丸山眞男の教員社会への認識

■丸山眞男・宮原誠一「教育の反省」(平石直昭編『丸山眞男座談セレクション(上)』岩波現代文庫、2014年。原典は1948年9月『教育』9月号、世界評論社)

 書店で何気に手に取った一冊だが、冒頭の対談が目に留まり、即買いを決めた一冊。 
 内容がびっくりするほど色あせていない。最近、大学改革をめぐって「実践的な職業教育」の位置付けがいろいろと議論を読んでいるが、この問題に関する論点も、すでに戦後まもなくのこの時期に鮮やかに明示されていたことがわかる(対談の相手が宮原誠一だというところで推察していただきたい)。これについては、ぜひ別の機会に触れてみたい。
 自分がこの対談を読んで驚いたのは、宮原ではなく丸山眞男が明治以降の日本教育史について雄弁に語っていることだった。
 現在自分が関わっている科研で大きなテーマとなっている教育会と教員組合の問題についても、まさに同時代的に捉えた実態を語ってくれている。
 以下、ちょっと長くなるが、その部分を引用してみたい。もちろん、丸山のしゃべっている部分である。この部分には、「教育者の教養」という小見出しが付されている。


……教育者としての側に問題を移してみると、なかなか大変なことだと思います。つまり教育者の使命というか、そういうものについて何かやはり従来と違った新しい考え方が確立されないと、観念的に新しいタイプの人間をつくる教育をするといっても、教育者自身がペスタロッチやヘルバルトは読んでいるけれども、自分の周囲の日常的な問題を科学的に処理してゆく能力がないような人ならば、とうていそういう教育をする資格がないと思います。そういう場合にはやはり一方では、教育者としての自覚と、それから他方では民主主義国家の市民としての自覚、そういうものがどっかの点で統一されなければいけないのじゃないかということを非常に感ずるのですよ。
 というのは、去年或る県に行って、そこの教員の人達といろいろ話をして感じたのですがね、そこでは教員組合とそれから教育会の間にいろいろなごたごたが起こっている。といっても、平メンバーは両方に所属しているので、結局両方の幹部の間の問題なんですが、その場合教育会の方は幹部の人は大体校長とか教頭とかで、そういう人は師範出が多いんです。こういう人の傾向は大体保守的ですね。それに対して教員組合の方では相当ラジカルに批判する。そこはたしかに、教育界のボスの排撃という問題もあるのですが、単にそれを進歩的なものと反動的なものとの争いといい切ってしまえない別の側面があるのです。というのは、師範出のうちの真面目な分子は、とにかく自分は教育者であるという一つのプライドを持って教育に対して一つの使命感を持っている訳ですが、ところがこの使命感が非常に観念的で、教育者が待遇問題にあくせくするのは、およそ教育者の誇りを失ったものだと頭からきめてかかり、教員組合の経済闘争にだいたい冷淡である。ところが他方今度教員組合の幹部の急進派には師範出の人が比較的少い。その県で最も急進派として活躍していた人は小学校ではなく旧制中学の先生です。中学の先生にはむろん皆が皆そうではないけれども、教師を職業として選んだということがそう必然的なコースではなく、いわば他のいろいろな職業につき得るけれども、いろんな事情で、教員になったに過ぎない人もいる。だから教育者の使命感というようなものはそれほど痛切に意識していないんですね。そういう人は教育者といえども労働者だというような考え方をスムーズに受取る。教育者だって労働者だということは当然なんですが、しかもなお教育者であるという面はうっちゃりにして、我々も労働者だという一般命題に還元してしまうのです。そうすると、どうしても教員組合の指導の仕方、やり方がやはり一般の労働組合の場合と変らなくなる。そこに少しも特殊性が出てこないということになると、これは教育についてともかく或る一つの使命感をもっている人々を反発させてしまうのです。いきおいこの人々はますます観念的になって、結果として反動的な役割を演じている。他方、教員組合の急進派はまたそれに反発して、悪い意味でマテリアリスティック〔唯物論的〕に走る。こうして教育の使命とか理想とかいうことと、教育者の生活要求とが、口ではともかく実際は一向に媒介されないで、ますます天上的なものと、ますます地上的なものとに分裂して行くのです。
 むろん私のいい方はちょっと大げさですが、今ではきっと、ずっとよくなっていると思いますが、ともかく、そこでやはり従来師範学校出のいわゆる教育者としての使命感、そういうものの狭隘さはやはり破らなければいけないと思うのですけれども、その場合、ただ枠が外れたというだけではいけないので、そこに教育という社会的使命にともなうモラルが当然なければいけないのじゃないか。民主主義国家の一市民としての自覚を、どういうふうに教育者の生活の中に生かしてゆくかということが、大きな問題じゃないかと思うのですけれども…… (17-20頁)


