本日行われる。どのような報道がなされるのか、気になるところだ。

 それにしても、最も児童生徒が見えている各学校ですでにさまざまなかたちで学力把握がなされているにもかかわらず、このような全体調査を行う意味がどこにあるのか、私にはわからない。そもそもペーパー・テストで計ることの出来る「学力」の質―テストから読みとれるもの―に関しては、調査のあり方を含め、きわめて慎重な議論を要するはずである。そもそも学力観自体多様であることを念頭に置けば、さまざまな側面から子どもたちの学習傾向を把握していくことがむしろ対策としては有意義なはずである。だから、抽出調査ではなく、今回のような全体調査でなければならない理由もよくわからない。果たして多額の税金を投入するだけの意味があるのだろうか。序列化をふくめ、いろいろな問題を引き起こす可能性が考えられるだけに、文科省がこれに乗り気だとも正直思えないところがある。
 「学力テスト」というものは、子どもたちに何が学ばれたか(あるいは学ばれていないか)を把握し、行政が学力保障のための政策的な改善をはかるために行うものだと私は考えるが、これを機に政府や文科省が、自らが行う教育政策の自己評価に本腰を入れるとは思えない。過去の「教育改革」政策がよい証左である。ここ30年の「教育改革」に関し、その自己反省がなされたことを私は寡聞にして知らない。それどころかたえず青少年を誹謗・中傷の対象とし、それを「教育改革」の理由としつつスローガン先行で迷走してきたのが、ここ30年の「教育改革」ではなかったか。
 もしこの調査への国民的関心がテストの「得点」という表面的な部分にのみ傾き、それを根拠に学校や教師、さらに子どもたちを批判して競争を煽る風潮が蔓延するようならば、〈確かに学力低下が進行している〉と評価することができるだろう。「子どもたちの」ではなく、「日本国民全体としての」学力低下が。

   ◇   ◇

 教育基本法改正(教育振興基本計画条項の盛り込み)や教科書検定(沖縄集団自決における軍の「強制」を削除)をふくめ、ここ最近における一連の教育政策は、あまりに問題なものばかりである。行政改革・構造改革のなかでそれ自体リストラの対象になりつつある弱小官庁・文部科学省が自らの仕事と予算を守るための生き残り戦略が、自民党の思惑と重なって、ズルズルと政治従属的な方向へ後退しているのだとしたら、危機感を覚えずにはいられない。

〈リンク〉
・全国的な学力調査について@文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/index.htm

・学力テスト:問題と正答例
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/etc/gakuryoku.html

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「強制」と「状況の力」

 「従軍慰安婦」問題、および高校歴史教科書の沖縄集団自決に関する記述問題で、日本軍による「強制」(慰安婦問題の場合、連行における「強制」)があったか否かで、ここしばらく湧いている。「証拠(文書)がない」といった指摘自体が、矮小な歴史認識(官房的歴史観とでも言おうか)の反映にすぎないと、率直に思う。そもそも「強制」なくして、証言等に示されているような慰安所経営や集団自決の状況を作り上げたのなら、軍の関与云々以前に日本人の非人間性がよりかえって問題になるだろう。

 自分は歴史教育について、以下のように考えているが、上記問題をめぐって、安倍内閣からその姿勢は見えてこない。

自己満足(例えば、我が国は戦争、植民地支配時にいいこともした、など)や趣味(最近テレビで歴史ブームだがあれは何故?)に終始し、「自己変革をとげていく高度に知的で心理的な作業」である「自己批判」をもたない歴史認識は、その国の知的・文化的成熟度の低さを周囲にひけらかすようなものであり、そんな歴史認識に基づく独善的で自国中心的な歴史教育のほうが、(外からの軽蔑の眼にさらされる点で)はるかに「自虐」的だ。

 もちろん、戦争を一方の(被害者の)立場からのみ語ることで、隠蔽してしまうものは多々あると思う。国民総「動員」という言葉が示しているように、軍による「強制」というだけで戦争を捉えきることができないのは事実である。今回の教科書検定に際して、各教科書会社がはじめから「従軍慰安婦」記述について自主規制している=文科省にすり寄っている現状からして、ある種、戦時期のメディアの対応と変わらない一面を示している。

 自分は先日、映画es[エス] について触れた。この映画は歴史教材としても非常にすぐれたものだと思う。高校歴史の授業の際に生徒にみせたら、いい反応が得られるのではないだろうか。
 同映画では、「状況の力」がいかに普通の人々の「人格」を支配し、非人間的な行為へ向かわせるかが描かれている。ただ、誤解してはならないのは、「すべてはその時の状況が悪かった」というように、時代の「なりゆき」が問題なのではないということである。どんな状況も、それを作りだす人間がいてこそ成り立つわけだから、どこに問題の根源があったのかを、あるいはそれを回避する未発の契機があったのかを、慎重に検討していくことが有意義だろう。

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道徳教科、効果は疑問

 教育再生会議が、今度は道徳の教科化を提言するという。「教育再生」とは昔の教育(修身科)を再生することなのか。道徳教科という発想の古さに驚く。それなら委員の方々にはぜひ、戦前の修身科が「効果がない」と批判され続けた歴史も念頭において頂きたい。
 修身教育改善を内容とする「徳育重視」は、「知育偏重」という問題意識と結びつき、教育勅語発布後も繰り返し政策課題となり「続けた」。そのことが何より、道徳教育で問題を解決しようとする困難を物語っている。森文政期における修身科試験の廃止をめぐる論争や、文部官僚として活躍した澤柳政太郎の低学年修身科廃止論をはじめ、修身科の無力を訴える声が学校現場や教育雑誌等で相次いで出された。
 そもそも教科として教科書を使って教える「道徳」は、徳そのものの教育ではなく、徳(徳目や倫理・思想)について文字で表された知識を教える結果になりやすく、授業が道徳的と評価される社会的行為に直接つながるとは限らない。それに評価が加われば、かえって建前と本音を使い分ける偽善的態度を子供たちに促す結果になりはしないだろうか。
 教科化されても効果が出ないことを問いつめられ、学校・教師は一層苦しむだろう。子供たちに至っては、学力だけでなく、心の面でも競争を強いられる。その息苦しさは、やがていじめや暴力として問題化していくのではないか。

※朝日新聞「声」欄(4月4日朝刊)もお読み下さい。

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学校ボランティア関連記事まとめ

 中田小学校のボランティア活動も今週火曜日をもって、無事に終了。
お別れに子どもたちから寄せ書きをもらったりして、何だかハートフルな雰囲気になってしまった。こちらからは、子どもたちの幸せを願って、ささやかながら、クローバーの鉢植え(四つ葉入り)をプレゼントした。
 報告書は、学校ボランティアのウェブサイトに提出したので、そのうちアップされると思う。そちらをみていただきたい。
 一方で、活動を通していろいろと思考をめぐらせた結果は、このブログにいくつか記事としてアップしてきた。ここにもう一度、まとめて挙げておく。

「学習刺激剤としての『学校ボランティア』」、2007年2月22日。

「学校現場で『直観』を学ぶ」、2006年12月28日。

「一学期のボランティアを終えて」、2006年10月11日。

「正午=?」、2006年06月12日。

実にいろいろな勉強をさせて頂いた。中田小学校の教職員の皆様、およびボランティア事務局の方に心からお礼申し上げます。

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学習刺激剤としての「学校ボランティア」

 H小学校での学習補助は、昨日で全日程終了。一年間を通して休むことなく、皆勤することができた。
 「算数の時間が楽しくなった、という子どもが増えた」というのはありがたい。
 算数・数学教育に精通してなどいない自分ごときが関わったところで、子どもたちの「学力(学習到達度)」が即向上するはずもないのだが、しかし、子どもたちが算数の勉強のために机に向かう(今後も向かい続ける)そのきっかけや刺激剤とでも言おうか、ちょっとしたスパイスとしての役割を「学校ボランティア」が果たし得たならば本望である。
 そもそも「教育の成果」というのは、教師の力をもってしてもそう簡単に具現する質のものではないし(そもそも実体的に捉えられるものなのだろうか)、また表面に出てきたもの(=テストの点数)だけをみてそれが即成果の総体だと判断するのも、(もちろん、それも重要だが)どこか矮小的にすぎる。子どもたちが大人になって、「ああ、そういえばあのとき担任の先生や、ボランティアの人に教わったなぁ」という記憶と共に、知識が剥落していないことを実感してはじめて、当時の教育の成果を評価する一指標にできるだろう。
 それゆえに今「知っている・覚えている」ことよりも「楽しい」と思っていることのほうがある意味では重要であり、そのような感想を生徒達から貰えたことは、ボランティア活動が(その後の)自主的な学習への可能性になりえたという意味で、こちらも喜べるのである。
 子どもたちに働きかけてきた自分に関していえば、子どもたちに教えることを通して、「ああ、あのとき教わったことは、実はこういうことだったのか」と多くを学び直すことにつながった。特に、すっかり数字や記号の機械的操作として扱いなれてしまった計算を、より具体的なイメージをもつ問題として捉え直すに至った。
 例えば、以下の問題。解かせるのに苦労した問題である。

「問題:和が82、差が6になる二つの(整)数を求めなさい。」

模範回答は以下の通り。

(82-6)÷2=38
 38+6=44
          答え:38と44

これは、代数(x,y)を入れて教えることは小学四年生にはできないのが難しい。○や△でもダメであった。有効な方法として、帯(棒グラフのようなもの)を提示しながら、以下の要領で教えるというのがある。

 ①[ある同じ数](帯で図示)
 ②[[ある同じ数]より6大きい数](同じように、①より「+6」長い帯として図示)

 ①+②=82
 82-6=76(帯の長さをそろえる)
 76÷2=38(二本の同じ長さの帯一本あたりの長さ=①[ある同じ数])
 ①+6=44(=②[[ある同じ数]より6大きい数])

計算自体は、実は代数を入れたときと基本的に変わらない。

    x+y=82
 -) x-y=6
 ―――――――
    2y=82-6(76)
       y=76÷2
      =38

     x=38+6
     =44

       答:38と44

要するに、「直観的に考える」ということを以上の問題は教えてくれる。記号(x,y)を代入して計算する操作が指し示している具体的意味を、自分はこの問題を通して学び直した。

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「ゆとり教育」見直しが、規範意識や「態度」とセットで説かれるわけ

 「ゆとり教育」を批判する人の多くは、学校で何を教え、またどのように学ぶべきかという内容の問題にほとんど関心を持たない(あるとすれば、歴史=国史あたりか)。せいぜい、「量が減った」「今の若い者はそんなことも知らないのか」的な些末な指摘でしかない。
 主に、〈彼ら〉が説くのは「勉強に向かう態度が重要」だという、素朴で態度主義的・規範的な主張である。これは以前のエントリー(注1)でも触れたことだが、「知育が重要」と言いながら、実際のところ、その中身は「知育に向かう態度」の重要性を青少年に説くという論議―かつては「知育偏重」論と結びついていた、ステレオ化された「徳育重視」の叫び―は、これまで幾度となくなされてきた。そして、「態度」の強調は、秩序・厳粛性の維持を重視する管理主義とも親和的になっていく…。


 〈「ゆとり教育」批判-「基礎学力重視」-態度主義-管理主義〉を志向(思考)する人たちにとって、毎日新聞社説(注2)が言うように「学力」の中身を問題にすることは、あまり意味がない。なぜ〈彼ら〉はそのような思考に至らないか。
 私は以前、大学院の先輩(教育史研究者ではない)から次のような助言を頂いたことがある。学校儀式などの教科外活動や修身教育で子どもを徳目に直接染め付ける前に、「教科教育」という場において間接的にその下地を作っておく(いわば媒染としての教科教育)という、「二段構えの計算式」で戦前の道徳教育を読む方法があるのではないか、と(注3)
 その場合の「教科教育」とは、「知識蓄積型」(注4)の人間を作ることを目的としている。「知識蓄積型」の「教科教育」は、例えば「英単語のスペルを勉強していれば、単語を綴る力のほかに、記憶力や注意力といった一般的能力もが形成され、その能力は他のあらゆる場面でも使用可能となる」といった形式陶冶論のもとに、知識(情報)の付加や反復練習を強制する。そこでは、知識は、探究の手段として使われることのない、それ自体「蓄積」すべき単一の刺激体でしかない。だから、その知識を未知の社会変化の場面において「機能」させるといった発想には至らない(この点で、「知識蓄積型」の教育形態は、変化のない静的な社会形態を志向していることになる)。このように「知識の記録が探求の結果であり、さらに進んだ探求の手段であるという位置とは関係なく、知識の記録そのものが知識“である”」(注5)という知識観に基づいて「教科教育」を受けるとき、我々は他人の言説に安易に染めつけられる人間となる。


 この先輩の助言から、なぜ〈彼ら〉は「学力」の中身を問題としないか、その理由をよく理解することができる。自覚しているか否かは別として、〈彼ら〉がいかなる社会形態や人間類型を望んでいるのか。そのことを、「ゆとり教育」見直しにはじまる一連の教育論議はよく物語っている。


(注1)「『ゆとり教育』批判の真意がみえた」、1月12日。
(注2)社説「教育再生会議 目指す『学力』とは何かを示せ」『毎日新聞』、1月20日。
(注3)http://ci.nii.ac.jp/naid/40007031460/ 
(注4)「知識蓄積型」と対極的なのが「知識機能型」の人間類型となる。
(注5)J.デューイ『民主主義と教育』上(松野安男訳)、岩波文庫、295頁。

