言葉を贈る意味

 学生たちの晴れ着姿が映える恒例の卒業シーズン。


同僚の先生方も「もうあれから一年経ったのか」とという驚きとともに、卒業式に臨んでいた。


 式典後に開催された、学科の卒業祝賀会(謝恩会的性格だが、教員も会費を払う……)。


会の次第には、案の定「教員より一言」の項目があった。


学生から指名された自分を先頭に、先生方が次々と贈る言葉を述べていった。


その終盤、順番が回って来た(自他ともに認めるであろう)アクの強い古株のW先生が、次のようなことを述べた。


「この会で学生に一言スピーチをしなければならないと考えて、朝から憂うつだった。

自分が今ここで述べることに、どのような意味があるのだろう。

いま語ったことを、皆さんは明日には忘れているだろう。

皆さんは、一年次のガイダンスのときに学科長がどんなことを言ったか皆は覚えているだろうか。覚えてないだろう。

だとしたら、ここでしゃべることの意味は何だろう?」


皆酔いが回っていたところへあまりに突拍子もない自問自答セリフだったので、逆に笑いが起こった。


先生方も、またしゃべったW先生ご自身もそれで気分を害したわけではない(いや、校長として毎週 生徒たちに講話をしてきた現職出身の先生は、少し気分を害したかもしれないが……)。


 だが、自分はこの問題提起を受け止めてみたいと思った(その意味でW先生の言ったことは覚えているし、これ以前にも先生が懇親会などの席で語った詩的なことを自分自身は覚えている。その点で、先生の指摘は正しくはない)。



    ◇   ◇   ◇



  教員が学生に対していろいろな言葉を贈る場面は、入学式やガイダンスをはじめ、じつにたくさんある。何より授業がそうだ。


膨大な時間をかけて、学生たちにいろいろな言葉のシャワーを浴びせている。


だが、学生たちはそこから何を受け取っているのか。



こちらは何度も真剣に贈っているのに、ほとんど何も受け取っていないのではないか―。


 実際そう思って空しくなるときは、自分だってたくさんある。


 以前、W先生とタッグを組んで、学校インターンシップの学生面接をしていたとき、先生が「ガイダンスのときに『これが大事だ』と言ったことを覚えている?」と学生に尋ねたところ、誰も答えられず、ひどく落ち込んでしまったことがあった。

 そういう過去の経験もあった(また今現在も、同じ経験を毎度している)からこその指摘なのだろう。



 だが自分は、W先生の指摘に対して、次のように言いたい。 


「先生はこの4年間に食べた料理のことを逐一覚えていますか。

また覚える必要がありますか。

中にはよい思い出(苦い思い出?)とともに覚えているものもあるでしょうが、記録でもしていない限り、とてもすべては覚えられません。


でも確かに、それらの料理は私の体の中で身(実)になっています。


何月何日にどこでどんな味のカレーライスを食べたかという個別の情報はほとんど忘れてしまうでしょう。


でも、何度も食べていれば、カレーライスがどんな味かはわかるようになります。




 教師が学生に語る言葉というのも、そのような性質のものではないですか。


いつ誰が語った言葉かが重要なのではありません。


誰が贈った言葉(=情報)であろうが、何度も聞くなかでそれに学生が(何かの経験をきっかけに)自分なりに意味を与えて思想を耕してくれればいいのです。


誰が言ったかは、忘れてしまっても構わない。


いつ誰が言ったかも忘れてしまうくらい、同様の言辞に学生が日々考えをめぐらせていることのほうが重要ではないですか。」


と。


実は後者の部分(とくに言葉の「意味」をめぐる部分)は、W先生自身もその後のスピーチで語っていたかもしれない。



 また、次のようにも考える。


「どんな言葉も、その固有の肉体を通して発せられます。


同じ言葉でも、先生という身体から発せられるからこそ、独特の色がついて学生に届きます。


先生の場合、その語り口だからここそ言葉に味わいも出る。



そして、その光景のほうが学生には強く残ります。


『ああ、大学教員のなかにはこんなおもしろい人もいるのか』と。


多様な人間観をこそ、学生は無意識のうちに形成しているはずです。」


これはなかなか、しゃべっている本人は自覚できない部分だ。


自分が語っているすがたは、学生にはどのように映っているのか。


学生は自分からどのように「大学教員」を記号化しているのか。


何ともわからない。



 でもW先生については、その不思議な魅力とともに学生の記憶には刻まれているはずだと自分は確信している。

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地域との協働を通して主権者を育てる

 昨年6月、公職選挙法の一部を改正する法律が成立し、18歳選挙権が認められることとなった(総務省「選挙権年齢の引下げについて」)。
  それをふまえ、主権者としての学びを進めるための教材(「高校生向け副教材「私たちが拓く日本の未来」など)も作成、公開されている。

 だが、当事者たる高校生の意識はどうだろうか。選挙意識に関するアンケートでは、「選挙に行くと思う」と答えた高校生は76%に上るとの結果も出ている(「高校生7割「選挙に行く」 選挙権引き下げで意識調査」『西日本新聞』2015年12月7日)。
 だが、20代の低投票率の現状をみていると、否定的にならざるを得ない。そもそも、有権者の2%程度が増加するに過ぎないので、彼らの世代の意見がどんなに束になってかかっても、60~70代の世論の前に数では勝てないのは目に見えている。その現実に打ちのめされて、結局は政治から離れていくか、もしくはより弱い者(障害者や性的・民族的マイノリティー)を抑圧する傾向を助長してしまうのではないかと考えてしまう。

  自分が否定的に問題を捉えてしまうのは、何よりも主権者を育てる第一人者であるはずの学校教育がきわめて非民主的であることに起因する。理不尽な校則の強制、形ばかりの生徒自治、教師の都合で進行する授業とそれに同調する限りで求められる学びの主体性。何より教師自身が上からおりてくる施策の実践に苦心するだけの非民主的な職場……。生徒たちは学校・教師の言動の不一致・矛盾を見抜いている。それもあって、生徒たちはよりコストのかからない受動的パフォーマンスに終始するのである。学校こそ、生徒の主権者意識を削いできた元凶といって過言ではない。 
 そんな中、18歳は、主権者として育つ機会を与えられることなく、いきなり主権者にさせられるのである。それでどうして、社会参画が活発化すると考えられるのだろう。 

 このような現状は、自分自身も肌で感じてきた。高校時代に教わったある社会科(社会系教科)の教師は、正々堂々と「そこらへんのおばさんに選挙権を与えるのはおかしい」と生徒の前で明言したのを思い出す。