 この「或る県」がいったいどこを指しているのかは不明だが(どこでしょう? 多くの県では「ごたごた」になる以前に、割と静かに、構成員そのままに教育会→教員組合へと移行していると自分は認識しているのだが……)、いずれにしろ、丸山がここで語っていることは、これまで教育会史研究が蓄積してきた知見と関わってじゅうぶん納得できるもので、それだけに興味深い。

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[リンク]日本教育史の調べ方

■「日本教育史の調べ方」リサーチ・ナビ @国立国会図書館


 こんなのがあるんですね。
日本教育史に関心をもつ学生を研究へと誘う最初の情報提供として有効活用できそうである。
 もっとも、教育制度やカリキュラム、あるいはスポーツなどの専門的課題についても調べ方が指南されているので、そちらに関心をもってかれそうではあるが。

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学校建築を見るべきだってか

◇京都では学校建築を見るべきだ @nifty:デイリーポータル

◇東京でも学校建築を見るべきだ @nifty:デイリーポータル

 こういう擬洋風の歴史的学校建築(いずれも大学)をみていると、当時の人たちが、いかに進んだ文明に心酔し、本気でその様式や技術を取り入れようとしたか、どれだけ本気で新しい知に学び、その世界を再現しようとしたかが伝わってくる(と同時に、理念に欠ける勤務校の建築を嘆く…。やはり、空間の神聖性に配慮することも大事だ。)。

 最高学府である大学は、まさに進んだ知や文化を取り入れる最先端の現場だった。
 今では、皆あたりまえのように使っている「教師」という言葉。今や、全国には百万人を越える数の学校の先生がいるが、もともと「教師」という肩書きで呼ばれた人たちは、欧米から招聘した御雇外国人だったといわれる。
 わざわざお招きした彼らの習慣に合わせて、大学の慣行も形成された。
 一足制(下足のままで建物に入っていいという大学だけの学校慣行はなぜあるのか)、日曜日が休日、夏休み……。今では、あたりまえのように日本人もこなしているこれらの習慣(一足制は除く)もすべて、もともとは彼らの生活習慣に合わせて設定されたものである。

 そうまでして、貪欲に進んだ文化を取り入れ、また自ら体現してやろうという気概が、建築を通して表出されているように感じる。

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ある授業での、学生からの感想

 日本教育史の授業を通じて、自分の無知さに気が付きました。歴史上の人物の写真を見ても誰 なのか分からず、設問にも全く正解することができず、反省点は多いです。しかし、この授業で 1人1人の思想や、改革内容に触れることができ、暗記ではなく理解することができました。教 育学的視点から歴史上の人物を見ることも、新鮮で面白かったです。  また、佐藤先生の授業を1年間受けてきて、先生自身が努力をしていることに気が付きました。 授業前の事前調査で学生の知識量を測ったり、講義形式ではなく双方向的な授業を展開したりす る先生を、私は佐藤先生以外に知りません。きっと準備には、手間も時間もかかっていると思い ます。ただその分、先生の授業から得たものは大きいです。授業内に配布・提示された豊富な資 料だけでなく、先生自身の見解を問く機会も貴重な財産になりました。また、厳しいイメージの ある先生ですが、実は親切で優しい方だということも知っています。  本当に学び甲斐のある授業でした。受講を許可してくださり、更に提出物の添削までしてくだ さったことに心から感謝しています。後日機会があったら、研究室にお邪魔させていただくかも しれません。そのときは、いろいろお話を聞かせてください。いつか私も、先生と同じ世界が見 られるように頑張ります。(心理学科・Uさん) 

 別に、「感想を書け」といったのでもない。しかも、授業を受けても単位が出ないにもかかわらず、自由聴講で15回もの授業に参加し続けた学生が書いてくれた感想文である。
 まさに、教師冥利に尽きる。補習や添削、教員採用の対策指導などで、10数年前の大学教員から比べれば数倍のオーバーワークを強いられているストレスフルな条件下での、このような学生の評価は、給料何カ月分にも値するほどの充実感を与えてくれる(いや、だからといって給料要りませんというわけではないけど)。
 そして、見ている学生はしっかりと見ているのだと改めて痛感させられる。「研究者」としての側面が強いとはいえ、「教員」でもある以上、授業も疎かにはできない。   