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「ゆとり教育」批判の真意がみえた

 月曜日に行われた仙台市の成人式で、市長殿が何かおっしゃったご様子。
新聞が伝えるところによると、その内容は以下のとおりである。

「「ゆとり教育の犠牲者」 成人式で“梅原節”」『河北新報』、1月9日。

 「皆さんは、ゆとり教育の犠牲者」。8日開かれた仙台市主催の成人式で、梅原克彦市長は自身の教育観を交えた強烈なメッセージで、新成人の門出を激励した。
 会場の市体育館(太白区)には、約5200人が足を運んだ。祝辞に立った梅原市長は「言いたいことはたくさんあるが、市長として一つ二つ伝えたい」と切り出した。
 日ごろ、ゆとり教育を率直に批判している市長。新成人をその「犠牲者」と表現し、「でも、人生は長い。たまにはテレビのスイッチを切って、書に親しんでほしい」と助言した。
 得意の国内外の情勢分析も披露し、「試練の時にある。いちいち例を挙げるまでもないが、社会の有り様は危機的状況だ。解決できない問題もあるが、新成人とともに、市民の幸せのために頑張りたい」と強調した。
 会場では、「梅原節」に聞き入る新成人もいれば、友人とのおしゃべりや携帯メールに夢中な人も。市長は諭すように「21世紀は、若者の努力や志が求められる時代。日本の底力が試されていることを自覚してほしい」と呼び掛けた。

「ゆとり教育」→「学力低下」(?)→「新成人は犠牲者」という思考を、上記文章から読みとることができる。「たまにはテレビのスイッチを切って、書に親しんでほしい」といっている市長自身が、テレビなどを通して流される「教育不信」のステレオ・タイプにまともに影響を受けているという皮肉な事態である。
 改めて言うまでもないことだが、「ゆとり教育」を批判する以上、
①「ゆとり教育」とは、具体的にいかなる事態を指しているのか。また、その「犠牲」とはいかなる事態か。
②「学力低下」の事実はあるのか。
③両者の間に因果関係はあるのか。
といった具合に、一つ一つの問題について慎重な検討を行わなくてはならない。そして、この問題に対し、研究者の間で一致した見解は得られておらず、教育学者となると、以上のような単純な見解はみない(※)

 市長の挨拶から顕著に読みとれるのは、学校で何を教えるか・学ぶかは実はどうでもよく、大人の指示に従う従順な態度が重要だ、というきわめて素朴な態度主義への思惑である。「テレビを消して本を読め」という若者の学習態度の改善を促すメッセージがそれをよく表している(1月9日の会見から読みとれるように、市長が問題にしているのは一部若者の「態度」のほうであるといえよう。でも、それは「ゆとり教育」のせいなのか?)。
 この「知育が重要」と言いながら、その実「知育に向かう態度」の重要性を説くという教育論は、かつては「知育偏重」論―大雑把にいえば、青少年の規範意識の低下は知識教育に偏ってきたからだ、これに代わってこれからは「徳育重視」が必要だ、という趣旨のもの。しかし、「偏重」といわれるほど本当に知育が重視されてきたのかどうかは疑問―と結びついており、歴史的に根が深い問題傾向である。現在は「知育偏重」から「知育軽視」に関心が移ったようだが、根本にある問題意識(「愛国心の涵養」などの徳育重視への思惑)は変わっていないようである。
 また、従順な「態度」は秩序・厳粛性を保つ管理体制―その一例としての儀式、日の丸・君が代問題がよい例―とセットで説かれることが多いが、市長が公式的な行事としての成人式にこだわる(「梅原・仙台市長:成人式の秩序と厳粛性が向上/宮城」『毎日新聞』、1月10日朝刊)のも、そのように理解すると納得がいく。だが、秩序・厳粛性を保つために新成人・若者を「犠牲者」などと評価し、彼らを低く位置づけることで式の権威性や秩序の正当性を引き出そうとするのであれば、いただけない。


(※)
 ①について。「円周率はおよそ3」を例にとると、表面的な文字に踊らされて、どのような思考のプロセスを通して円周率を理解させるか、といった実践の事実には眼を向けない短絡的な批判は避けたほうがよい。実際、子どもたちに教えてみればわかると思うが、「円周率は3.14」と“覚えさせる”ことはできても、「円周率は3.14」と“理解させる”ことは困難を伴うはずである。そして、“覚えさせてはいけない”とはどこの誰も言っていないはずである。
 ②について。よく国際的な学力テストであるPISAやTIMSSでの日本の順位低下が指摘されるが、これをめぐる評価については以前のエントリ(「『ゆとり教育』見直し、そのビジョンは」、2005年4月8日)を参照。点数が上がったか下がったで一喜一憂するような安易な評価は避けたほうがよい。それより、テストの結果を通して、今後どのような展望の下に知識教育を展開していく必要があるのかを考えたほうがよい(何が学ばれていなかったのかの検証、そしてどのような知識をどのような方法で教えていく必要があるのかの構想)。
 なお、管見の限り、問題となっているのは「学力低下」ではなく、「学力の二極化」と言われる事態である。

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学校現場で「直観」を学ぶ

 学校ボランティアを通して、今年はいくつかの授業に自らも参加することができた。
これは、かつて子どもであった「自分」が、今度は大人の立場で、もう一度基礎的な学習・思考のすじみちを追体験する機会を得たことを意味する。
 その大人の「自分」からみて、最も刺激的であった算数の授業例を紹介する。

   ◆    ◆

「小学三年生算数-大きな数のしくみ」

その授業概要は、正方形、長方形を使い、視覚的なイメージを通して、大きな数を理解する、というものである。
 授業には、方眼紙を使う。教師はB5サイズの方眼紙を用意し、子どもたち一人一人に配る。
 この方眼紙を使い、目に見えるかたちで数字を理解する(視覚的処理を通して、抽象的な概念を理解する=直観)のが授業のねらいである。
 方眼紙には、1平方ミリメートルのマス=正方形がいくつも並んでいる。
この一辺が1㎜の正方形([1mm×1mm])を数字の[1]とするとき、

①[10]は[1]が縦に[10]繋がった長方形[1㎜×10㎜(1㎝)]
②[100]は[10]が横に[10]繋がった正方形[10㎜(1㎝)×10㎜]
③[1000]は[100]が縦に[10]繋がった長方形[10㎜×100㎜(10㎝)]
④[10000]は[1000]が横に[10]繋がった正方形[100mm(10㎝)×100㎜]
⑤[100000]は[10000]が縦に[10]繋がった長方形[100㎜×1000㎜(1m)]
⑥[1000000]は[100000]が横に[10]繋がった正方形[1000mm(1m)×1000㎜]
⑦[10000000]は[1000000]が縦に[10]繋がった長方形[1000mm×10000mm(10m)]

といった順に、教師は子どもたちに「次はどうなるか」と問いを発しながら、方眼紙に書かせていく(⑤以降は書けないので、教師が別途用意しておく。⑦は出来たらスゴイけど、あえてそこまでする必要はない。子どもたちは、そこまでくれば自らの頭の中にその映像を作り上げ、イメージ処理できる)。
 このようにして、視覚的なイメージの処理を通して、数の大きさを子どもたちは知ることとなる。
子どもたちは、小さな数から大きな数への視覚的な理解を通して、世界が広がってゆくイメージを感じ取っていた。しかもちゃんと、図形の面積にもなっている点がいい。

 この数の視覚的理解のすばらしさは、二桁以上の数の計算を考える上でも活用できる点にある(むしろ、正確な教育段階としては、二桁の計算でこの視覚的理解を行った後で、上の大きな数の理解に進む)。
 例えば、23+18=311と書いてしまう子どもがいたとする。
 あなたが教師だとして、子どもが納得できるようにするためには、どう教えるか。

 数学教育研究会が編み出した有名かつ有効な方法によるなら、十の位は、「本」(正方形のタイルを縦に10枚並べたまとまり。上の授業例につなげれば長方形)、一の位は「個」(正方形のタイル1枚、上の例につなげれば、1平方ミリメートルのマス目)と教える。
 そうすると、一の位からの「繰り上がり」は、「3個と8個を1本と1個にする」思考の展開ということになる。十の位は、2本たす1本で3本。それに1本と1個をたすのだから、答えは、「41」(4本と1個は、タイル41個)。ボランティア先の学校では、大きな数を学ぶ前に、やはりこれも実践していた。


 算数という教科における思考の展開を単なる数字記号の機械的操作で終わらせないための具体的方法を教えられ、大人の「自分」にとっても勉強になった。このように具体的な対象の認識を通して抽象的概念(数の構造や数式)の理解に至る過程を重視する点に、「直観」(byペスタロッチ-教採対策で終わらせない)の意味があるのだと理解した。

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「ニセ科学」の力を借りた徳目主義

視点・論点「まん延するニセ科学」
※菊池誠さん(大阪大学教授)の提言。「ニセ科学に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、合理的な思考のプロセス、それを大事にするべきなのです」という旨の指摘には激しく同意。
関連して「しゃべらなかったけど大事なこと」(『kikulog』、2006年12月20日)も。


      ●


 ウェブ上で話題になっているので、自分もリンクした。
 番組で菊池さんは、ニセ科学をしつけや道徳と短絡的に結びつけた教育言説、および授業への批判を展開した。問題の一例として、『水からの伝言』に基づいた授業実践事例への指摘がなされた。ソースはすでにウェブ上にはないようなので、自分はその授業の概要を知ることができないのだが、「言葉使いをきちんとしよう」という徳目への自覚を促す(昔ながらの)徳目主義授業の一例だろうと推測する。


 徳目主義は、徳目(学習目標)として設定された(特定の価値的観点から抽象した)言葉や概念について、
①ある特定の事象・事態を提示し(例、水の結晶の出来具合)、
②それを特定の仕方で解釈し、児童生徒に指し示すことで意味を付与する(例、言葉の善し悪しが水の結晶の出来具合に影響する)
事態を指す。その際、その事態をより詳細に把握する作業や、その事態以外の状況と徳目との関連などについては考慮がなされないという特徴がある。あくまで徳目として設定された言葉や概念を、特定の事態の特定の解釈方法から出発して児童生徒に指し示すという事態が徳目主義である(と自分は捉えている)。このような授業では、子どもの思考は思弁的、観念的になりやすい。それだけでなく、ある事象・事態を恣意的に解釈するため、事実との間に齟齬を来す。道徳に科学的根拠を求めれば、当然、その非科学性が批判される。


 『水からの伝言』授業をめぐって展開されている諸々の批判は、道徳の根拠を自然科学、それも「ニセ科学」に求める思考停止への批判といえるが、さらに(上述の推測を前提にすると)、結論ありきの徳目主義に陥っている点を、問題としてあげることができる。「ニセ科学の力を借りた徳目主義」である。
 徳目主義の授業は、子どもにとって、結論が予測できるためつまらない。だから、授業の効果は薄い。が、ともすると、「ニセ科学」による脚色は、子どもの興味を少なからず惹きつけ、非合理的な思考へと向かわせる危険性が想定される。それだけに、『水からの伝言』授業を「授業目標を達成する効果的な教育技術」などと評価するのには、問題がある。


 学校の先生の中には、道徳を個人の「心」の問題に還元し、徳目主義形式の授業を熱心に展開される「善意あふれる」方が、少なからずおられる(『水からの伝言』授業も、そんな熱心な先生方による問題の現れと自分はみている)。同形式授業の問題点を指摘しても、こちらの意図が通じない方々である。この打開方法について、自分は為す術を見つけられていないのが「悩ましい」ところである。


     ●


〈「ニセ科学」問題関連リンク〉

・ニセ科学入門
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/nisekagaku_nyumon.html
菊池誠さんによる「ニセ科学」への考察。


・疑似科学・トンデモについて知るためのリンク集
http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/link.html


・水からの伝言を信じないでください
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/

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教育変動期をどう生き抜くのか

 寺脇研さんの講演会が研究科主催で開かれ、参加してきた。寺脇さんは、先月文部科学省を退職され(「『ゆとり教育』の旗振り役 寺脇研さん、文科省を辞職へ」『asahi.com-アサヒ・ドット・コム-』、2006年10月18日)、現在はNPO 教育支援協会のチーフコーディネーターを務めている。退官の背景については、寺脇研「さらば文科省」(『Yahoo!みんなの政治 政事記事読みくらべ』、2006年11月20日)などを参照されたい。