           ◇


 とはいえ、高校生がより直接的に政治に参加する機会を得たことは、喜ばしいことである。そうである以上、彼らを主権者として育てる教育活動が構想されなければならない。実は、すでにそのような実践は存在する。社会科など個々の教科の問題ではない。学校ぐるみの実践、「三者協議会」の取り組みである(以下の例)。
 この一年、学部長の誘いもあって、学生と共に辰高の三者協議会を傍聴する機会を得た。20年近くの実績をもつ同校の取り組みは全国の高校に刺激を与え、現在も全国から傍聴人が訪れている。
 生徒が主体となって学校づくり・地域づくりに対して自分の意見を表明し、また実際に取り組んでいく。生徒の意見を尊重し、話し合いによって合意した事項についてはきっちりと実行に移す。中には未熟な要求もあるだろうが、教師は聞く耳を持たないという独裁的姿勢では臨めない。生徒からの思いを受け止めて、しかるべき手続きを経て納得できる回答を返す。こどもの権利条約第12条に定められたこどもの「意見表明権」を行使するトレーニングの機会を与える場を、学校・地域ぐるみで創出し、さらに実際に学校づくり・地域づくりにつなげているのである。
 
 実際、辰高の生徒たちは地域の商工会などともコラボして、自分たちのまちづくりを進めている。町から苦情が出されれば、どのように対応するか自分たちで話し合う。授業・カリキュラムに対する不満や要望も協議会で提案し、教員から改善に対する回答を引き出す。教師も緊張感をもたざるを得ない。大人の言いなりではない、学校づくりの姿が確かにここにはある。


 このような実践=生徒一人一人が個として尊重され、意見を表明できるような機会を与える実践は、生徒自らが主体的に社会参画する姿勢を育てることにつながるだろう。
 だが、三者協議会の取り組みを快く思わない教員が一定数いるのも事実である。「自分が専門とする教科の授業に専念したい=なぜそんな取り組みにかかわらなければならないのか」という声である。とくに高校は県立の場合が多いから、「われわれはあくまで県の職員であって、その高校が位置する市町村とはかかわりのない」という発想が高校・教員の側にはある。少子化の影響で、各地で高校再編計画が起こっているが、県の指示なら自分は従うという態度をとるわけである。だが、県立であっても、高校の多くは地元町村からの多大な寄付(民費)により設立された場合が多く、地元にとっては「まちのシンボル」という特別な意味をもっている。
 その地域の願いをどう受け止めるかということが、公務員的発想に陥らない「地域とつながる」という姿勢が、これからの教師に求められる。「地方創生」を叫ぶ一方、一方的な行政の指示で「まちのシンボル」が地域から消えて過疎化が一層進行する可能性は高い。「学校地域協働」というワードが掲げられ、地域と学校との連携・協働の在り方をめぐる中教審答申が出されるまでに至っている現状は、学校・教師の役割が再考される時期に来たことを示している(「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について(答申)」)。


  この「学校地域協働」と「主権者教育」という双方の課題につながる「地域との協働を通じた主権者教育」実践として、三者協議会の取り組みは位置づけられるのではないか。傍観者として社会を眺め、関わりのない観察者として知識を学ぶのではない。ほかならぬ自分自身の主体的責任がからむ問題として受け止めて知識を学び、意見を表明し、実際に社会に働きかけていく。身近な地域から働きかけ、そして「やればできる」ということを感得していく。三者協議会の取り組みは、今後の学校教育がめざす方向性を先取りしたものであると捉えられる。
 そのような生徒主体の取り組みを支援できる教師を育てるにはどうしたらよいか。教員養成に関わる一人としてきわめて重要な課題を背負っていると、三者協議会を傍聴し、辰高の先生方と交流するたびに感じている。 

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これぞ中央集権のカリキュラム政策

 久々の更新である。昨年は、あまりにも(よいのも、悪いのもひっくるめて)重い問題がふりかかりすぎた。もちろん、いずれ直面する問題ではあったのだが、なぜそんなに一気にふりかかってくるのだと、思わずにはいられなかった。少しでも精神衛生的な安定を求めるために、気軽にブログで発散することにしよう(あまり質は問わず、綴り鍛える、という原点に立ち戻ろう)。

      ◇

 さて、昨日一昨日とすっかり日本の恒例行事として定着したセンター試験。今年は過去最多の850の大学・短大が参加したようす。


 今の職場は毎年会場となっているので、自分も毎年センター試験の監督にあたってきた。
 ほんとストレスフルな仕事である。あの分厚い監督要項に沿って、全国津々浦々で同じ時間帯に同じセリフがあちこちで吐かれていると思うと、実に滑稽である。
 しかも、文章をみるとごていねいに「①」に「まるいち」とフリガナまで振ってある始末。これ、山形のほうでは「いちまる」と呼んでいたはずだ。そちらのほうでは、要項のこの記載をどう受け止めたのだろう。
 こうやってセンター入試を通した国語統一政策が浸透していくのか……などと、ネタを探さずにはいられなかった。


 実際、学習指導要領の拘束力を実際に駆動する装置としてセンター試験が機能しているのは確かだろう。センター試験を廃止するからといって、教育統制機能を強力に果たしているこの装置を国が手放そうとしているとは思えない。今後の入試改革で測ろうとしている「主体性」や「思考力」なども、結局のところ、大正自由教育がそうであったように、「教育方法改革への自己限定」という帰結を辿るのではないか……。

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教育方法改革への自己限定(2)

(1)からのつづき

 もし、「自分が手品師だったら」というスタンスでこの資料を捉えるなら、この手品師の行動にはとうてい共感できないし(フィクションだからという理由で相槌ぐらいは打つだろうが)、現実社会においてこのような判断はしない―。多くの大人は、そう答えるはずである(ぜひ学校の先生は、子どもだけでなく、その保護者にも見解を聞いてみてみてもらいたい)。
 そもそも実際の社会でマジシャンが置かれている現実に照らせば、資料「手品師」の世界は、簡単に崩壊する。


 たとえば、次のような疑問がすぐに浮かぶ。


① この物語の舞台が日本であれば、「日本奇術協会」をはじめ、マジシャンのための同業者組織、NPO法人がある。また、各地には同好会などもある。何より、芸能事務所・プロダクションがあるにもかかわらず、この手品師は所属していないのか?(だとしたら、仕事のあっせんが来ないのは当然である。世の中には「マジシャン派遣」事業を行っている企業も多数存在するのに……)。
 そのような組織と何のつながりももたず(=自分を鍛えるための手段をもたず)、ただ漠然と「売れたい」とこの手品師が考えているとすれば、あまりにも考えが甘いのではないか。