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繰り返す「天罰」論

■清水幾太郎「地震のあとさき」(『清水幾太郎全集14 わが人生の断片』講談社、1993年、168-184頁より)


 私の一生のうち、中学に入ってからの二年あまりの期間が、一番仕合せであったと言えば言えるように思う。幸い、家の商売は順調であったし、学校は万事ノンビリしていた。しかし、仕合せな期間は、大正十二年九月一日正午に終った。私は、一生のうちで最も大きな経験にぶつかることになった。
 二学期の始業式を終えて家に帰り、裸のような姿で昼飯を食い、食い終ったところへ烈しい震動が来て、家は簡単に潰れ、外出していた父を除いて、私たち一家は、潰れた二階家の下敷になってしまった。私たちが死ななかったのは、落ちて来た天井が卓袱台で支えられたお蔭である。高さ三十センチくらいの卓袱台が僅かに残してくれた小さな真暗な空間は、周囲の壁土が崩れたため、呼吸が困難であった。私は狂人のようになっていた。何分間か、夢中で上へ上へと天井や屋根を毀して行った。毀して行くうちに、小さな穴が出来て、強い日光が射し込んで来た。その穴を大きく拡げて、そこから屋根へ這い上り、一人一人、家族を引き上げた。巡査の勧告か命令かに従って、妹と上の弟とを近くの小学校に預け、父が帰って来るのを待って、火に追われるままに、工場の廃水で出来た泥沼を渡って、東京府下亀戸町の方へ逃げた。これで、私たち一家は、完全な無一物になった。

  …(中略)…

 授業は、十月一日に始まった。九月一日に始業式が行われたのだが、地震のために授業の開始が延期されていたのである。十月一日という日は覚えているが、その日、何処から学校へ行ったのか、これは全く覚えていない。九月一日の後、千葉県国府台の兵営に暫くおり、それから、小松川の荒川放水路に近い知人の家に身を寄せ、その後、本所の焼跡に焼けたトタン板でバラックを作って住んだり、浅草の母の実家の焼跡のバラックへ移ったり、また、本所の焼け跡に新しいバラックを作ったり……とにかく、あちらこちらへ移動しているうちに授業が開始されたのである。

  …(中略)…

 今までと同じように、私は、同級生を校庭に整列させ、号令をかけようとした。ところが、私の姿を見て、彼らはドッと笑った。相手が笑ってしまっては、いくら大声を張り上げても、号令は徹底しない。私は、馬方の被るような大きな麦藁帽子を被り、ゴム足袋を穿いていた。着ていたのは、夏物のシャツであったろう。これらの品物さえ、苦労して手に入れたものである。笑っている仲間は、九月一日以前と全く同じの制服制帽で、そうでないのは、級長の私だけである。学校へ来るまでは、多くの仲間が私と同じ運命に遭ったものと曖昧に想像していたが、来てみると、山の手の少年たちは全く無疵である。九月一日は、私にとってだけ存在し、彼らにとっては存在しなかったようである。笑い転げる仲間に号令をかけながら、私は腹が立ち、恥ずかしくなり、悲しくなった。
 第一時間目の授業は、野村先生担当の「修身」であった。「起立! 礼!」と私は号令をかけた。先生は何もおっしゃらずに、黒板に「天譴」(てんけん)と大書され、更に、「天物暴殄」(てんぶつぼうてん)と大書された。前者は「天罰」というような意味であり、後者は「贅沢三昧」というような意味である。つまり、地震は、私たちの贅沢三昧を戒めるために下された天罰である、というのが先生のお話の大意であった。もし私が仲間から笑われなかったら、私はお話を黙って聞いていたかも知れない。しかし、私は、平静な気持ではなかった。いや、仮に笑われなかったとしても、もし先生の説明を受け容れるならば、このクラスで私だけが天物暴殄の罪を犯して、私だけが天譴を受けたことになるのではないか。私は、先生の説明が一段落つくのも待たずに、右のような趣旨の質問をした。先生が何とお答えになったかは覚えていない。何とお答えになったとしても、私は「天譴」および「天物暴殄」という観念を受け容れることは出来なかった。しかし、もし野村先生御自身が焼け出されたり、御家族を失ったりして、それでも、「天譴」や「天物暴殄」のお話をなさったのなら、私は強く反対しなかったであろう。しかし、先生は何の被害も受けていらっしゃらなかった。
 「天譴」は、野村先生のオリジナルな見解ではなく、あの頃は、誰も彼も「天譴」ということを説いていた。初めに説いたのは、渋沢栄一子爵であったらしい。ケンドリックの『リスボンの地震』(T.D.Kendrick, The Lisbon Earthquake, 1956)という本を読むと、あの時も、「天譴」(visitation)という観念を用いて地震の意味を説明する試みが大いに行われていたようである。しかし、そういうカトリック教会側の神学的説明に対して、ヴォルテールたちは、反教会的な現世的な説明を試み、それによって、やがてフランス革命へ通じる啓蒙思想を発展させて行ったのである。単純な自然現象に過ぎないリスボンの地震は、それに外部から与えられた意味によって、フランス革命を用意し、長く歴史に残ることになった。関東大震災は、終にヴォルテールを持たなかった。その代りに持ったのが、芥川龍之介であった。