 行政改革が引き起こした問題と教育再生会議の危うさ、臨教審、教育改革国民会議の裏話、高校の未履修問題、大学入試をめぐる錯覚、教育委員会制度など、講演の話題は多方面にわたった。
 「教育変動期における大学の役割」という題目と絡めて、自分が関心を持ったのは、寺脇さんが文部省に入省した1975(昭和50)年からの10年間についての話であった。 寺脇さんはこの年(75年)を「高等教育にとっての分水嶺」と位置づけ、文部省における「75―85年の迷走」の時期だと捉える。
 当時文部省では、大学への進学率が右肩上がりに上昇を続けるとの予測を立てていた。ところが、76年にそれがはじめて横ばいとなる。85年には入学率50%に到達するであろうという省内の予測は外れることとなった(大学等進学率の推移については、『データからみる日本の教育 2005』、および『我が国の高等教育の将来像(答申)』中のこちらを参照)。これは単に所得格差などで片づけられる問題ではなく、大学以外(専門学校、専修学校、就職)に積極的に進路を求めようとする中学生や高校生の存在に注意を向ける必要があるという。
 大学側が陥っている妄信、すなわち、「大学」をつくれば(自動的に)学生は入ってくるだろうという思惑がいかにもろい幻想であるかということが、すでにこの時点において認識されつつあった点は興味深い。
 では、2007年問題も間近に控える大学「定員割れ」の時代になった今、大学側はどのような教育・経営をなすべきなのか(定員を削減しても入学者の学力水準を維持すべきなのか、定員はいじらずに教育・経営のあり方を変えていくべきなのか、それとも日本の大学・研究者は滅びの美学を考えはじめる時期なのか)。そこまでの言及はなく、尋ねてみたかったが止した。それはやはり、大学側が自主的に考えていく問題であろう(個人的には、考えるのが憂鬱な問題である。ただ、大学は入学者を選べる権限を持つのだから、定員の弾力化などさまざまな対応ができるはずなのに―「分数ができない」ならなぜ落とさないのか―、あたかも学習指導要領通りに入試する義務があるかのように初等・中等教育の現状を批判するという大学側への指摘は、たしかに妥当的なものだといえる。中教審答申「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」をもう一度読む必要がありそうだ)。


     ◆   ◆   ◆


 また今になって思い出したが、「ゆとり教育」の旗振り役としてみられることへの感想を聞いてみたかった。
 今回の講演を聴いた限り、寺脇さんの文部官僚としての教育(政策)論の根本は、「ゆとり」というより「自己責任」である。「自己責任」だからこそ、上からの画一性の押しつけはおかしいということになり、「個性」や「生きる力」や「総合的な学習」といった方向へと向かったといえる。そして、よくよく考えればあたりまえだが、それは臨教審からの新自由主義-「小さな政府」路線と一方で符合しており、大いに議論する余地のある問題である(しかし、この観点からの「ゆとり教育」批判はあまり見かけない。知識量が減っただのどうのという批判に終始しているものが多い)。そう捉えるなら、新自由主義路線に基づく「自己責任」論の、文科省的表現(教育の充実を図るという文脈での表現)が「ゆとり」であったということになる。しかし、それは実感的・非論理的で、国民には理解しにくい表現であったことは否めない。そして、本当にそれでこれからの「格差時代」を生き抜けるのかどうか、自分には不安が残る。

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時間云々ではなく、中身の濃い議論を求める

 西原博史さんや広田 照幸さん、藤田 英典さんが呼びかけ人となって、市民による緊急賛同署名を受付ています(12月13日午前10時まで)。


【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます
http://www.fleic.dyndns.org/appeal1206/appeal1206.html


署名受付ページ:
「【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名」
http://www.fleic.dyndns.org/cgi-bin/appeal1206.cgi


ものすごい勢いで、賛同者数が増えています。昨日10日(日)お昼段階では2300名程度だったのに、今日11日(月)夜には、9000名を超えています。

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やっぱり、でしたか

 『価値の社会学』、『恥の文化再考』などで知られる社会学者・作田啓一さんが、次のようなコラムを自身のブログで発表している(1922年生まれの作田さんが、現在も積極的に言論活動を展開されているその「超人」ぶりには感服する)。


「朝まで生テレ(ママ)における『いじめ』もどき」『激高老人のぶろぐ』、2006年11月26日。


 自分もあの番組をみていて、作田さんとまったく同じ感想を持った(「途中でスイッチを切った」という〈行為〉まで一緒だ。もっとも自分はほかにやらなければならない作業があったのだけど。むしろ、少しでもみてしまった時間をもったいなく感じた。番組サイドにやられたな、そこは)。「これこそがいじめだよ、皮肉だね」と。「いじめ」を議論する大人の側が「いじめ」の手本(複数の多数者がある一人も・少数者を標的として特定し、その特定人物に根拠薄弱な言いがかり・当てつけ・レッテル貼りの集中攻撃を行う)を自ら示してしまうようでは、どうしようもない。あんなのは(建設的な)議論と呼べる代物ではない。

 同番組で、教師=聖職という意見が何人かのパネリストから出されていたが、そのような教育言説は戦前からの教師像をひきずっているにすぎない。歴史を顧みたとき、教師=聖職論は、戦前、教師の国家権力への隷従を強いる一手段として利用されてきた経緯がある(例えば、大正期以降、社会主義運動、労働運動の昂揚といった体制的危機の進行過程で重視されていった「教育者精神」の強調)。だから、そのような教育に介入する国家のあり方をめぐって、保守派と日教組との激しい対立がイデオロギー問題に特化するかたちで展開されてきたのではなかったか。
 昨今の(あいかわらずの?)日教組批判=教育再生という言説は、結局のところ、教育問題ではなく歴史観・イデオロギーの問題であり、その言説は何ら教育の現実に対する説得力を持ち得てはいない。論点をすりかえずに具体的に議論する筋道をつくってもらいたい。

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いじめ・自殺問題に関するメモ

■1985年9月――福島県いわき市での中学生いじめ自殺事件
おそらく、「いじめ自殺」の例としては早期の例である(*)。
この当時の教育を取り巻く政策動向といえば、中曽根内閣-臨時教育審議会(1984年)があった。
法務省なども、いじめ問題について積極的に取り組むよう各法務局、地方法務局長に通達を出している(1985年3月)。 
事件は、このように教育改善への取り組みがなされはじめたときに起きた。


■2006年10月――福岡県筑前町での中学生いじめ自殺事件
教育を取り巻く現在の状況はといえば、安倍内閣-教育再生会議という体制が組織されている。
事件が起こったのは、会議発足直後のことだ。そして、現在教育について特集したテレビ番組が各局で放送されるなど、教育論議が高まっている。

 まるで、政府の教育政策を通して教育への世間の注目が高まることにより(あるいは高めるために)、それら事件があぶり出されてきたかのようである。さらに掘り下げていけば、何かしら共通の問題構造が見えてくるのではないか。
 現実として問題なのは、事件はすでに起こってしまっているということであり、その逆ではないということである。そのような中で、とにかく教育の現状を憂うという世論がいっそう喚起されていくわけだが、大人たちによる感情的・規範的な議論で、問題が解決することはないだろう。歴史がそれを示している。そして、子どもたちもまたそれをよく知っているがためにいっそう懐疑的になり、自殺予告などを通して、せめてもの悲痛な叫びを世間に発信しているのではないか。
 いじめが、同質・同等、形式的平等の原則を過度に重視し、強迫的な忠誠・同調競争を誘導する学校秩序や社会構造に起因するものであり、それゆえに簡単に解決するものではない(「所与の」社会秩序のもとで、自分はいじめられてもしょうがないと不当ないじめを自分で正当化してしまう)ことを子どもたちは肉体的に実感しているはずである。

(*)ただし、このことは、この事件以前に少年のいじめ自殺という現象がなかったことを意味するのではない。「いじめ」という概念自体が1980年代頃に登場した新しいものであるため、その概念を適用するかたちで自殺が捉えられた早期の例ということである。少年の自殺は、それ以前から問題視されていた。警察庁が発表した『少年の自殺白書』(昭和52年度)によれば、当該年度の自殺少年784件、高校生242人、中学生103人などが指摘されている。その原因が何なのかはまだ確認していないが、「いじめ」によるものも含まれていると推測される。

        ■   ■

 「いじめを根絶する」。立派な信念である。当然、異論はない。ただ、この問題はそう簡単に解決できるものではない。福岡のいじめ自殺事件における担任教師の「加担」がそれをよく示している。担任教師にはおそらく、自身の言動が「いじめへの加担」につながっているといった認識などなかったのだろう。
 
 「いじめの根絶」の問題を考えていくうえで、私が出発点とする認識は「いじめをなくすことはできない」という逆説的なものである。そう認識しておくからこそ、「何がいじめ(の要因)になってしまうのか」と自らの言動が加害に転じる危険性について不断にチェックし、「いじめが起きた(起こした)ときにどうするか」という、問題に備える習慣を(自分のなかで)整えることができる。「自分がいじめをするなど絶対にありえない」「いじめとは無縁の立派な大人」などと思っていると、そのチェック機能は働かなくなる。
 いじめに関するマスコミの報道に接してそのたびに違和感を感じるのは、おそらく「教師・学校への非難」だけに特化して、自らを「いじめとは無縁の正義の世界」に置いている彼らの傲慢な姿勢に起因すると考える(だから、自分自身も、この種の問題についてはあまり大きな声で「正論」を発したくないというのが、正直なところである)。


 いじめが起きないための対策を講じることは必要だろう。
 だが、それは教師が生徒に「いじめはいけない」という空虚な言辞を送るといった、個人の心理的側面に訴える徳目主義的なものでも、大人がたえず子どもの一挙手一投足に眼を光らせ、秩序に服従させる管理主義でもないはずだ。教師や保護者の管理体制がしっかりしていれば子どものいじめはなくなるというのは、大人の思いあがりでしかない(当事者であるはずの「子どもが登場しない」、大人主導のいじめ問題解決の議論というのも、滑稽な構図である)。いじめが起きない無菌空間がありうるなどと考えられるだろうか。仮にあるとして、そのような無菌空間のなかで、子どもは人間として成長していくことができるのだろうか。いじめを臭わせる事件が起きたときに、大人の価値観で一方的に取り締まるのではなく、それを子どもたち自身の手に返し、子どもたち自身による解決を支援するような方法はないのだろうか。子どもの心理ではなく、いじめ(暴力・迫害)の社会的意味に注目し、そこから問題を民主的・平和的に解決するための手だてを大人たちは考え、自ら実行してきたのだろうか。

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近視眼な敵探し

 教育基本法改正論議に触れるたびに腹立たしいのは、自ら行ってきた教育改革政策の自己点検も総括もせずに、現行教育が抱える問題を教育基本法自体あるいは日教組のせいにするそのやり口である。今まで教育基本法を見向きもしていなかったくせに、まるで使い古したかのように棄てるときはあっさりと棄てる。
 改正が叶ったのちも、「彼ら」は亡霊に取り憑かれ、問題が打開されない要因をそれら自らが作り上げた「外敵」のせいにしていくのだろうか(喩えるなら、「天下無双」の言葉にとらわれて敵との勝負にこだわり、「無敵」の境地に立てない剣士の状況といえるか)。森喜朗氏は、日教組の「壊滅」を次期参院選の争点にしているようである(「森元首相に聞く 参院選争点は『日教組壊滅できるか』」『Sankei Web』、2006年10月31日)。「壊滅」を唱えるあたりで相当程度スゴイわけだが、仮にこれを認めるとして、では「壊滅」が達成された後はどうするのだろう(それで教育の現状がよくなるとでも思っているのだろうか。間違いなく、その可能性はゼロに等しい。そのような発想は、現場の抱える問題と何ら切り結んでいない。何と単純な「国家による国家のための教育」観の発露であるか)。相変わらずどこかに「敵」を作り上げ、その蜃気楼(はたまた未確認生物か?)のせいにでもするつもりだろうか。
 そのような最近の一部教育論議にふれると、一昔流行ったオカルト番組をみる気分になる。正直言って笑える感すらあるが、所詮ネタにしかならない。

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教育「再生」の意味

 首相直属の諮問機関「教育再生会議」の設置が決まり、18日に初会合が開かれることとなったようである(1)。メンバーをみるかぎり、教育学者という肩書きの人は入っていない(2)。まあ、多数の教育学者が教育基本法改正反対を訴えている現状だし(3)、具合が悪いのだろう。

 夕方の某テレビ番組で民間委員の一人であるワタミ社長・渡辺氏が「『再生』ということは一度死んでいるのだ」として、戦後教育の「死」の原因追及にあたるという旨の発言をしていた。

 なるほど、「再生」とは、戦後教育の「死」を含意していたのか。
では、何をもって「死」と結論づけるのか知りたいところである(こういう単純な議論を聞くと、「それはお前の頭の中で死んでいるのだ」と、とっさにツッコんでしまう。戦後教育(学)の蓄積してきたものに真摯に学べるものはいくらでもあるとする立場からすれば、過度に単純化された意見である)。

 現在の教育が抱える問題点を徹底的に議論し、その原因を追及することは結構なことである。 
だが、それが価値観先行的なものとなって、「戦後教育」の「死」が「否定」と同義となり、何度もステレオ化された陳腐な叫びを、「再生」という言葉であたかも新鮮な感じで演出するだけに終わるのは避けてほしい―そう願う次第である。
 

〈注〉
(1)「教育再生会議が18日初会合…意見集約、難航か」YOMIURI ONLINE、2006年10月15日。http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20061015ur01.htm
(2)「教育再生会議の委員決まる 教育改革を検討」asahi.com、2006年10月10日。http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20061010k0000e010055000c.html
(3)「教育基本法改正案に反対の意見書 日本教育学会歴代会長」asahi.com、2006年10月10日。http://www.asahi.com/politics/update/1010/009.html
「教育研究者600人近く賛同」しんぶん赤旗、2006年10月11日。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-10-11/2006101114_02_0.html