② 芸能界で売れたいと願っている今どきのマジシャンならば、例外なくインターネットを自分の宣材として活用しているはずである。
 安価でできる個人HPやYoutubeなどの動画サイト、facebookやtwitter、LINEなどのSNSを駆使して、ファンを集める努力をするはずである。テレビやラジオしか主要な宣伝媒体がなかった昔と比べれば、いくらでも自分で工夫し、そして夢を掴むための努力ができる(現にネットを通して露出度・注目度を集め、人気となったケースはいくつもあげられる)。
 そうして容易に世界とつながることができるようになっている現在において、そのようなツールの存在をまったく想定に入れずに、ただ〈手品師―こども〉という関係性だけで、手品師の「気持ち」を考えることにどれだけの意味があるのか。もし、これらのツールの存在を念頭に入れるならば、大劇場への出演か子どもとの約束かの判断理由も、まったく違った内容になるだろう。
 ただ「反利己主義としての思いやり」=自己犠牲を強いるだけの道徳ならば、子どもたちは白けてしまうか、「所詮フィクションだから」と、問題を真剣に捉えずに考えて終わるのではないか。



③ 「この『手品師』の話は、他者に対する思いやりと自分自身への誠実さを考えるための資料なのであって、自己犠牲の話でも何でもない」と答える人もいるだろう(現に、この「手品師」の作者である江橋照雄がそう述べる)。
 たしかに、男の子に対して手品師は誠実だったといえよう。だが、友人に対する誠実さはどうなのか。自分に関わりのある友人を大切に思い、困ったときには相談に乗ったりすることもまた、重要な徳(「誠実」という徳目)のはずである。「手品師」にはこの視点が欠けている。すなわち、「手品師」のいう「誠実さ」とは、「狭い」「独りよがり」の誠実さといってよい。友人への信頼を含まない「閉ざされた」誠実さである。そして、このような心性は現代社会の心性(自己責任論)にもなっていることが、より問題を深刻にさせている。



④ 別に、友人でなくとも(不特定多数の他者でも)よい。例えば、先に述べたようにSNSなどネットのツールを通して、自分の悩み(子どもとの約束と大劇場への出演について)をつぶやいてみたらどうだろう。熱心に訴えれば、友人に相談する以上の、多くの人間の協力を同時に得られる可能性がある。それだって誠実な行為ではないのか。
 子どもとの約束を守るにしても、自分一人だけが町の片隅で子どもに手品を披露する以上に、多くの賛同者(同業者)と協同して子どもを喜ばせることもできるはずである。実際、そのようにネットを駆使した結果、不特定多数の善意が集まって大きなムーブメントに結実した実例が多数あることを、我々はよく知っている。この手品師も、ネットでの呼びかけをきっかけとして、たとえ今回の大劇場出演を断ったとしても、それ以上の宣伝効果によって「売れたい」という自分の夢実現への可能性が高まるかもしれない。


 少し考えただけでも、以上のような対応策が浮かぶ。
 このような見解は、自分が小学校教員だと仮定し、〈担当のクラスに山上兄弟のような小さい頃からマジシャンとしての仕事をバリバリこなしている子どもたちがいても、先の実践報告にあるような授業ができるか〉という想定に立って考えている。当然、そのような子どもたちはこの「手品師」が示す道徳的価値に共感することなどできないだろう。リアリティがまったくないのだから。ところが、そんなリアリティのない、フィクションの(不明な部分を多々含む)枠組みを疑問ももたずに受け入れたうえで、手品師の行動を理解しろ、その価値に共感しろ、というのだから、学習者の多くは違和感をもつはずである。



 以上の理由から、もうこの「手品師」は時代に合わない資料であり、これを使用して子どもに「誠実」について理解させるなど虚偽だ、というのが私の率直な見解である。さらに言えば、このようなフィクションによって道徳的価値について考えさせること自体あまり意味がないのでやめるべきだ、と考えている。
 だいたい、手品師の置かれている状況・ストーリーの文脈が少しでも変われば、子どもの判断も180度変わってしまうのが、このような資料読解型の「道徳」授業である。例えば、手品師にかかってきた電話が、大劇場への主演依頼ではなく、親の危篤の場合だったらどうなのか。それでも子どもとの約束を重視するのかと聞かれて、そうだと答える児童はいないだろう。また、大劇場への出演が、友人の手品師が怪我をしてしまい、その友人から「代役を君に頼みたい」という切実なお願いの場合だったらどうなのか。これも、子どもとの約束を守るという選択はしづらいはずである。資料読解による価値理解というのは、結局のところ、このようにきわめて一時的で可変的なものだということである。



 どうしても学校教員の多くは、現在の教材や教科内容は自明のものして疑いの余地を挟むことなく、それを「いかに教えるか」という方法・技術的視点でのみ問題を捉えやすい傾向がある。道徳教育ではそれが、ニセ科学(「水からの伝言」)や偽史(「江戸しぐさ」)の介入を容易に許すような結果を招いた。事実は二の次で、とにかく道徳的価値を特定の解釈によって内面化することが重視される。そのような、児童生徒に道徳教育の「うさんくささ」を植え付ける無節操なスタンスからいいかげんに抜け出すべきであり、それを怠った場合、大人になってから、あのとき教えられたことはまったくのでたらめだった、という道徳への否定的評価を増幅させることに結果する。今、このエントリを書いている私のように。



 もし私が、前述のエントリで紹介したような「道徳」の授業実践を受ける子どもの立場だったら、私の見解は絶対に教師から評価されないのだろう。もしそれが理由で、特別教科となった「道徳」の記述式評価の欄に教師から否定的な文言が書かれていたら、親に言って教師に抗議の手紙を書いてもらうぐらいはするだろうか(だがこれは、今後道徳の教科化が実施されれば、教師が直面する可能性のある問題である。教師は子どもの道徳性の現状について保護者を理解させうるだけの評価をしなければならないという、いっそうストレスフルな職務に従事することになる)。

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教育方法改革への自己限定(1)

 中教審は、いよいよ道徳教科化への答申をまとめた(「道徳に係る教育課程の改善等について(答申)」2014年10月21日)。
 だがあいかわらず、中身を読んでもいったい教科化の理由は何なのかがまったくわからず、「使命」ばかりが一方的に述べられている。道徳過敏症の症状が色濃く出ている代物である。もっとも、使い様はありそうである。答申には、次のような記述がある。