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一学期のボランティアを終えて

 今年は「学校ボランティア」に参加している。仙台市は二学期制をとっているので先週が一学期の終業だった。
 自分が訪問している先は二つ。一つは史料閲覧で大変お世話になった小学校、もう一つは、大学院での「同級生」(といってもおじさん、というのが二人の間でのネタ)が勤務している小学校である。
 参加の背景には、お世話になった学校とさらに「お近づき」になることでより貴重な情報を絞り出そうという計算もあったりする。だが、それよりもただ素朴に現場に入ってみようかと思ったことが参加のきっかけである(自分は、あまり明確なスタンスをもって何かをはじめるというタイプではない)。カッコつけるなら、定期的に現場に足を運ぶことで何が見えてくるのか、学校の現実に接することで自分の早合点や先入観がどう修正されることになるのかを実験してみることに興味があった、ということになろうか。例えば、子どもたちの「学力低下」が恒例として叫ばれるご時世だが、そのような視点は現場が抱える問題を捉える上であまりに「表皮的」であろうという問題認識はあった。

 今の「普段の」授業風景は自分の頃と変わらない、むしろ、現在のほうが恵まれていると感じる。TT制にさらにボランティア学生が加わる三人体制で授業が展開するほどである。

 自分がみた「普段の」授業(小学三年生)でおもに展開されているのは「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積(≒貯蔵)」の一斉作業とでもいえるものである(表現が下手ですみません)。それはプリント学習の形態であっても、一斉授業であっても、(子どもが個々別々に知識を頭に入れていく点では)同じである。
 算数の授業を例にとると、まず、先生が〈教えたい知識〉について教材を用いながら問いを発し子どもが答えるという展開がなされる。その後、先生から問題が指示され、子どもたちはそれを個別に解いていく(ここでボランティアが関わっていく)、という流れで授業は進む。
 当然、そこには個人差が出てくる。どんどん次の問題に進む子もいれば、一つ目の問題に手こずる子も出てくる。さっきまで先生が教えていたのに、直後のテストになるとそれが見事に反映されていない現象を目の当たりにできる(いったい何が、何ゆえに学ばれなかったのか、改めて確認してみたい問題である。この前は「直角三角形」という概念が学ばれていなかった)。
 だが、子ども一人一人の認識・思考―誤答がどのような思考によるものか―について即座に判断し、的確に子どもにアドバイスすることはボランティア学生には至難の業であった。しかも、そのアドバイスも個別になされるしかない(担任の先生との事前打ち合わせも、結局は「今日はこれやります」という簡単な連絡が直前に行われるだけとなってしまう。授業外でも現場の先生方は子どもの面倒で忙しい)。
 これは、(自分のころにはなかった)パソコンを使った「総合」の授業でも基本的に変わらない。何を調べ、何を学ぶかということが、結局は個人レベルでの知識の蓄積、あるいは決められた作業の実行という次元にとどまっている。パソコンに向かうとき子どもは基本的に一人になるから、子どもの学習はますます個別的な次元に陥りやすい(何人かの子どもたちは作業を終えて、キーボードの練習をしていたり、お絵描きソフトで遊んだり)。

 そのため、各児童の個別の進み具合を漏れなく確認する作業に教師とボランティア学生は翻弄される(パソコンに不具合などが発生すると厄介である。子どもの作業成果がパーになることがある)。やがて、「落ちこぼし」が出てくるようになる――。

 半年間「普段の」授業に接する経験を振り返り、「学び(の共同体)」論などが流行る理由がわかるというのは早合点だろうか。ただ、「学力低下」だといって「表皮的」な部分で学校を批判しても、それが「〈所与のものとしての〉知識の個人的蓄積」という授業形態、あるいは教育内容・教材に踏み込んだところで議論されない限りは意味をなさない、とは自信を持っていえそうである。

―こんなこと、活動報告書には書けんなぁ。

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教基法「改正」継続審議を前に(リンク)

  とりあえず、リンクだけ。「教育の秋」、要チェックです。

・日本教育学会歴代会長
「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」に対する
教育学研究者賛同署名のお願い
※賛同署名の第一次集約日は10月9日。

教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望

教育基本法「改正」情報センター

教育基本法改正問題関連文献一覧(PDF)

教育基本法資料室-文部科学省

教育基本法Q&A

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常識的判決と倒錯の時代

 入学式や卒業式における日の丸・君が代への起立・斉唱の義務を否定し、違反者の処分を違憲・違法とする東京地裁判決(9月21日)は、時期が時期だけにやはり注目されるものである。判決をうけて尾木直樹氏は「常識的で妥当な判決」とコメントし(『朝日新聞』2006年9月22日、34面)、藤田英典氏は、「強制と処分は憲法と教育基本法に定められた教職の専門性と自立性、教育の独立性を揺るがす」と指摘した(同上)。

 まったくその通りだと思うのだが、現実に起こっているのは、その判決とは異なる転倒した事態―日の丸・君が代の強制―である。「『逆さ』の世界」という、丸山眞男がチャップリンの映画(『独裁者』など)に読みとったメッセージが浮かぶ。原告側から発せられた「意外」「夢のよう」というコメントからは、自らの思想・信念(常識)にしたがって行動した人間がいかに「逆さ」のイメージによって侵蝕されつつあったかという、その危機の深さを窺い知ることができる。

 判決に対し石原東京都知事は、裁判官は現場を見ていない、規律ある統一的な行動によらないと学校の荒廃は改善されない、といった旨のコメントを記者会見でしていた(『朝日新聞』、9月23日、38面)が、これには首をかしげざるを得ない。そもそも現場を知らない・見ていないということから、正しい判断ができないという結論を論理的に導くことはできない。また、学校の荒廃が事実だとして、なぜ日の丸・君が代の強制になるのかがよくわからない(むしろ、強制によって荒廃に拍車がかかっている可能性さえ想定される)。何でもかんでも愛国心の欠如や戦後教育悪玉論→特定理想の(スパルタ)教育像に短絡的に帰結させる思考では、かえって問題の原因と対処を見誤る可能性が高い。

 ところが、現状がこの倒錯に向かって突き進んでいることを考えると、ナショナリズムによる煽動について厳しく、注意深く見極めていく〈眼〉を確立しておかねばと痛感する。この種の問題は、むしろ「気づかぬうちに忍びよるもの」と想定するから。

●東京地裁判決要旨(PDF) @「日の丸・君が代による人権侵害」市民オンブズパーソン

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「教科書を教える」と「教科書で教える」(その1)

 ココログの大規模なメンテナンスがようやく終了し、投稿が可能になった。

 さて、月曜日は、日本教育史の前期最後の演習に参加。ただ一人(正規の受講者でないにもかかわらず)出席率100%を達成してしまった。午前中の授業でこれを達成できたのも、「純情きらり」のおかげである。

 それは置いといて、授業のなかで「教科書を教える」と「教科書で教える」の文言が登場したことを受け、この問題について少しだけ考えてみた。

 教育の世界では、上の二つの言葉がよく対で用いられる。
「教科書を教える」授業ではだめで、「教科書で教える」授業へと進まなければならないという、ご存じの文脈である。授業のあり方をめぐる決まり文句として、かなり定着しているといえる。
 しかし、この二つの言葉の意味内容を問うとき、両者を明確に区別している人はどれほどいるだろうか。眼前の授業をみて、これは「教科書を教える」授業であり、「教科書で教える」授業ではないなどと明言できる人はいるのだろうか。
 「教科書で教える」―教科書で「何を」教えるのか。そのように問うとき、二つの言葉の境界線は不明確になる。「教科書で〈教科書に書かれている内容を〉教える」のであれば、それは「教科書を教える」授業と意味的に何ら変わらないと考えるからである。教科書をどう使うことで両者は明確に区別できるのだろうか。
 そんなことを授業で発言した。

  *  *  *  *  *

 「教科書を使った授業」の類型化を行った研究として、河南一氏のすぐれた研究がある。これを読んだときは、「眼から鱗」がぼろぼろ落ちた(熊本大学教育学部社会科教育方法研究室編『教科書を使った社会科授業づくり―その理論と方法』研究室紀要第1号、1994年、第一章、第二章を参照)。授業の類型化を通して、河南さんは「教科書を教える授業」と「教科書で教える授業」の意味内容を整理するとともに、教科書には、教材となる事象の説明に関して重大な誤謬が含まれている場合があることを実証している(そこがスゴイ)。
 河南さんが示した授業類型は、以下の四つである。

類型Ⅰ―教科書に掲載された資料を教材として使用し、しかも教科書に記述された内容(執筆者の解釈)を教育内容とする授業
類型Ⅱ―教科書を教材と教育内容の両側面で使用しないものであり、授業者が開発した独自の教材を使って、その検討を通して得られた独自の解釈を教育内容とする授業
類型Ⅲ―教師自身によって開発された独自の教材が使用されるが、教育内容の点では、教科書に記述されている解釈に依拠する授業
類型Ⅳ―教科書に掲載された資料・記述が教材として使用されるが、教育内容としては独自の解釈が設定される授業

 教科書には、教材と教育内容という二つのレベルの内容が記述されている。教材とは、一時間の授業で子どもに提示する内容のことを指し、教育内容とは、それを通して子どもに伝達したい内容(教科書執筆者の解釈)を意味する。(氏が研究対象とした社会科の)教科書には、この教材と教育内容の両者が記載されている(教科書が一定の授業展開を想定した形で執筆されている)ため、授業で教科書を使うと、「教科書を教える授業」(類型Ⅰ)に陥りやすいということになる。教材部分が教育内容と授業展開を前提としてその観点からのみ読まれること、「教育内容部分を中心とした読み方」になりやすいからである。
 公開研究授業などでは「教科書が消える授業」が展開されるが、しかし、それは教材部分を入れ替えながら(例えば、「地域素材の教材化」といったかたち)、所定の教育内容(教科書に記述されている解釈)を教えるという様相を呈している(類型Ⅲ)。この「事例入れ替え方式の授業」が「教科書で教える授業」であるかのように、これまでは捉えられてきたのではないか。
 本来注視すべきは、現実に厳然と存在する「教科書が消えない授業」である。では、教科書をどのように使うと「教科書を教える」から抜け出せるのか(→「教科書で教える授業」―類型Ⅳの模索)。それは、社会科においては教科書に掲載されたグラフや図表を用いて、「教育内容に直結する一つの読み方」(教科書執筆者が想定・期待する読み方)にとらわれない、多面的な検討をすることで達成されるのでははないか。実際、それら資料を自由に読みとると、そこには、教科書に記述されていない問題や記述と矛盾するような「不思議な疑問」が登場する――
 自分なりに、河南さんの問題提起を要約するとこんな感じだろうか。

  *  *  *  *  *

 ここで、教育史らしく、じゃあ、「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる主張は、いつ頃から、どんな文脈で展開されてきたのか、という方向へと自分のなかでは問題が向かっていくのだけど、長くなったので、つづきは(その2)で。

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正午=?

以下の問いに答えよ。
〔問〕 午前11時59分の1分後の時刻として正しいものを、以下の三つから選びなさい。
 (ア)午前12時
 (イ)午後12時
 (ウ)午後0時

 現在「学校ボランティア」で、とある小学校(史料閲覧でお世話になった学校)の3年生の各クラスにお邪魔している。
 算数と「総合(的学習の時間)」の「学習補助」を行うのが自分の役目であり、子どもたちが先生の指示どおりについてきているかを確認し、丸付けをしたり、答えが書けていない子どもたちにヒントを提示して、応援したりしている。

 冒頭に掲げた問題は、先日の算数の「学習補助」のときに自分が思わず迷ってしまった問題を、設問のかたちにしたものである。
 その日の単元は〈時刻の読み方〉。アナログ時計の表示の上に時刻を書きなさい、と先生が指示し、先生と自分が二人で子どもたちの作業を見守る。そのとき「正午」のところで、問題にぶち当たった。「午前12時」と書いた子ども、「午後12時」と書いた子ども、「午後0時」と書いた子どもがそれぞれいたからである。これはどれも「間違い」ではない。
 「午前12時」という答えがもっとも一般的かもしれない。しかし、「午後12時」が間違いだとは言えない。その証拠に、デジタル表示の時計(ビデオデッキなど)を確認すると、「午前11時59分」の一分後の表示は、「午後12時」となる。また、「午後11時59分」の一分後の表示は、「午前12時」である。さらに、テレビの時刻表示は「0:00」。したがって「午後0時」としても何ら問題ではない。

 今の子どもたちの日常を考えると、むしろ(イ)(ウ)のほうに慣れ親しんでいる可能性も高い。ちなみに、研究室の院生たちにも同じ質問をしたら、見事に上記の三つの答えが返ってきた。
 この問題、ネットで調べると、やはり話題となっている(「午前12時 午後12時」でGoogle検索)。詳細はそちらを参照されたい。英語圏では、“12:00 p.m.”はお昼の12時を指すなど、いろいろ情報を得ることができる。
 問題は、授業の場で教えるときにどうするかということである。担任の先生は、「1日=24時間」ということを理解させるのが主眼であるといった。となると、やはり

            正午
 午前0時 ~ 午前12時
         =午後0時 ~ 午後12時(=午前0時)

  12(時間)+12(時間)=24(時間)

というかたちで、とりあえずは教えたほうがよいのではないか。
午前0時というのは(およそ0-ゼロという数字に)、小3の子どもたちには実感がないかもしれないが。
 これについては、改めて先生に聞いてみようと思う。
 また、指導書(教師用書?)などがどうなっているのかも確認し、追って報告する。

【追記 6月13日】
◇正午=午後0時らしい
 本日、学校に行って(教師用)指導書をみせてもらった。
この教科書で教える場合、午前12時は使わず、午後0時で教える旨のことが書かれている。
午前12時の次が午後1時だと、12⇒1という数字の移行になり、子どもたちにはわかりづらい、それなら0⇒1のほうがよいだろうという見解である(たしか)。
しかし、これに対して、担任の先生と自分の見解は、慣例からずれているのでかえって子どもたちにはややこしくはならないか、ということで一致してしまった。
 子どもに知識を教えるということの難しさを実感する。

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「心の教育」についてのメモ

 本日の日本教育史の講義は、(教育史だけど)「心の教育」(道徳教育)がテーマであった(この授業、受講者・聴講者の6人中4人=3分の2が教授学習の人間で占められている。人数が少ない上に、肝心の人間形成論からの受講者が、お馴染みの顔ぶれ二人を除いて全くいない。それってどうなのよ)。
 自分の関心に重なるテーマでもあったので、授業中いろいろ発言したが、さらに書き留めて自分の思考を整理をしておこうと思う。

■「心の教育」は、種々の問題を子どもの内面に閉じこめる。「自己責任」への還元として「心」の問題が安易に捉えられてしまう。種々の問題を個々人の心理状態、精神病理の問題へと収斂させてしまうことは、教育を社会問題のゴミ捨て場にするような思考、あるいは教育万能主義と結びつく可能性をもつ点でも問題である。

■子どもが起こす一切の事件を、大人の管理によって調整できると思う教育万能主義によって、教育論議はますます管理主義・厳罰主義へと向かう。だがおそらく問題解決には至らない。それどころか、子どもたちの行為を日常的に監視するというシステムの徹底化をとめどく進行させてしまいかねない。施策の自己評価という視点はかき消され、たえず子どもが誹謗・中傷の対象とされる。

■「心の教育」では、目標達成・問題解決のための具体的な方法というものが示されない。ただ心がけと立派な目標(義務感)だけが示される。子どもを、「むねをはって」「ニコニコ」といった画一的な態度や、既存の秩序への従順さ(「この学校が好き」)へと誘導するだけである。

■学力だけでなく、「心」の忠誠の面でも子どもたちは競争を強いられる。そのような息苦しい「学校適応過剰」の状態の中で、子どもたちは学校適応不足という強迫観念に駆られ、やがてその苦悩をいじめ・暴力というかたちで表現するようになっていく。

■内面的感情や態度に訴える心情主義的道徳教育をどう乗り越えるか、我々はそこでもっと「格闘する必要がある」。人生いかに生きるべきかという問題が、社会(科学的)認識や思考の方法と切り離せないかたちで展開する道徳教育のあり方を模索する必要がある。例えば、『心のノート』を子どもの(『ノート』のアドバイス通りにはいかない切実な)現実と照らし合わせて、批判的に読み解くという方法があり得る。

■もちろん、国家権力が個人の内面に干渉すること(インドクトリネーション、価値の押しつけ)は問題で、教師が自主裁量のもとで同様の事を行うのは良いというのではない。具体的な社会的事実を豊富に認識させることが保証され、子どもの自由な価値判断の機会が確保されているか否かがポイントである。そのために子どもの生活経験に密接に関わる必要がある。だから、道徳教育は「心」だけを独立して扱うことは難しい。

…どうも飛躍があるが、疲れたのでこれくらいにしておこう(今月の忙しさと来たら…)。
それにしても、『心のノート』に関しては、いつの間にか予算が下りていて、すんなり現場に下ろされてしまった感が否めない(さらにはその存在感すら薄かったわけだが)。この経緯(なぜそうすんなり配布にまで至ってしまったのか)については、もう少し詳細にみていく必要がある。

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あの頃と変わらない

 居合の稽古後、すだ公民館長宅で二人で飲む。懐かしさを感じる宅飲みであり、もう大人だからと言いつつも、結局へべれけになるまで飲んでしまうあたりは、「あの頃」と変わらない。
 話のネタは居合(もうすぐ大会がある)から、教育基本法「改正」問題と幅広かった。
そして、まだ酔いも醒めぬまま眼にした今朝の朝刊の一面は、ご存じの通りである――。

   ■  ■

 すだっちによれば、学校現場では教基法改定の問題はそれほど強い問題意識をもって受けとられていないという。たしかに現場の日常において重要な問題は、子どもの学習到達度(「学力」)や教育内容をめぐる具体的な議論であり、教基法の理念を常に念頭において日々の実践を展開している教員はほとんどいないだろう。毎日の授業、生活指導に追われ、教基法まで気が回らないというのが現場の状況なのかもしれない。

 とはいえ、やはりこの「改正」論議には、危機感を感じざるを得ない。「国を愛する心」「国を大切にする心」(「愛国心」でも別に変わりはないと思うが)といった抽象的な徳目を法律に盛り込むことが、恣意的な解釈の下で統制の凶器として利用される可能性があるからである(すでに東京都などでは、儀式への同調というかたちで統制が具体化されている)。道徳が法や制度と同一視され、人間の内面的規範としての固有性を失い、単に外面的に順応すべき行為の枠組みと化す。そのため「たてまえ」と「ほんね」を使い分ける偽善的態度が国民を支配する。それは戦前の天皇信仰と同じ構造ではないか。

   ■  ■

 2002年に教育基本法「改正」問題を考えるシンポジウム(「教育基本法改正問題を考える―中教審『中間報告』の検討―」、2002年12月7日、於:明治大学)に参加したことがあった。
以下は、パネリストの一人であった竹内常一氏の報告(「教育の病理と教育基本法」)について自分がメモしたものの一部である。竹内氏の本や論文には個人的に刺激を受けることが多く、このときの報告も強く印象に残っている(もちろん、他のパネリストの主張も大いに刺激的だった)。

 竹内氏は、これまでの「教育改革」論議がくり返し子どもの問題行動や教育の荒廃を「改革」を必要とする理由としてきたことに疑問を呈する。すなわち、子どもの問題、教育の荒廃が問題視されたここ30年の間に、「改革」論議では子どもは一貫して批難・誹りの対象であり、彼らが何を訴えているのかを解読する作業についてはなされてこなかったことを問題視する。「教育改革」にまず求められることは、この30年間の「改革」についての自己評価を行うこと、それを怠って、教育基本法の見直しを提言するのは本末転倒であると氏は主張した。
 また竹内氏は、これまでの「教育改革」が、教育基本法の理念を一貫してすりかえてきたことを指摘した。第一条「教育の目的」条項についていえば、例えば、これまでの「教育改革」論議では「平和的な国家及び社会の形成者」は別のものにすりかえられてきたという(「平和的な国家及び社会の形成者」→「国家、社会の一員」「国家社会の構成員」→「たくましい日本人の形成」、とくに「平和的な」の部分は徹底的に切り捨てられてきた)。
 これまでの教育政策・「教育改革」は子どもの人格=個性の発達を能力主義的・国家主義的な秩序に閉ざしていくことはあっても「平和的な国家及び社会の形成者」へと開いていくものではなかった、と氏は捉える。そのため、子どもが身体症状や暴力を通じて訴えてきたことは聞き取られることがなく、また、子どもの問題を子どもに返し、子ども自身の手で解決するように支援することもなかった。つまり、「教育改革」は子どもたちに対して、「子どもの権利」を行使して、これらを解決し、民主的な公共性を立ち上げていくことを呼びかけなかったことが問題視される。子どもの問題や教育の荒廃を解決するためにいま必要とされるのは、基本法改正ではなく、子どもを「平和的な国家及び社会の形成者」に教育する「普通教育」を創造すること、この文脈のもとで子ども一人ひとりの人格=個性の発達を最大限保障する「普通教育」を創造することと氏は主張した。

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試験の秘儀性

 本日から、大学入試の二次試験。
今年も例によって、お手伝いをする。
さすがに今日は遅刻せずに済んだ(※昨年の悪夢)が、まだ明日もあるので油断できない。

 休憩時間を利用して、竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』(講談社現代新書、1991年)をよむ。
かなり前に買ったものの、積んどいたままだった。今回の「受験」(お手伝いだが)を機に、ようやく眼を通す。
 「受験」という言葉が明治30年代から(「遊学」というキーワードにかわって)頻繁に使われるようになり、その意味も入学試験としてのそれに特化していく。
そういった受験観念の誕生が正しい受験生とは何かについての物語を紡ぎ、特定の行動範型をもつ「受験生」像を呈示する。
受験生はその物語に規制され、そこに「受験的生活世界」が形成されていく――。
本書では、受験雑誌の分析を通して、その過程が(その後の変容も含めて)詳細に論じられている。
日本の入試問題が、事実についての細かな知識を問うものになっており、受験生に「預金型」学習を強いるものだった(問われるのは「記憶力」)という指摘も説得的である。
 1991年に書かれた本だが、最近巷で話題のトピック(例えば、『ドラゴン桜』とか)を先取りするような記述もうかがえる(「第六章 受験のポスト・モダン」)。別の見方をすれば、それは受験に関する問題の本質が、今日全く変わっていないことを示す証左かもしれない。
 例えば、「受験産業は教育とアカデミズムの秘密を暴く」に関する以下の記述。

「受験生にとって予備校がおもしろいのは、予備校には目標があるからとか教師が熱心だからというようなことではない。そこでは徹底的に試験が相対化され、暗号の位置におかれるからである。予備校は入試を秘儀的な儀式の位置から暗号解読ゲームに変換してしまう場だからである。試験の秘儀性が剥奪されることは、学校=教育システムの存立構造の秘密のカラクリを知ってしまうことである。それはアカデミズムの秘密-真理の探究というよりも、それ自体特有のルールにもとづいた知的ゲーム-をも知ってしまうことになる。」(179ページ)

「大学側からする入試選抜方法の改革がいつも受験産業に負けてしまうのは、予備校などの受験産業は入試を徹底した戦略ゲームと考えるのに対し、大学側は教育的意義や人間形成などの教育的言説を入試という排除ゲームに持ち込むからである。そのぶん大学側は戦略的思考ができなくなる。」(181ページ)

「受験が人間形成や努力倫理などの教育的言説や道徳的言説とセットになっているときに重い深刻劇になる。受験産業は受験からこの種の教育的言説や道徳的言説を放逐することによって軽やかなゲーム性(受験は要領)に変換したのである。」(182ページ)

試験の秘儀性の剥離を捉える氏の指摘は、読んでいて痛快であった。

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「言葉」と「体験」

 2月9日に、次期学習指導要領の基本方針に関するニュースが流れた。今度は、「言葉の力」だという(「学習指導要領、『言葉の力』柱に 全面改訂へ文科省原案」、asahi.com、2006年02月09日10時00分)

さらに、2月13日のニュースでは、中央教育審議会教育課程部会「審議経過報告」について次のように記している。

「ゆとり教育」のもとになっている今の学習指導要領に代わる次期指導要領について、結城章夫・文部科学事務次官は13日の定例記者会見で、「指導要領は『言葉』と『体験』をキーワードに、早ければ06年度中に改訂する」と述べた。文科省はこれまで全面改訂のスケジュールについて07年度末までとしてきたが、教育改革の加速を望む声が強いことを踏まえて1年前倒しした。
〈註〉「文科次官、学習指導要領で『06年度中の改訂目指す』」、asahi.com 2006年02月13日21時44分。

「言葉」「体験」
この二つの鍵概念が飛び出してきたのはおもしろい。
当然のことながら、この問題の議論においては、「言葉」と「体験」の接続関係が論点となってくる。両者が全くの並立関係で、一方で「言葉」だ「国語力」だと言い、他方で「体験的学習」だと論じるだけでは、「学力」対「ゆとり」の対立構造と何ら変わらない。

 「言葉」とそれを教える国語教育(基礎学力)の重要性について、学校現場の先生方から熱い持論を聞くことがある。国語教育が重要だということには異論はない。
 しかし、それが単なる形式的活動としての音読・暗記・書き取りを重視せよという俗論的な方法の主張に終始するだけなら異論はある。
 もちろん、身体を通した認識活動の効用(=「わざ」から知る)については理解するし、自分も武道を学ぶことを通してその意味を日々考えている。とはいえ、やはりそれは学習の一面にすぎない。

 「ゆとり教育」の対義語としてよく用いられる「詰め込み教育」(「学力重視」でも構わない)の意味を、国語教育の文脈で自分なりに解釈すれば、それは「言語主義」である。すなわち、文字や音声=「言葉」として提示される知識が、それが指し示す事物・事象の具体性を抜きにして、単なる記号として記憶されるような学習の仕方である。
 情報化が進む今日にあっては、何ら背景のない「言葉」に圧倒される事態が予想される。自分自身、その犠牲になってしまっており、その進行に歯止めがかからないことを危惧している。
 したがって、このような現状に国語教育はどう立ち向かわなければならないのかが議論される必要がある。少なくとも、教科書に書かれている文章(=「言葉」)を読んで、「どんな気持ちになりましたか?」といった個々人の主観・情緒志向を問うている限りは、問題は解決されない。国語教科書に書かれている「言葉」が指し示す具体的事象へと、視点を広げなければならない(それは「教科書に書かれている文章が、具体的事実に堪えうるものかどうか具体的事実の観察をもとに検証する」ことであり、端的にいえば「教科書を疑え」ということになる)。