「なお、道徳教育をめぐっては、児童生徒に特定の価値観を押し付けようとするものではないかなどの批判が一部にある。しかしながら、道徳教育の本来の使命に鑑みれば、特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるがままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。むしろ、多様な価値観の、時に対立がある場合を含めて、誠実にそれらの価値に向き合い、道徳としての問題を考え続ける姿勢ことそ道徳教育で養うべき基本的資質であると考えられる。……社会のルールやマナー、人としてしてはならないことなどについてしっかりと身に付けさせることは必要不可欠である。しかし、これらの指導の真の目的は、ルールやマナー等を単に身に付けさせることではなく、そのことを通して道徳性を養うことであり、道徳教育においては、発達の段階も踏まえつつ、こうしたルールやマナー等の意義や役割そのものについても考えを深め、さらには、必要があればそれをよりよいものに変えていく力を育てることも目指していかなくてはならない。
 また、実生活においては、同じ事象でも立場や状況によって見方が異なったり、複数の道徳的価値が対立し、単一の道徳的価値だけでは判断が困難な状況に遭遇したりすることも多い。このことを前提に、道徳教育においては、人として生きる上で重要な様々な道徳的価値について、児童生徒が発達の段階に応じて学び、理解を深めるとともに、それを基にしながら、それぞれの人生において出会うであろう多様で複雑な具体的事象に対し、一人一人が多角的に考え、判断し、適切に行動するための資質・能力を養うことを目指さなくてはならない。」(2-3頁)


 ここに書いてあることには、同意する(というより、否定する人はほとんどいないだろう)。
 問題は、学校現場で熱心に取り組まれている道徳教育が、このような類いのものとは到底言えないところにある。
 多様な価値観を保障することを指向しつつも、結局は、道徳授業が“社会認識と切り離されたかたちで”ひたすら特定の資料解釈にしたがって道徳的価値の内面化を促すような内容になっているケースが多いのである。



 事例をもとに説明したい。ご存じの方が多いと思うが、「手品師」という資料がある。この資料は、長く市販の副読本に掲載される定番資料である。初出は1980年代だが、雑誌『道徳教育』2013年2月号(No.656)では、いまだに特集記事が組まれているほどである。
 資料の概要については省略するが(あらすじは光村図書のサイトこちらのNo.18で確認できるので、そちらで一読されたい)、すでに教育学者からは、同資料のはらむ問題点の指摘がなされている(例えば、宇佐美寛『「道徳」授業に何が出来るか』明治図書、1989年、松下良平『道徳教育はホントに道徳的か?―「生きづらさ」の背景を探る―』日本図書センター、2011年)。雑誌『道徳教育』No.656においても、松下行則によって資料の問題点(「偏狭自律型道徳」)が端的に指摘されている。


 いずれも説得的な指摘なのだが、『道徳教育』同号に掲載されている現場教員の実践報告記事をみると、これらの専門的知見がまったく考慮されていないものばかりで、頭を抱えてしまう。以下、それら報告記事の記述を一部を紹介する。


①「道徳の時間の指導で大切なことは、主人公のとった行為はなぜ善なのか?が分かることである。『少年との約束を守る』ことは、人間として美しい生き方『美』であり、『美は善』である。道徳的に生きることの価値を子どもたちの心に刻みたい。」


②「手品師が大劇場への誘いよりも、小さな男の子に手品を見せることの約束を果たしたことの素晴らしさに目を向けていくことで、ねらいに迫っていきたいものです。」


③〔授業者が実際に手品を披露し、児童から歓声や拍手があがる。その後の教師のセリフ―引用者注〕「そう! その笑顔を手品師も見たかったはずです。その笑顔を見るために、大劇場への出演を断り、男の子一人のために手品をしたのかもしれませんね。大劇場に行けば、お金や名誉は手に入ったかもしれません。でも、人として大切な誠実な気持ちをどこかに置き忘れてしまうことになったでしょう。今、手品をやり、みんなの笑顔を見たとき、手品師の気持ちが少し分かった気がしました。人との約束を守り、その人の期待に応えることの大切さ。逆に君たちから学ばせてもらいました。ありがとう」〔と結ぶ〕



 この資料から道徳について考えるときには、あくまで手品師のとった行動は善であることが前提となっている。それを批判するような見解を子どもがしたとしても、「約束を守ることの大切さ」という観点から子どもにその問題解決的姿勢に対して反省を促し、手品師の行動=善という解釈へと到達させなければならない、というのがこれらの実践から読み取れる学校現場の姿勢なのである。だから正直、教師は苦労するだろう。最後の、教師自ら手品を子どものために訓練して披露するというところまでいくと、もはや滑稽ですらある。
 「自分が同じ状況に置かれたらこうするのにな」と子どもが(あるいは、授業者自身が)思ってもその姿勢は許されず、およそ現実離れしたこの物語の世界に没入して、登場人物のとった行動に対して共感することしか許されない。“たとえ、心の中では違うと思っていても、教師が期待する発言を先回りして応えること=上の人間の意向に沿うのがこの社会では望ましい”という認識を子どもに植え付つける実践内容である。
 それは上述の答申に示された見解とは正反対のものであることに、当該教師たちは気づいているだろうか。



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今年度新入生への手紙

 初年次教育の担任をすることになった時は、その最初の授業で学生たちに手紙を渡すようにしている。
2011年度(震災の影響で、入学式が行われなかったとき)からである。
 今年度は、次のようなことばを、学生たちに送った。

     ◇   ◆

 皆さん、晴れてご入学おめでとうございます。心からお祝いいたします。
 さて、新入生の皆さんには、ぜひこの1年間、次のことを目標にがんばってもらいたいと私は願っています。それは、「この1年をかけて、大学生になれ(そして、4年間を通じて1年のときからは想像できないほどの別人に成長してほしい)」ということです。「何を言っているんだ。もう、立派な大学生じゃないか」と思うでしょうか。たしかに、肩書としては、皆さんは「大学生」になったわけです。しかし、その肩書きが社会的にみていかに有り難いものであるかということについては、まだじゅうぶんに理解していないでしょう。それは充実した大学生活を過ごして後にはじめて理解されるものです。

 皆さんは「学生」という肩書を名乗って、これからの4年間を送る権利を得たわけですが、これは「児童」「生徒」として過ごしてきた高校までの学校生活とは、決定的に異なる意味をもっています。
 大学には、高校までほど厳しい校則はありません。学習内容も、自分で時間割を決定できる自由があるように、あらかじめ内容や進度が拘束されているわけでもありません。また、本学は通常、夜22時までキャンパスを開けています。授業外のキャンパス・ライフを皆さんが自由にコーディネートする時間もたくさんあるというわけです。休暇期間も、高校までより長く設定されています(ただ、年を追うごとに短くなっていることも確かです)。アルバイトをするのも、旅行に行くのも、各自の自由です。その際に「大学生である」という肩書は何ら制約にはなりませんし、むしろ皆さんの行動範囲を広げることに役立つはずです。

 ただし、自由が保障されるということは、そのぶんの責任も同時に背負うことを自覚する必要があります。いわば「自分で落とし前をつける」ことが求められるわけです。大学での留年率や退学率が高校までより急激に上がるのは、大学のこの風土が大きく関わっています。それは逆にいえば、自分の動き方次第で、払った学費分を大きく上回る成果が得られることを意味します。大学は教育研究機関であり、サービス機関ではありません。払った金額分の利益を得るといった、ケチな等価交換の原則に依拠する必要がありませんし、意味もありません。大学に通う権利を思う存分行使して、かつての自分からは想像もできないほどの変身を遂げる=人格的に成長する。それを可能とするのが、大学という環境なのです。