 だからこそ、一つの考え方として「体験」という概念が「言葉」と対になるものとして、今回登場したのではないかと推測する(深読みだろうか)。その意味で国民に論点を投げかけているのなら「おもしろい」。

〈リンク〉
・中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会「審議経過報告」、2006(平成18)年2月13日。
[http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06021401/all.pdf](PDF)

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東北大学教育学部の受難に関するメモ

 法人化以降、大学の経営や研究体制をめぐる変化は、かなりのスピードで進行し、多くの情報が大学のHPを通じて開示されてはいるものの、その量は眼を通すのも困難なほど膨大である。
 なかでも、教育学部・研究科に関わる大きな話題といえば、教育専門職大学院(プロフェッショナル・スクール)設置へむけて議論が進められていることである。
構想の詳細については不明だが、それでも、「既存の大学院との間の差別化をどうはかるのか」、「同大学院の設置が、既存の研究科、研究コース(講座)に与える影響はあるのか(例えば、講座 の改編などのような事態が起こってくるのか)」、「専門家の育成が、既存の大学院の研究・教育体制では達成できないとすれば、それはなぜか」、「これまでの大学教育・大学院教育に関するどのような問題認識の上に、同大学院構想は成り立っているのか(もちろん、大きな理由は入学者数、定員数の確保だと思うが)」、などの問いが浮かんでくる。
 研究が、教育現場の実践を批判・修正し、新たな実践を創り出すのに寄与しているどうか。教育学には絶えずその課題がつきまとう。「教育改革」の煽りによって、教育学部はたえざる自己変革に追われるという不安定な立ち位置を余儀なくされる。しかも、大学における教員養成は教育学部だけで完結することはできず、どうしても、教科専門科目の面で他学部の協力が不可欠となってくる。

                   ◇

 東北大学教育学部の創設は、全国的にみて、特別(「ユニーク」)な事例とされる。

戦後、本県における義務教育教員養成は宮城師範学校を包摂することによって東北大学教育学部が行うことになった。東北大学教育学部の構想した教員養成方式は、旧帝国大学の学問研究と教員養成の統一を課題とし、努力目標とするものであった。しかし、それは至上命令であるCIEの「一県一大学の原則」により、〔「宮城学芸大学」としての―引用者注〕独立を強く望んでいた宮城師範学校を迎え入れる条件の整っていない東北大学に包摂せざるを得なくなったことから構想されたといえるものであった。(宮城県教育委員会『宮城県教育百年史 第三巻(昭和後期編)』ぎょうせい、1957年、974ページ)

 全国のほとんどの師範学校が、地域における専門学校、高等学校などと合併して学芸学部、教育学部になり、旧帝国大学がすでにあった大都市では独立の学芸大学となった。だが、宮城師範学校の場合は特別であった。ここだけは、東北「帝国大学」の〈なかに〉放り込まれた。
 旧帝国大学で、積極的に教員養成の方針を打ち出したこと(「細谷構想」)は、全国的に注目されたが、一方で、「学術研究」と「教員養成」の関係をめぐる問題も顕在化するようになった。
 1943(昭和18)年までは県立の中等学校にすぎなかった師範学校の包摂には、大学全体(旧制二高も含む)を通して、反対の空気が強かった。創設当初の教員養成は、前期二年を教育教養部(旧師範学校)とし、後期二年、教科専門の指導を文学部、理学部などの専門学部に委託する方式であった。この方式によって、各学部では教育学部生たちへの配慮が必要となってきた。例えば、理科系の実験、実習では、設備の点で障壁に行き当たった。そのような状況下で、教育学部生たちは、質の高い講義などに接近することができるという喜びの反面、屈辱的な差別を受けることとなったという(横須賀薫「『大学における教員養成』を考える」藤田英典・黒崎勲・片桐芳雄・佐藤学編『教育学年報9 大学改革』世織書房、2002年、211ページ)。1965(昭和40)年、東北大学は教員養成課程を分離して宮城教育大学が設置され、今日に至っている。

 「学術研究」と「教員養成」との関係が問われる場合、これまでは常に「学術研究」(教科専門科目とは名ばかりの)と何の関連ももたないかたちで「教員養成」が展開されてきたといってよい。
 プロフェッショナル・スクール構想が、この現状に、どう応えるものになるのか。研究科としての見解を、ぜひ聞いてみたい。

〈参考文献〉
東北大学教育学研究科編『東北大学教育学研究科・教育学部の歴史』東北大学教育学研究科、2004年。

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輝ける「団塊」に暗澹たる「教員大量退職時代」

 「団塊の世代」がごそっと退職することで、日本の成長を支えてきた高度な技術(職人芸といえる「わざ」)の担い手が不足する――
 この、いわゆる「2007年問題」に関するマスメディアの報道を、最近よく見かける。昨夜のテレビ朝日「報道ステーション」では警察と水道局にスポットを当てて、対策の現状=若手の育成の模様を放送していた。少し前、TBSの「News23」でも大手企業を対象に同様の問題について取材していたのをみた記憶がある。
 教育の世界もこの問題と無縁ではなく、さらに複雑な様相を呈している。
いくつかのWebサイトですでに指摘されているが(http://www.tokyo-np.co.jp/daizukai/666.htmlhttp://www.benesse.co.jp/s/ednews/050303.shtmlhttp://benesse.jp/blog/1/1/41.htmlなど)、それらによれば、
これから10数年間は、定年退職を迎える小中学校教員の数が急増する、「教員大量退職時代」に突入する。1970年代前半の第二次ベビーブーム世代の進入学に合わせて80年前後に大量に採用された教員がどんどん退職する一方、その第二次ベビーブーム世代の子どもたちが学齢期にさしかかるため、必要な教員の数はそれほど減らない、結果、教員不足に陥るという時代状況が到来する。
雇い主である都道府県は、教員の高齢化に伴い、給与や退職手当の増加に頭を痛めることになる(先に財政制度審議会から出された提言は、この問題状況にどう配慮しているのかは不明であるが http://www.sankei.co.jp/news/051020/sei071.htm)。
 人件費が増え、その削減が必要となる時代に教員不足になるという事態、逆にいえば、人手不足の時代に人件費を抑えなければならないという事態は、教育の質の向上にとってはきわめて危機的ではないか。さらにこの事態は、人材確保をめぐる地域間格差など、いろいろな問題を呼び起こす可能性がある。
また、いびつな年齢構成という現状は、教員の技量向上に影響を与えている可能性がある。
 「団塊の世代」を含む教員の7割(40代4割・50代3割)が「ベテラン」という状況の中で、教員は若い同僚から刺激を受ける機会が減る一方、技術も経験もあるのに同世代が多くて役職に就けないという、「意欲低下」をそそる構図が職場内に浮かび上がってくる。今後はその傾向がより促進される可能性もある。
 以上のような状況下で、教師の技量・専門職性といった問題を議論したところで、教師にとっては専門職ならぬ専門ショックであり、所詮屁みたいなものでしかないと思うのは自分だけだろうか。

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過去の「忘却」から「想起」へ

――「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は,またそうした危機に陥りやすいのです。」
(ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年―ヴァイツゼッカー大統領演説全文』岩波ブックレット、No.55、1986年)

                    ◇

 「ドイツの歴史・政治教育と教科書」をテーマとする連続(集中)講義を受ける。名大の近藤先生の講義である。日本の歴史教育問題と重なる部分もあり、とても興味深い内容であった。ドイツを含むヨーロッパ各国が抱えている歴史教育問題の詳細について詳しく聴くことができた。

 (講義内容から)独りよがりの自国史とその美化をめぐる問題が、必ずしも日本(と近隣諸国)だけの問題ではないことがわかる。
 ドイツ(およびその隣国、ポーランドやオーストリア)においても歴史教育をめぐってはさまざまな紆余曲折を経て、今日に至っている。ただし、問題改善をめぐる取り組みについてみると、日独の間で相当の開きがあるといえる。(戦争)被害国との対話の積み重ね歴史教科書の比較研究の実績を比較した場合に、日本はドイツから30年近くは遅れている。
 日本以上に、戦後ドイツの歴史教育問題をめぐる条件は厳しかったはずである。ドイツにおいても、「ナチスの暴力的支配」を強調することによって、広く国民に問われるはずの戦争責任を回避してきたという問題はつきまとう。加えて、冷戦とそれによって規定された思考の枠組みが、歴史教育の桎梏となり、教科書問題に大きく影響していたことは否定できない(その点は、日本も同じか)。
 しかし、そのような状況下でも、戦後ドイツはポーランドとの教科書対話を開始(1972年2月~)、共同教科書勧告を作成・蓄積してきた。
 記憶を忘却の彼方へ追いやろうという過度の抑圧的姿勢は、ドイツでは見られない。むしろ逆で、絶えず過去の歴史を「想起」しようという歴史政策に踏み切っている(この5月10日にもホロコースト記念碑が完成したばかりだ。そのような戦争と植民地支配の犠牲者を哀悼する反省的な記念碑を国内につくろうという動きは、日本ではなかなか表面化してこない)。

 そのように過去の反省的記憶をたえず想起(追想)するかたちで自己批判的に歴史を学ぶことは、過去をウザイものとして嫌悪し、記憶を忘却する=学びを拒否する姿勢よりも、はるかに困難でときにしんどいものである。被害者の視点からとなると、なおさらである(だからこそ、そこに「国際教科書対話」の意義が認められることになる)。
 そして、そのような歴史教育の達成は、決して短期間で実現するものではない(そもそも歴史教育論争は圧倒的多数の大人の間で起こっているのであって、隣国の感情的反発を煽るようなナショナリズムを超える新しい歴史観が未来の世代に浸透していくかどうかは、何十年という長いスパンで捉える必要がある)。ドイツは、そのしんどい運動を継続してきた。日本にもその萌芽はすでにあるはずである。それがいずれ見事な開花へとつながることを自分も期する。

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「授業をつくる」とは

 そんなようなタイトルの授業=講義(正式名は伏せる)が、所属講座の先生の下で行われている。対象は学部一年生、いわゆる全学教育の一科目である。事務補佐員の作業と時間帯が重なっているので、私はこの授業を盗み聞きすることができる。
 「自分がもし教師だったらこんなことを生徒に学ばせたい」という問題意識の下、受講者各自が素材を持ち寄り、それについて担当教員を含むみんなで検討する。講義の概要はそのようにまとめることができる。
 だが、この講義で学生たちは何を学んだのだろうか。少なくとも、私が遠くから眺めている限りでは、授業づくりを支える〈理論〉を学生が学んだと評価することはできない。単に井戸端会議でもしているようにしかみえなかった。学生が持ち寄った素材に対し教員が「なぜそれを学ばせるのか」と問いを発して、ああだこうだとクレームを付ける。学生は自分はこう思うからと反論する。それに対し、教員が自身のイデオロギーの吐露としかいいようのない持論を展開し、逆に反論する。そんなことが繰り返される……。
 自分からすれば、なぜ「すぐれた」授業理論がすでにいくつもあるのに、それを先に学生に提示しないのか疑問でならない(昨年の学生はこんな授業を創ったという例を出せというのではない。そうではなく、それを「すぐれた」授業と理解できる眼=理論を提示せよということ)。先にそれを提示せずに、教室から離れた抽象的な空間でいきなり授業を創れといっても作れるわけがないだろう。

 私は、先に「素材」という言葉を使った。講義ではこの「素材」をめぐって、それが「教育内容」に値するのかどうかを議論していた。「教育内容」とは授業のあり方とは無関係に(その意味で抽象的に)考えられた体系的な教授内容を意味する。一方、授業のあり方と関係する形で考えられたものは「教材」となる。つまり、「教材」とは、「どのような質の学習者に対し、どんな方法で授業するかという構想にともなって具体的に考えられた内容」を指す。ある「教育内容」が達成されるかどうかは、ひとえにこの「教材」の良し悪しにかかってくる。しかし、講義ではこの「教材」への視点にまで話が及んでいたとは到底思えない。そのような認識にまで到達していたのなら、「そのこと(=教育内容)を教えるために、どうしてその知識をその順序で教えていくのか」、「はじめにどんな情報を出しておき、どの情報は隠しておくか」といった教授・学習過程への議論が起こるはずである。しかし、少なくとも自分が教室にいたときに、そのような「どう教えるか」という次元での発言はほとんど出なかった。「何を学ばせるか」から学生は考えなければいけないのだから、無理もないかもしれない。

 どのような認識・思考のすじみちをたどるかたちで教えると、もっとも「教育内容」、あるいは授業の目的に達することができるか。そのことへの視点を含んではじめて「授業をつくる」ということになるはずである。先生はこの「教材」への視点と方略をもって、自身の講義の進行を考えたのだろうか。その点が最も疑問である(少なくとも自分には、講義の「あの進め方」は、相当無理のあるものだと思った)。

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セクシズムの男女共学

 ようやく、一つ論文の区切りがつきました(というか、観念しました)。
この間、〈ジェンダーと教育〉の問題に関していくつかの専門書や論文を読む機会を得、未熟な自分なりに、視野が広がる、今まで見えなかったものが見える(可視化)という知的経験の快感を得ることができたと思っています。

 例を挙げると、男女共学論の問題。
 男女共学のほうが別学よりもジェンダーの拘束性が弱く、ジェンダー中立的な営みであると何の疑いもなく確信している研究者はまずいないでしょう。教育社会学を中心に、教育学研究において学校内部におけるセクシズム(性差別主義)の存在が取り上げられるとき、議論の俎上に乗せられてきたのは何より男女共学の教育でした。この男女共学における性差別の存在が、共学・別学、どちらがよいかという問題さえ生んでいるといえます。
 学校教育に男女平等とセクシズムが同居している。それを可能にしているからくりはどのようなものか。これは私が一つ関心をもった点です。それは男女共学論がこれまでどのような視角から論じられてきたかという問題へとつながります。先行研究の見解は、男女共学論でも、そこで焦点が当てられてきたのは常に女子教育の問題であったこと、すなわち、男子の教育のあり方を一つの基準としてその基準へ女子教育のレベルを近づけるという意味での「共学」であり、男子教育のあり方は不問に付される一方で(そもそも「男子教育」なる言葉はどの教育学事典にも載っていない)女子には「平等」と「差異」(女子の特性)の二重基準が求められるというジェンダーの非対称性があったということでした。
 男女共学を求める言説自体にジェンダーの非対称性(男性が主、女性が従)が存在し、そして、そのようなものとして男女共学が実施されて今日に至っていると捉えるとき、改めて問題としなければならないのは、単に共学よろしではなく、その中身です。そしてこの問いは、共学論のみに向けられるものではなく、別学論にも当然向けられるべき問いです。男女の特性に応じる(男らしさ・女らしさを一方的に否定しない)意味で別学が指向されたとしても、実際には「女子のあり方」(男並み化と女らしさの間での葛藤、進む社会進出や少子化との関係で問われる女性のライフスタイル)のみに問題が集中し、男子に求められるのは「女子への理解」といった思弁的な問題でしかないとすれば、それは共学論に内在する非対称性の問題と何ら変わりません。

〈参考〉
・小山静子「男女共学論の地平」藤田英典ほか編『教育学年報7 ジェンダーと教育』世織書房、1999年。

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認識と行動の結びつき―道徳教育の難問

 結局、今日も同好会の稽古には行けず。今週はまったく居合とは無縁の生活を送ってしまいました。連休明けまではかなり厳しい状況です。論文書いてます。

          ◇

 前回のつづき。今日はちょっと真面目に。
 「認識と行動の結びつき」、それは学校教育(とくに道徳教育)において幾度となく論じられてきた難問、近代学校の出発当初からの課題でした。その日その日に学校で学んだこと(客観的な認識)と、自分たちの「生き方」(主体のあり方、行動)。その両者をどう関わらせるかという課題。昨今の学校教育において「生きる力」というスローガンが掲げられたりするあたり、課題意識は依然として継承されているように思います。
 道徳教育の領域ではその具体的な解決策として、ボランティアなど奉仕活動をさせたり、「心の教育」などが提唱されたりするわけですが、それらは内面的感情や態度に訴える心理主義的道徳教育に陥りやすいゆえ、批判にさらされているのが現状です。

 自分が道徳教育を考える上で、大きな示唆を受けた本に、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫、1982年。初版は1937年、山本有三編『少国民文庫』の一冊として)があります。あまりにも有名な本です。自分が改めて言うまでもなく、この本が読み継がれるべき「古典」として評価される理由、それは人生いかに生くべきかという倫理(モラル)の問題が、社会(科学的)認識や思考の方法と切り離せないかたちで問われている、そのユニークさにあります(よくありがちな生活態度の改善的「人生読本」の域を超えて、ものを見る眼が問われている)。
 同書の岩波文庫版には、丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」(1981年)が掲載されているのですが、この文章で丸山は次のように述べています。道徳教育を考える上では非常に示唆に富む指摘です。

 天降り的に「命題」を教えこんで、さまざまなケースを「例証」としてあげてゆくのではなくて、逆にどこまでも自分のすぐそばにころがっていて日常何げなく見ている平凡な事柄を手がかりとして思索を押しすすめてゆく、という教育法は、いうまでもなくデュウイなどによって早くから強調されて来たやり方で、戦後日本でも学説としては一時もてはやされましたが、果してどこまで家庭や学校での教育に定着したか、となると甚だ疑問です。むしろ日本で「知識」とか「知育」とか呼ばれて来たものは、先進文明国の完成品を輸入して、それを模範として「改良」を加え下におろす、という方式であり、だからこそ「詰めこみ教育」とか「暗記もの」とかいう奇妙な言葉がおなじみになったのでしょう。…(中略)…こういう「知識」―実は個々の情報にすぎないもの―のつめこみと氾濫への反省は、これまたきまって「知育偏重」というステロ化された叫びをよび起こし、その是正が「道徳教育の振興」という名で求められるということも、明治以来、何度リフレインされた陳腐な合唱でしょうか。その際、いったい「偏重」されたのは、本当に知育なのか、あるいは「道徳教育」なるものは、―そのイデオロギー的内容をぬきにしても―あの、私達の年配の者が「修身」の授業で経験したように、それ自体が、個々の「徳目」のつめこみではなかったのか、という問題は一向に反省される気配はありません。
 私は、こういう奇妙な意味での「知育」に対置される「道徳教育」の必要を高唱する人々にも、また、「進歩的」な陣営のなかにまだ往々見受けられる、右と反対の意味での一種の科学主義的オプティミズム―客観的な科学法則や歴史法則を教えこめば、それがすなわち道徳教育にもなるというような直線的な考え方―の人々にも、是非『君たちは……』をあらためて熟読していただきたい、と思います。戦後「修身」が「社会科」に統合されたことの、本当の意味が見事にこの『少国民文庫』の一冊のなかに先取りされているからです。
〈註〉丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年、325ページ。

道徳教育について考えるとき、この丸山の指摘は今なおもって、まったく色あせていない。そう思います。その丸山が「目から鱗」と絶賛した『君たちはどう生きるか』については言わずもがな! です。

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「ゆとり教育」見直し、そのビジョンは

 「ゆとり教育」が批判にさらされています(「『ゆとり』見直しに賛成78% 本社世論調査」asahi.com、2005年03月15日)。今回の教科書検定結果は、その「ゆとり」見直しが反映されたとみられています(「教科書検定:中学で「発展的学習」初導入 「ゆとり」見直し反映--検定結果を公表」毎日新聞、2005年4月6日)。

 「ゆとり教育」批判の根拠として大きく影響したと考えられるのが、PISA(「ピサ」)とTIMSS(「ティムス」)、「学力」に関するこの二つの国際比較調査の結果です。TIMSSはIEA(国際教育到達度評価学会)の国際数学・理科教育動向調査、PISAはOECD(経済協力開発機構)が行う学習到達度調査です(出題例)。TIMSSが数学・理科という従来の教科の枠組みのなかで知識理解の達成度を測るのに対し、PISAは、その枠組みを越えて「問題解決能力」「数学的活用力」といったように、知識活用力と課題の解決力をみる試験が中心となっています。

(1)

この調査結果から、「学力低下」という問題を読みとって憂慮しているという現状なわけですが、順位・点数の結果だけをみて一喜一憂するだけでは、各分野の学習到達度・能力を今後どう伸ばしていくかという視点が欠落する、一時的アセスメントの弊害を誘発することになると予想します。
 点数から読みとれない部分は多々あります。例えば、試験内容を教えられている中でいい点を取った上位国と、教えられていないのに上位国に食い込んだ(踏みとどまった)国では、どちらを評価すべきでしょうか。TIMSS2003に関して、日本は後者に入るとする教育学者の見解があります(日本教育学会第8回研究集会「授業において『わかる』とは何か」2005年1月29日、大野栄三氏報告)。そう捉えるなら、問題とすべきは子どもたちの学力低下ではなく「教えられていないことは何か」ということになります。

 ただし、削減した項目を復活するだけでは、振り出しに戻るだけで問題が解決することにはなりません。本来の問題は、例えば、算数・数学であれば、公式の羅列的暗記や「不全感のなさ」(分数÷分数、マイナス×マイナス等を気にしない、など)といった学習者の認識過程の現状のはずですから。
 指導要領改訂の際に、小学校算数において台形の面積を教えないということが問題となりましたが、ある数学教育の先生は「そんなくだらない議論には付き合いたくない」と言います。そんなことより「すべての多角形は長方形になおして計算できる、そのことのほうが基礎的で重要だ」といいます。教育内容に踏み込んで「われわれ大人が何を身につけさせたいか」を具体的に示す、そんな議論が必要です(「試されているのはわれわれの学力」)。

(2)

 PISAとTIMSS、二つのテストに対する各国のスタンスにはかなり違いがあります。日本では、今回の結果を強く問題視した。一方で、一つの国際指標としての位置づけでしかない(それより他にいくらでも重要な指標がある)、PISAには参加してもTIMSSには参加していなかったりという各国の現状があります。例えば、PISA2000、2003でトップの成績をあげたフィンランドはTIMSS2003には参加していません。それぞれの国には、それぞれの「学力文化」とでもいうべきもの、各国の文化のなかで形成されてきた知性観といったものがあり、したがって、めざすべき「学力」像が異なっているのではないかと思います。そして、それを達成するために国際調査を一つの指標としてみているのではないでしょうか。日本はどうでしょうか。「情報蓄積」といった学力像しか描けていない現状はないでしょうか。

 当事者である小中高生たちは、問題の本質を見抜いていると思います。アサヒ・ドットコムの記事(「ゆとり教育見直し、子は複雑 小中高校生の意見」asahi.com、2005年04月05日13時33分)からは「なぜ学ぶのか」「なぜ競争しなければならないのか」という子どもたちの疑問を看取できます。この疑問に対し、どの程度教育内容に踏み込んだ形で応えられるかが重要だと思います。

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「総合的な学習の時間」考(その2)

 今日も「総合的な学習の時間」(以下、「総合」)についての雑感です。
これで、一応の区切りにしておきたいと思います。

「総合」について、私が一つ疑問に思っているのは、
〈なぜ「総合的な学習の時間」という何とも中途半端に長い名前なのか〉
ということです。なぜ、「総合学習」と、すっきりした名前として指導要領に盛り込まなかったのか。この背景には、単に教課審や中教審の答申の文言そのままという理由を超えて、いろいろと提案に際しての苦悶があったのではないかと思ってしまいます。

管見の限りでは、「総合的な学習の時間」=「教科の時間から独立した総合的な学習を行うための特別の時間」という認識枠組みの下に実践が行われているようです。教科、特別活動、道徳に次ぐ第四の領域として捉えられている観があります。

しかし、それも一つのあり方に過ぎないのであって、「教科学習」の時間=「総合的な学習の時間」にしても何ら問題はないと、私は思ってしまいます。また学校行事などの教科外教育を「総合的な学習の時間」にあてても、学校の実態に合っていれば問題はないはずです。「総合的な学習の時間」を設けよというのは、既存のカリキュラムから独立して設けよ、という意味に画一的にとる必然性はないと思うわけです(もっとも「総合」と称して、何の反省もなく、旧来の「詰め込み」に戻るのは困りものですが)。「総合的な」とか「時間」とかいう微妙な言い回しは、その点の画一性を避けるために用いられているのではないかと思ったり……。

「総合的な学習の時間」とは領域概念ではなく、方法概念と捉えたほうが効果的です。教育学者の中には、「教科とはそもそも総合的だ」などという人もいます。教科というものは人類の蓄積してきた文化(科学・学問)をそのまま教えるのではなく、子どもの経験に即して配列・再文脈化をほどこすものである、換言すれば、科学・学問を子どもにわかるように教師が「翻訳」して教えることが教科の教授だと。それは子どもの側から見ると細分化されている知識を、自分の文脈で総合化して捉え直すということであり、必ず総合的なものとなると。

前回にも述べたように、「総合的な学習の時間」が提唱される以前から、総合学習という方法(児童の経験と何ら切り結ぶことなく、百科全書的に知識を伝達する方法への批判としての学習法)は、善良な教師たちによって蓄積されてきました。

〈「総合的な学習の時間」(という言葉)が消えたとしても総合学習は消えない〉というのが、現時点での私の認識です。

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「総合的な学習の時間」考(その1)

 前回に引き続き、総合学習について考えてみようと思います。今回はとくに現在、問題視されている「総合的な学習の時間」(以下、「総合」)についてです。

 自分が関心を向けるのは、なぜ「学力低下」と結びつけられて批判されるのかという点です。
ほんとうは教育内容と授業時間数が削減されたことが問題なのでしょうが、「総合」がよく機能していないという疑念にも矛先が向けられ、前者と関連させて批判されているのだと思います。内容と時間が削減されなかったら、「総合」の見方も違っていたのではないでしょうか。
 そもそも「総合」(さらに、その前提をなす理念の出発点であった92年からの「新しい学力観」)は、「学力低下」を危惧する立場から提唱されたはずでは? と思うのですが。

 文化遺産(過去の業績、書物)を、児童の経験(認知構造)や意思決定と何ら切り結ぶことなく、いわば百科全書的に、既成の枠組み=教科にしたがって伝達する。その問題性を指摘する声は、古くからありました。知識が具体的な対象を伴わず、単なる文字や音声(音波)としてしか伝わっていないという事態への批判です。そのなかで教科のあり方が問題とされ、教科の捉え直しが言われ、そしてその総合化(総合学習)が価値視されてきました。
 下からの動きとしての独創的な総合学習を行った事例は、戦前日本ではいくつも確認でき、一定の研究蓄積があります。奈良女子高等師範学校附属小の合科学習や長野師範学校附属小の「研究学級」、成城小学校のダルトン・プランなどです。ですから、「総合的な学習の時間」は非常に新しい教育発想のようにみる人もいると思いますが、長いスパンでみた場合には、決して新しいものではありません。これが上から提起されたということが新しいといえます(どのような政治的理由に端を発しているのかは別として)。