 大学では高校までと大きく異なる教育・学習のスタイルがとられています。講義のような知識伝達型の授業だけでなく、自ら図書館などを利用して調べ、学ぶ、探求型の学習=演習(ゼミ)や実習といったタイプの学びが(とくに学年が上がるごとに)増えるということです。それは、頭の中に知識を詰め込んでいくだけの作業ではなく、新しく知った知識を自ら使って問題(社会の事象)に働きかけていく―その過程で社会を見る眼が変わり、ひいては自分の人生観が変わる―ことを意味しています。大学での学びとは、知識付加型ではない、このようなメタモルフォーゼ(変身)を意識した仕掛けを内包しています。われわれ大学教員は、皆さんに成績をつける以上、結果を求めますが、それも単なる○か×かを答えさせるのではなく、皆さんが自力で考えた成果物(レポートや論文)について、そのパフォーマンスに比重を置いて評価します。

 2000年代以降、大学や高専などの高等教育機関を舞台とした学園ドラマや漫画・アニメがずいぶん増えました―大学進学率が増えたことも一因でしょう―が、その登場人物たちはいずれも、実験、実習、卒業制作といったかたちで、あるいは切磋琢磨できる人間関係の構築のために自主的にキャンパス構内を動き回って、自分たちのドラマを作り出しています。講義を黙って聞いている風景などほとんど描かれないでしょう。そもそも、黙って聞くだけなら機械でもできることです。録音すればいいのですから。

 授業で何を教えられたかよりも、それを一つのきっかけとして、授業以外での自主的な「学び」を充実させる。端的に言えば、「自分で考え、動く」。その自律性こそが「大学生になる」ということの本質であり、皆さんのこの4年間の充実度を決定的に左右する要素です。そのような習慣を1年かけて、しっかりと作ってもらいたいのです。

 繰り返しますが、みなさんは晴れて「学生」としてこれからの4年間(以上)を過ごす権利を得ました。しかし、名実ともに「大学生」となるのは、これからの生活次第です。

 みなさんの健闘を祈ります。

  2014年4月1日

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「教師には社会経験をさせるべき」という俗説

「教師は世間知らず」
「教師には(研修として)社会経験が必要」

 こういった意見を度々目にする。
「教員社会が閉鎖社会である」という問題を指摘しているのなら、その点には同意する。だが、そのことをもって即、上記のような批判はできない。

 そもそもすべての組織は隠ぺい体質をもった「閉鎖社会」である。閉鎖性をもたない組織はありえない。企業社会にも、官僚の世界にも、公安の世界にも、アカデミズムの世界にもある。現に、産地偽装や虚偽表示、談合、収賄などに数々の問題の隠ぺいがこれらの世界で行われてきた。一口に民間といっても、各企業人もまたそれぞれの分野に閉じた「世間」(島宇宙)に生きているだけではないのか。どこも同じ「気違い部落」なのではないか。


 そもそも「社会経験」とは、具体的に何を意味するのか。
民間企業での経験を指すのだろうか。では、その民間企業での経験とは具体的に何を指すのか。
その中身がまったくこのテの主張では明らかにされない。
 例えば、私は、茶の販売店でアルバイトをしていた。実に多くの業務を担った。顧客への配達や店での接客、ときには葬儀社の手伝いまで(なぜお茶屋が葬儀社の手伝い? それは、ぜひ読者の方々に考えていただきたい。「お茶屋はどうやって儲けているのか」の答えに結びつく一つのキーワードである)。
 私は、十分に社会勉強をさせてもらったと感謝している。だが、それらの経験が教師の職能成長にどう結び付くものとは思っていない。

 このような~おそらく教職志望学生の多くも経験しているだろう~学生時代のアルバイトは「社会経験」に入らないのだろうか。入らないというのなら、その理由は何か。

 教員養成にかかわっている私の眼からすれば、現在学校教員になっている学生たちは、学校ボランティアや学童保育、家庭教師(ときには海外青年協力隊など)など実に大学外で豊かな経験~いろいろと問題を抱えた子どもやその保護者たちとのかかわり合い~をしている者たちばかりである。民間企業への就職をめざしている学生たちより、よほど社会とのかかわりを学生のうちから持っている。その質もかなり豊かだ。例えば、首都圏の学校で起こる問題は多岐にわたる。学生たちがボランティアへ行っていたある公立小学校は、外国人の子どもが7割というところだった(昨年度で閉校してしまったが)。学生たちは、これからますます日本社会が直面する社会問題に、「社会の縮図」である学校へのかかわりを通して先取り的に学んでいるわけである。
 そんな学生たちの豊かな現場語りに対して、「世間知らず」などという批判はまったくあたらない。教員採用が試験によってなされる公平性の観点からみると、むしろ大学卒業後にいろいろな社会経験を経たうえで現場に採用されているケースもあるくらいだ(私の知る本学のケースとしては、数年間遠洋漁業でマグロ漁に出ていた人物がその後採用されたというのがある)。


 加えて、学校教員の日々の校務からして、民間と遜色ないほど濃い内容だということも、もっと認識されるべきだろう。保護者への対応はもちろん、地域住民からのクレーム処理、情報提供など、じつに高度な業務をこなしているといってよい。
そのような校務の多忙によって、本来の校務である「授業」の準備に時間が割けないのが、現状だ。


 教師の専門職たるゆえんは、まさに「授業」にある。にもかかわらず、その職能成長への視点を欠いた研修=社会経験をしろというのは、教職の脱専門職化を促すことにしかならない、非建設的な主張である。


 また、「教師に社会経験をさせるべき」という議論には、次の視点が決定的に欠けている。すなわち、実際に教師に民間企業等で研修をさせるとして、それがいったいどういう類いのものであるかをまったく考慮していないという点だ。

 民間企業の側から考えてみたとき、しばらくしたら学校現場に戻ってしまう人間に、企業利益に直結する重要な職務を任せるだろうか。結局は、パートタイマーとたいして変わらない仕事しか担当させられないだろう。企業側からしても教師の現職研修の請負などいい迷惑だというのが本音である。もし、企業側にメリットがあるとすれば、「本当に優秀な人間だったら引き抜く」という人事選考的側面か、「教育行政が研修教員の給料をフォローしてくれるのならタダで働かせられる」という利益の面くらいである。「バイト程度の研修でよいのだ」とするなら、なおさら学生時代のそれとどう違うのかという疑問が起こる。