 私が問題視するのは、「総合」の実践が、そこで学ぶ知識=「学力」の中身を問わずに、子どもの関心・意欲だけに焦点化することで問題を解決しようとしている場合です。そこには、「関心・意欲」が起これば子どもたちは自動的に思考・判断し、知識の獲得に至るという認識筋道の図式があるように思います。「生活科」の実践などもこの図式の下に考えられているケースが多い気がします。知識の獲得を、このあまりに安易な認識筋道で捉えてしまっては、結局、最終的には「やる気」かよということになってしまいます。

 どんな知識も、「なるほど」「えー、びっくり」と身につまされるような形で認識しない限り、頭から離れずに記憶されるということはないと思います。「国際理解」をしようが、「ボランティア」をしようが、ウサギを飼おうがです。これらの体験学習の中でどのような「切実性のある」知識を獲得させるか、そのためにどのような認識のすじみちをつけるか、これはひとえに教師の学習指導にかかってきます。それがなければ、単なる「楽しげな学習」を行ったという事実だけがあとに残ってしまうでしょう。要は、知識の中身について教師が熟知していなければいけないという、教科学習と同様、自明の前提に還ればいいわけです。教師自身が身につまされて学べなければ、子どもも同じように学べるわけはありません。だから、教師には教材研究という、重要な任務を行う環境を、時間的余裕を保障してあげなければと思うわけです。教師は「授業の専門家」であるはずですから。それができれば、「総合」云々といった問題は、大きな問題にならずに済むと予想します。
 
 何人かの教育学者は「問われているのは子どもの学力ではなく、我々の学力だ」と語っています。「学力低下」は子どもの問題ではなく、日々教える事柄(知識)の科学的、社会的な意義(俗っぽく言えば「その知識を学ぶことの楽しさ」)を明確に示せていない大人たちの問題だというのです。われわれ大人が心地よく知識を学べていないことに起因する問題だと。
 身につまされます_| ̄|○ とくに私のように「最大瞬間学力」(宮城教育大、西林克彦教授のネーミング)として、知識を身につけてきた者にとっては。
 子どもを誹りの対象にする前に、自分たちが反省しなければなりません。そこから始めることが、「学力」向上への第一歩だと思います。

〈補〉最近、「学力低下」の問題を「脳」や「身体」をキーワードとして克服しようという言説を見かけますが、どうも釈然としないものを私は感じます。これらの主張は、知識をなぜ学ぶのかという問題を一般論的に解決してくれる(例えば、「脳が活性化するから」といった理由)から支持されやすいのだと思います。対象とする知識が示す社会的意味、生活経験との連続性などについては触れる必要もなく、教師にとっては非常に楽です。しかし、そんな楽な理由に簡単に飛びついてしまっていいのかと思ってしまいます(それらを全否定しようというのではありません。それらも一つの方法にすぎないと言いたいのです)。それとも、そんな悠長なことは言っていられない現状なのでしょうか。

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「男女共学化問題」考

 高等学校、とりわけ伝統校、進学校と呼ばれる男女別学校の共学化をめぐって、宮城県では議論が紛糾し、半ば混乱の様相を呈しているような印象を受けます。
 
 以下は、「別学」/「共学」をめぐる記事、意見が豊富に掲載されているサイトです。
いろいろな立場からの意見を読むことができて興味深いです。
   http://transnews.at.infoseek.co.jp/kyogaku.htm
  http://asa.co.jp/will/sendaikko/rondan.html
 さて、「共学」対「別学」という二項対立の図式に、私はどこか違和感を感じてしまいます。問題の核心はどこにあるとみればよいのでしょうか。
 私は学校の「個性」とか「特色」をめぐる解釈にあるように思います。本来、問われるべき学校の「個性」とか「特色」といったら「共学」や「別学」といった外的形態ではなく、教育内容、カリキュラム、授業といった対象を指すはずです。しかし、「別学」支持の方々は、教育内容ではなく、「雰囲気」(校風=「古き良き伝統」)を「個性」「特色」として強調しているのではないかと思います。学校は知識を授けるところだという立場からすれば「共学」や「別学」といった教育形態の必然性はありませんが、後者という歴史的問題があるためにそれを保護すべきか否かが争点となっているという状況ではないでしょうか。ただ、後者を保護する法的根拠はどこに求められるのかは、私にはわかりません。

  「共学」の観点からすれば、性別によって特定の公立高校に対する受験の権利すら認めないという男女別学制度(例えば、あの高校、とくにあの先生に勉強を習いたいのに女子/男子というだけでその権利がない、といった問題)は、少なくとも、公立学校に関する限り、認められるべきではない、一刻も早くすべての公立学校の完全共学化を実現することは宮城県という地方公共団体の法的責務だということになります。
 これは「別学」支持にとっては、論破することが難しい指摘です。「良き伝統を守れ」というノスタルジックな主張に固執するだけでは無理でしょう。だからといって、政治的な力や復古主義的なイデオロギーを持ち出して「共学」意見を押しつぶそうというのは、えげつない最も忌むべき手法です。

 一瞥したところ、「別学」支持の論陣で、ジェンダーという観点から主張を展開されている方はさほどいないようです。「ジェンダーフリー」という言葉から、ジェンダーという概念まで毛嫌いされているせいでしょうか(なお、専門家の間では「ジェンダー・フリー gender-free」という言葉が使われ、性差を抹消するものとして批判の対象となっている造語「ジェンダーフリー」とは区別しています。性差は抹消することも、無視することもできません)。性別役割、良妻賢母を肯定したいという思いをひそかに込めつつ、表向きには「男らしさ」や「女らしさ」を強調する形で主張を展開しているケースが、バックラッシュの影響で多くなっているようにも思います。しかし、それは女性解放史上何度も用いられてきた男女特性論の繰り返しにすぎず、あまり説得力を持っているとは思えません(矛盾しているかもしれませんが、男女特性論は女子の特性=セクシャリティ・ジェンダーを強調することで男女平等を図ろうとする女性解放思想の一つとして位置づけられます。最終的には問題を個人の内面へと矮小化してしまうため、批判にさらされます)。

 私からすれば「共学」派への最も有効な反論は、実はジェンダー概念を活用することで成り立つと思うのですが。例えば、こうです。
 ジェンダーは、そもそも法理念的には男女平等が達成されているはずなのに、現実として性差別的階層構造が残っていることから、その問題的状況を効果的に捉えるために登場した概念である。社会規範や秩序を再生産するという学校機能の観点から見れば、男女共学制度が全国的には広く実施されているにもかかわらず、実態として社会ではジェンダー秩序(男が標準、普遍、女は差異、特殊というタテ型社会の階層性)が再生産されている。これは、「共学」になったからといって、ジェンダー秩序が即解消されるとは限らないことを意味している。むしろ、その再生産が助長される可能性すらある。だが、例えば女子校ならば男子の介入を問題視することなく、すべての事を女子自身の手で行うわけだから、男主女従という秩序にはまらずに、リーダーシップなどの資質が性差にとらわれることなく育成される可能性がある、云々。

 坂本辰朗さんは、アメリカでも男女別学をめぐるさまざまな試みが実施されており、論争が起こっていることを、以下の事例を挙げながら指摘しています。
①1972年改正教育法(公立の別学校の共学化)
②1980年代末からの、公立学校による男女別学の試み(例 ヤング・ウィメンズ・リーダーシップ・スクール)
③2002年教育法(別学校や別学クラスを維持するために、地方教育当局による革新的教育プログラム資金の使用を可能にし、論争に)。
④カリフォルニア州における大規模な公立学校での別学パイロット・プログラム(男女別の12校のシングル・ジェンダー・アカデミーの確立)
⑤公立学校における別学への反対論(全米女性機構(NOW)とアメリカ女性大学人協会AAUW)、米国自由人権協会(ACLU)など)
〈註〉坂本辰朗「ジェンダー・フリーな教育からジェンダー・センシティブな教育へ」、東北大学21世紀COEプログラム「男女共同参画社会の法と政策」公開研究会資料、2004年9月24日。
 報告のまとめで坂本さんは、ジェンダー・バインド対ジェンダー・フリーという二分法の罠に陥らないよう指摘し、ジェンダー・センシティブな教育の理想像の追求により、ジェンダーの関係そのものが変わってゆく可能性について主張しました。これは「別学」か「共学」かという外的形態にこだわらずとも、ジェンダー・センシティブになることは可能だということを示唆する主張でした。

 結局、どのような条件がジェンダー不平等を改善する手がかりとなるのかは、私には依然としてわからない状況です。ですから、なお議論を継続する必要があります。坂本さんが指摘されたように、「共学」「別学」といった既成の枠組み自体を再考の対象としていくことが、現在の議論を進展させるきっかけになるのではないかと思います。

【追記】私は福島県の男子高の出身です。周知の通り、現在は共学化されています。だからといって、私はそのことに大きな問題を感じてはいません。むしろ「新たな伝統の芽吹き」を喜んでいます(過去の歴史において女子生徒が在籍したという時期がすでにあったようです)。伝統とは自ら創るものであって、すでにあるものとして外から強要されるものではありません。
 たしかに世間は、私が「古き良き伝統」の中で高校生活を送ったと見るでしょう(部活動は男子高を象徴するような体育会系に在籍していましたし)。しかし、私が高校生活から得た「伝統」観は、私固有の、私自身が選び取ったものであって「古き良き伝統」といった特定のイメージに解消されるような質のものではありませんし、周囲からも特定の「高校生」像に矮小化されて見つめられたくはありません。それに、もし共学校であったなら、またちがった素敵な生活を送れたかも知れないとも思っています。

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「学力」対「ゆとり」という振り子

 今朝の毎日新聞(12月15日朝刊)は一面で日本の「学力低下」を取り上げていました。

①「得意の理系も学力低下」(一面)

国際教育到達度評価学会(IEA)が03年、各国の中学2年生(46カ国・地域参加)と小学4年生(25カ国・地域)の学力を調べた国際数学・理科教育調査(TIMSS)で、世界トップレベルとされてきた日本の小4理科と中2数学の平均点が前回(小4は95年、中2は99年)から下がったことが分かった。……高校1年生の読解力が下がった経済協力開発機構(OECD)の03年学習到達度調査(PISA)に続き、学力低下が浮き彫りとなった。

②「クローズアップ2004 『ゆとり』のツケ深刻」(二面)

 この原因を新学習指導要領に基づく「ゆとり教育」に求める論調も周囲には多いようですが、この見方は妥当なものなのでしょうか。教育内容を「三割削減した」(この「三割」というのはマスコミが言い出したものという意見も)という指導要領導入(02年)からわずか一年後の調査でのこの結果。これは本当に指導要領に原因があるのでしょうか。私には問題はそれ以前にあった、指導要領が改訂される前からこの結果は見えていたと思うのですが。
 記事では、理科が「楽しい」と思う割合(小4)も減少していたとあります。問題の根本はむしろこちら、子どもが学校で習う、新しい知識習得に魅力を感じられなくなった(逆に言えば、魅力ある授業を教師が提供できなくなった)ことにあるのではないかと(少し昔なら、「いい大学」に入ることが学ぶ動機にもなっていましたが、今も通用しているとは思いませんし、2007年には全入時代に突入します。もはや学ぶ動機は、「将来のため」という安易なキーワードに求めることはできなくなりました)。
 そう考えれば、この調査結果を機に「詰め込み」へ戻っても問題は何ら解決しないでしょう。新指導要領が導入された背景には、もはや知識を伝達しようにも子どもが学んでくれないという現状分析もあったと思います。だからといって、それを「教育内容の精選」「総合的な学習の時間」という形で解決すべきかどうかについては大いに疑問ですが(時間を削減すれば子どもは学ぶとどうして考えられますか。知識は単純に量として測ることのできるものではありません。かといって突然、子どもたちに「自分で考えよう」と放り出しても自己学習できるとは限りません)。
 「学力」対「ゆとり」の二項対立に陥らないために重要なのは、知識を心地よく(≠楽に・効率的に)習得でき、そして大人になっても頭から剥がれ落ちないような学び方の開発とそのための教師の研究条件を確保することではないのでしょうか。要は、教師を含めて、自分たち大人がいつもどうやって知識を心地よく学んでいるかということにつきると思います(単に情報として頭に詰め込むだけではなく、それを使って未知の知識をつかみ取るような、そんな学び方です)。それを示せば、子どもたちも後について来てくれるのではないかと。

 詰め込んだらそのまま忘れさられ、賞味期限も切れ、腐ってしまったことにすら気付かないということを防ぐために、いつでも取り出して使いこなせるためには、どうすればいいのか。そんなことを考えながら、自分もいろんな情報と向き合っているのですが、うまく料理できず、冷蔵庫のなかで腐らせてしまっている現状です。でも、そこにしか「学力」対「ゆとり」の図式を越える解決方法はないように思うのですが、どうでしょうか。ラクに学べるに越したことはないんですけどね。

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