 「社会経験の豊かな人材をもっと学校現場に」とか「民間人校長のさらなる採用を」という意見については、私は否定的ではない。学校・教師にはいろいろなタイプがあってしかるべきである。それが、児童生徒のためになる。文科官僚が現場に出張するケースも出ているが、それもよかろう。現在の教員養成・研修が過度にプログラム化され、画一的な人材養成になっている現状をみると、むしろ異なる血が早急に求められているとすら思う。

 だが、ここでも注意しなければならない問題がある。

 たとえば、「自分は複数にわたる民間企業での勤務から、豊かな経験している」などという言い分は、必ずしも採用する側からは受けがよくない。「コロコロ職を変える=移り気のはやい人が、学校現場に真摯に向き合ってくれるだろうか」と思し、「豊かな経験をなぜもっと民間企業のなかで試さないのだろう(本当は自分勝手な厄介者なのではないか?)」という疑念をもたれて当たり前だからだ。途中で企業をやめる人物を、採用側は無条件には信頼しないだろう。何かしらの不安要素があるのではと思うはずである。
 民間人校長や教育長にしても同様である。「企業社会で戦うのをやめて、なぜ学校へ来るのか」という疑念がつきつけられる。教育に対する思いをいくら語ってもらっても、採用側が専門家であれば、稚拙な主張と一蹴されてしまうだろう。

 要は、どういう肩書であろうが、「教育への深い理解」をベースとしながら(他の立場も生かして)複眼的に問題を捉えることができ、行動に移せる人物でなければ学校をよい方向へと変えるのは難しいということである。現場教師(実働部隊)や児童生徒への共感を欠いた、ワンマンで独善的なやり方で事態がよくなるはずがない。


 とくに私が心配するのは、それらの民間出身者が結局のところ、社会にいかに「適応(≒服従)」していくかという発想でしか子どもたちと向き合わないという可能性である。「これからの国家・社会の要請に応えるグローバル人材」云々などの主張も、私からいえば同類である。例えば高校で、ある教師が「労働法」の授業を通して「労働者としての権利」について生徒に学ばせたとする。最低賃金の問題や労働条件の問題などに対しては、とくにアルバイトをしている生徒は積極的になるし、実際にこうした実践は行われている。

 民間企業の経営経験がある人間なら、もしかすると「そんなことを教えるんじゃない」と言ってしまうのではないか。もちろん、それは教育内容に対する過度の干渉である。「教育への深い理解」を有しているのなら、教育がそのような、単に社会適応的な側面だけではなく、自分たちにとって住みやすい社会を「創造」していく~言い換えれば、現状への「批判」ができる~人材育成の役割も担っていることにも視線を注ぐべきである。


 つまり、自分もその一員であった企業社会への自己批判ができる人間でなければ、誰が学校現場に入ろうが一緒だというのが私の結論である。「社会経験のある人間」なら、多様な視点で物事を考えることのできる高度な社会認識をもっているはずである。あたかも私怨のかたまりとしか思えない学校非難をくり返すしか能のない人は、現場には不要である(端的にいえば、「一般企業では、こんなことはありえない」としか言えないような人間である。「一般企業」と学校は違って当たり前だ。なぜ一般企業の論理をそこに導入しなければならないのか。問題はそこだ。「適応(≒服従)」という観点からしか理由が導けないのなら、まったく意味がない)。

 とかく、日々の授業と「子どもの成長」とは名の社会適応の面ばかりに問題関心が集中してしまいがちな現場教員に対して、広い視野を持たせてほしい。これからわれわれがめざすべき未来像(グランドデザイン)や、あるべきシティズンシップをこそ示してほしい。

 私が教育現場への外部登用に期待する点があるとすれば、まさにこのような高度な社会認識を有する人材が確保されることが前提である。

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新科目・教職実践演習を担当して見えてきたこと

 4年制大学で、今年度から教職課程に本格的に導入された「教職実践演習」(4年次後期、教育実習後)。
 自分は昨年度の試行段階から関わっており、今年度が2年目だった。中・高社会で学生たちをまとめた後、さらに3グループに分け、1グループ2名の教員によるティーム・ティーチングで担当した。次年度も同じく担当予定である。
 昨年度の試行段階(パイロット版)では、教員採用試験の一次合格者を対象として実施した。だから、指導協力を仰いだ学校現場からも受講学生たちに対して高い評価をいただいた。
 今年度以降は、去年とは異なり、教育実習を終えたすべての4年生が受講対象であった。昨年までとは大きく事情が異なる。
 当然ながら「免許だけ」という学生も履修するので、受講者のレベルは格段に落ちる。とはいえ、それは想定内のことである(ちなみに、教育実習を終えているにもかかわらず、この科目を履修放棄した学生が複数いる。「内定が決まったから」という理由で辞めていく学生たちである)。
 今回、本格的に授業を担当して気づいたのは、彼らが実習先でどんな指導を受けてきたのかが透けて見えてしまうということである。率直に言えば、「彼らは実習先で指導教諭からほとんど指導を受けてこなかったのではないか」―。それが透けて見えるのである。
 彼らに研究授業で実施した授業を、実践演習内で再度行ってもらったのだが、そのレベルたるや、我が目を疑うほど残念な内容である。教科書の言葉(not社会的事実)をただただ覚えさせるだけの(それも説明内容は不正確極まりない)展開である。
 〈3年次に教科教育法で教えたことは、いったい何だったのか。まるで成長していない……。〉
 そして、そんな指導案・授業について「指導教諭からはどんなことを言われたのか」とこちらが質問しても、学生たちからは明確な回答がない。そんなにうるさく言われていない、と答える。場合によっては「研究授業に、ほかの先生が見に来てくれなかった」というケースもあり、その後の批評会でも活発な議論が行われなかった、と彼らはいう。
 ここから想像できるのは、次の二点である。
①指導教諭は、辛抱強く学生に指導した。しかし、それが学生には伝わっていない。
②「教育実習公害」と揶揄される状況下、教育実習生に対し熱心に指導する時間的余裕など今の教育現場にはない。毎年毎年レベルの低い実習生にうんざりしているし、そもそもこの学生は真剣に教壇に立つ気はないし、その段階にも達していないのだから(お互いの幸せのため)適当に付き合う。
 おそらくどちらもなのだろう。以前、日本教育新聞には次のような記事が出ていた。

「東京都のある小学校長は以前、実習生のマナーの悪さが目に余り、大学側に注意した。/学校に短パン、サンダル履きで登校する。あいさつができない。指導案の書き方を知らない。繰り返し遅刻する。しかし、大学側から返事はなかった。/『社会人としての基本的なマナーが学生に身に付いてなかった。それで会社を訪問するのだろうか。大学側の事前指導の質に格差があるように感じる』/高松市の中学校長は『大学の指導教官からの指導は一切期待していない。校長や教頭も加わって、教員の仕事の基本を教えている』と話す。」
「……一方、学校現場からは実習生への指導力の低下を打ち明ける声も聞こえる。『以前はベテラン教員が丁寧に指導できたが、学習内容の増加や若手教員の割合が増えたことで、学校現場に余裕がなくなっている。経験の浅い教員が指導せざるを得ないときもある』(東京都の公立小学校長)。」
 「なんでこんな学生を実習に送り出したのか」という現場からのクレームは、毎年ある。それに対しては、大学側はただただ頭を下げるしかない。
 そもそも、教育実習は、根本的に大学のマターであって、学校現場はそれに協力してくださっているありがたい存在である。あくまで、問題の根本は大学にある。「これ以上は面倒見切れません」と現場から言われれば、仕方なく引き下がるしかない。
(※ちなみに、自分の勤務校では、GPA-Grade Point Average-による履修基準を設けているので、教育実習に行くことのできる学生の質=学力レベルはある程度保障されていると言いたいところだが、それでも実際は問題が生じているのが現状である。基準をクリアできている学生といってもあくまで本学の中での相対評価で「よい」ということであって、他と比較すればまだまだ条件として「ゆるい」ということなるのだろう。だが、それ以外で問題を起こす学生もいるので、教職センターでは事後処理に追われている。具体的にどんな問題が起きているのかは詳しく述べないが、未来の実習生へのアドバイス的に述べるなら、例えば、教育実習に行く予定の学生には、実習先の生徒(とくに異性)と学校以外で個人的に会うような隙をつくらないよう注意してほしい。今の御時勢、別の生徒がその場面をスクープし、画像におさめてSNS上で話題にするといった問題に発展する可能性がある。)
 先に、「研究授業に先生方が見にきてくれなかった」という学生のコメントを紹介した。確かに、小学校に比べると、中・高と上がるにしたがって実習生に対する指導的雰囲気が冷たくなっていくようすは、実習校を回っていて感じ取ることができる。それは何も実習生への指導に限らず、日々の校内における教員の同僚性・協働性の構築の充実度とも関連していると推察する(中・高と上がるにしたがって、教科ごとの教員グループに閉じこもるので、同僚性・協働性の充実度は下がっていくであろう、ということ)。
   ■  ■
 
 教師はまず授業で勝負できなければならない。しかし、その力量がまだまだ学生にはついていない。
 とすれば、(とりわけ本学における)「教職実践演習」でやるべきことは明確である。
 すなわち、「授業批評」に力を入れていく=実習先でできなかった分、ここで時間をとって(心を鬼にして)学生にダメ出しをするということである。
(※本来、実習校を大学教員が訪問して担当学生を指導するのが理想だが、全国各地の出身校で実習を行う学生を指導するというのは、体がいくつあっても足りない。)
 本学実習生の弱点が「学力」にあることは、すでに前から指摘されてきたことである(といっても、現場の先生と話をしていると、偏差値の高い大学の学生でも「学力」レベルでダメなことが多いらしいので、レベルを問わず学生の「学び直し」を促していく必要性があるだろう。学生時代の自分をふり返っても、そう言える……)。
 実習に行く段階になっても、知識不足=授業力不足が充分に克服できていない。そして、学生自身が(実習が終わった今も)そのことを十分に自覚できていない。それを痛感させる批評を(猛烈な虚脱感に襲われつつ)行うことに時間をかけた、というのが今年度の現状である。来年度も基本的な方向性は変わらないだろう。
 
 「教職実践演習」は、教職課程の総まとめの授業として位置づくものであり、現場に出ても問題ないよう、(教科指導にとどまらず、学級経営や生徒指導など)自身の実践的指導力の到達度を、これまでの教職課程での学びを振り返りつつ総合的に確認するもののはずである。しかし、そんな高尚な段階にまでこの授業を到達させることは困難だろう。
 実際は、教育実習生が実習先でかけてきたであろう数々の迷惑を可視化する装置として機能し、「おい、頼むからしっかり反省してくれ」ということを演習担当教員が説教する時間となっているのではないか。
 この授業に意味がない、と言いたいのではない。むしろ、逆である。学生の実習成果、そして教職課程での学びの成果を可視化し、いやでも大学側に突きつけるという意味で、この科目には意味がある、というのが授業を担当しての個人的見解である。
 


 「大学はもっと熱意をもって学生に指導しなければならない」と言われればそれまでなのだが、現在の大学は、かなり学校現場を意識したカリキュラムを組んで「やりすぎではないか」と思えるぐらいの丁寧な指導をしている、というのが私の実感である(本学だけかな。実務家型教員の割合は異常に高い)。実務家型教員は増え、現場を理解する授業も増えた。学生の合宿なども行い、正課外の学習指導にも乗り出した。学校インターンシップの仲介も行い、教採に受かった学生の入職前学習会まで企画する―。
 

 あまりプログラムでがんじがらめにしてしまうと、かえって学生の自律性や創造性が育たないのではないかと思うくらいだ。「学生を鍛える」というスローガンのもと、彼らの主体性が画一化・均質化へと向かっていく=戦前から揶揄されていた「師範型(タイプ)」的な教員気質に収斂していくのではないかという不安を覚えているのも確かである。

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[リンク]国定道徳教育教材『私たちの道徳』

■道徳教育用教材「私たちの道徳について」@文部科学省、2014年2月14日

 文部科学省編『私(わたしたち)たちの道徳』(小学校1・2年生用、小学校3.4年生用、小学校5・6年生用、中学校用の4冊)が、2月14日に公表された。約9億円もかけた代物で、以前の『心(こころ)のノート』と比較して約1.5倍の頁数になっている(中学校の場合、以前の『心のノート』全144頁から私たちの道徳』全240頁に増量。1.666…倍になった。各頁の文字数も増えているので、情報量としてはかなり充実したといえる)。平成26年度から使用する教材として、全国の小中学校に配布される。

 本の冒頭には、お節介にも「家庭で―家の人と話し合いながら」「地域で―地域の人と交流しながら」といった、学校以外での「この本の使い方」が記されている。学校外でも使える教化資料というわけである(でも、うまい使い道あるだろうか?)。

一瞥して、「使いづらい」と、多くの教師は思うのではないか。
そう思える理由はいくつかあるが、私が「これはだめだ」と思ったのは、各トピックの最後にある記入欄だ。「感じたこと、考えたこと(を書いてみましょう)」という欄がある。中学校用だと、この欄(ほんとに簡単に、「感じたこと、考えたこと」とだけ書いてある)が頻繁に登場する。


 私は、担当科目「道徳の指導法」で、「『感じたこと、考えたことはありますか』というのは、一番ダメな発問だ」と学生に注意している。「別に(ない)」と言われれば、それでやりとりが終わってしまうからだ。「道徳は答えがないんだから、何かを感じさえすればよい」という発想は、最終的に「生徒に読ませて終わり、書かせて終わり」「生徒に言わせっぱなし」という「勘違いのオープン・エンド授業」に帰結する。実際、そうなってしまう受講生のレポート(「道徳の時間」の学習指導案)が多かった(その背景にあるのは、指導方法云々ではなく、それ以前の教材研究不足にあるということは以前のエントリでは述べた)。
 そもそも、読み物資料を読んで学べるのは、道徳に関する「文字で学ぶ知識・情報」であって、イコール道徳ということにはならないだろう。
 資料を読んで、とりあえず「何かを感じなければならない」というのなら、生徒はとりあえず頭に浮かんだ言葉を並べてそれで終わってしまう。だが、それでは、生徒の思考や学びが深まる授業にはならない。生徒が「何かを感じる(ある気持ちになる)」、あるいは「何かを考える」ためには、その前段階として「何かを知る」という作業が必要となる。知識と道徳とは、そう単純に切り離して考えられるものではない。
 この点、宇佐美寛氏が何度も述べているように、まずは「多様な事実認識を保障すべき」であって、そのうえでなければ、何かを考えさせることも感じさせることもできない。そして、多様な事実認識を保障するためには、一つの道徳教材・資料の中の世界だけにとどまっていてはいけない。道徳とは本のなかの問題でも心の問題でもなく、われわれが生きる社会の問題である。道徳が「社会的状況における意志決定のあり方」を指すと捉えるならば、本のなかの世界ではなく、現実の社会的状況を詳細に観察することのほうが重要である。
 下村文科相は、「教師が一方的に教えるのではなく、あるべき道徳を子どもに多様な角度から考えさせる内容にした」と、14日の記者会見で語ったようである(『朝日新聞』2月15日)。だが、本当に「多様な角度から考えさせる」ためには、『私たちの道徳』が示すのとは別の、たくさんの視座を、教師がさらなる教材を通して生徒に保障する必要が出てくるだろう。『私たちの道徳』が出されてもなお、まだまだ教師の実践上工夫できる余地がたくさんある(教師の創意工夫なくしては、道徳教育の現状は何ら変わらない)。
 現場の先生方には、この『私たちの道徳』だけに寄りかかった授業だけはしてもらいたくないし、教員養成の現場にいる身として、引き続き学生の教材研究への意識を高める授業を展開していきたい。また大学に身を置く立場として、『私たちの道徳』の内容の検討を深めていく予定である(学生との考察を深めたい)。

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[テレビ]TOKYO畜産ガールズをみた

(番組概要)
■TOKYO畜産ガールズ〜牛と豚と女子高生〜(再)
2014年2月13日(木) 02:29〜03:29 放送(2014年2月12日(水) 26:29〜27:29 放送)
東京都で唯一『畜産科』がある瑞穂農芸高校。今なぜか女子に大人気の『畜産科』…都会の女子高生が泥と糞と汗と涙にまみれ命と向き合う記録 (語り:TARAKO) 
 
      ◆


 再放送だったのか。
 五輪放送を見ながら夜なべを、と夜更かししていたのだけど、何げにチャンネルを回していて、この番組が目にとまり、そのタイトルに惹かれて途中からみはじめた。

 道徳教材としてもすぐれた番組だと思う(録画してなかったことを後悔するほど)。
以前テレビで放送され、映画化もされた「ブタがいた教室」よりも、内容的におもしろいのではないだろうか。
 個人的には、そんな感想をもった。


  登場人物は、畜産を専門に学んでいる女子高生たちである。
彼女たちは牛・豚を、「出荷する」ために、懸命に育てる。
結論は最初から「殺して食べてもらう」ためと、決まっている。
それが日常であり、学校のカリキュラムなのである。

 子ブタの去勢手術の実習もする(去勢すると、きれいな霜降り肉になりやすいという)。

ただ「殺すため」ではない。いかに「おいしい肉」を生産するか、という立場から、かわいい子ブタの「生」を操作することを、生徒たちは学ぶ。
 だが、そんな彼女たちからは悲壮感のようなものは感じられない。
明るく、そして真剣に「動物の生き死に」に向き合っている様子は、みていて清々しい。

 彼女たちの先には、肉を消費する、われわれ一般市民がいる―。
「命をいただく」という日々の行為の社会的背景や、われわれの食生活に欠かせない、畜産に従事する人々への理解=「他者認識」を豊かにするうえでよい映像資料だと思う。
(ちょうど、大学で教職科目「道徳の指導法」を教えている身としては、そういう眼で見てしまうところがある)。

      ◆


 女子高生たちは自分の担当する牛・豚に名前をつけていた。これに対しては、批判する人も出てくるだろう。「家畜に名前をつけてはいけない」と。実際、「ブタのいた教室」や、情熱大陸でクローズアップされた福岡県の高校教師の指導に対して、そのような批判がネット上で散見されたことは、自分も確認している。


 しかし、番組での彼女たちの活動をみれば、その種の批判が些末なものであり、また「動物の生き死に」の現実から目を背けたものの言いぐさでしかないということに気づくだろう。

 そもそも家畜を育てるという行為自体、ペットを飼うのと同様、その動物に対する愛情がなければできない行為である。たしかに、名目は「よい肉、よい製品にする」ことである。だが、その目的を達成するためには、それこそ犬や猫のような愛玩動物よりはるかに手間のかかってきつい、かつ高度に専門的な作業が求められるのである。それを、生徒たちはこなしている。
 その実態を知れば、「家畜の名付け」など、些末な問題であることがわかる。

 たとえ、名付けようと名付けまいと、彼女たち=生産者・畜産家の家畜に対する愛情をもったかかわりがなければ、われわれ消費者に届く、良質のお肉は生産できないのである。「トウキョウX」のようなブランド種なら、なおさら、手塩にかけて育てるこだわりが必要になる。
  また、そんな単純に、動物を「ペットだ」「家畜だ」とを切り離して捉える判断をすることなど、その動物たちを育てている状況ではできないだろう。どちらも「動物の生」に真摯に向き合っているかぎり、そこに区別はつけられない。

 牛・豚の出産立ち合いや子豚の去勢実習のシーンなど、番組中には生々しい映像もでてくる。それらは、「ペット」だ「家畜」だという人間側の勝手なラべリングには左右されない、「動物たちの生」がはっきりとそこに息づいているのだという厳然たる事実を視聴者に突きつける。

 人間の都合や矛盾を背負った家畜たちの生と向き合う女子高生たちの実直な姿をみて、以上のことに改めて、考えが及んだ次第である。


 出荷のためにトラックに牛を乗せる別れのときの生徒のふるまいには、名残を惜しむ気持ちは感じられるものの、動揺は見受けられない。
 むしろ、「動物の生」とたしかに向き合ったという芯の強さを感じ取ることができた。

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