 「……この大震災を天譴と思へとは渋沢子爵の云ふところなり。誰か自ら省みれば脚に疵なきものあらんや。脚に疵あるは天譴を蒙る所以、或は天譴を蒙れり思ひ得る所以なるべし。されど我は妻子を殺し、彼は家すら焼かれざるを見れば、誰か又所謂天譴の不公平なるに驚かざらんや。不公平なる天譴を信ずるは、天譴を信ぜざるに若かざるべし。否、天の蒼生に、―当世に行はるる言葉を使へば、自然の我々人間に冷淡なることを知らざるべからず。……自然は人間に冷淡なり。されど人間なるが故に、人間たる事実を軽蔑すべからず。人間たる尊厳を抛棄すべからず。人肉を食はずんば生き難しとせよ。汝とともに人肉を食はん。人肉を食ふて腹鼓然たらば、汝の父母妻子を始め、隣人を愛するに躊躇することなかれ。その後に尚余力あらば、風景を愛し、芸術を愛し、万般の学問を愛すべし。誰か自ら省みれば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両脚の疵、殆ど両脚を切断せんとす。されど幸ひにこの大震を天譴なりと思ふ能はず。況んや天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能はず。……同胞よ。面皮を厚くせよ。『カンニング』を見つけられし中学生の如く、天譴なりなどと信ずること勿れ。」(『芥川龍之介全集』第八巻、岩波書店、昭和十年、二六六頁以下)


 震災を「天罰」とみなす人間は、実際に被災した人たちの深刻かつ“多様な”現実に思いを馳せることなく、早急かつ短絡的に特定の「私たち=日本国民」の物語へと彼らを回収してしまうのだろう。そうした言辞によって、他ならぬ「日本国民」(=被災者とその周辺の人々)が傷つくことがあるにもかかわらず。

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ある授業での失敗

 秋期(後期)の授業は1月中に終わったのだけど、それ以後も切れ目なく校務が続いていて、なかなか落ち着いて自分の研究をする時間を取れない。目下、AO入試合格者の入学前課題である論作文の添削をしているのだが、常体・敬体の混乱はもちろん、誤字・誤読、原稿用紙の間違った使い方、字の汚さなど、こちらの読むモチベーションをひたすら下げることに長けた強者答案に苦労している。
 新年度も、学生の対応には苦労しそうだ。

 ■  □  ■

 今年度担当した、日本教育史の授業で忘れられない場面があった。
 ちょうど、戦後を扱うところだった。
 1945(昭和20)年8月15日の新聞記事一面(コピー、朝日新聞「戦争終結の大詔渙発さる」)を学生に見せ、その記事を読んで「不思議な点」を答えさせるという授業だ。
 一面には、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)が載っている。日付は、8月14日だ。それが、8月15日の朝刊(当時は、紙も統制されていたから夕刊ではない)に載っている。
 しかし、我々国民が有する終戦の歴史的記憶は、玉音放送がなされた「8月15日の正午」に集中している。天皇の肉声(=決断)で、戦争が終わったのではなかったか。この(詔書の日付、15日の朝刊、そして玉音放送の時間帯それぞれの)時間的誤差をどう考えればよいのか。玉音放送の前に、国民は、戦争終結の事実を新聞等を通して知っていたのか―。

 学生には、そのような思考を期待していた。とはいえ、いきなり「不思議な点」と言われても難しいだろうから、詔書に記された日付に注目させるなどしたのだが、どうも学生の反応が鈍い。

 そこで、「終戦記念日(終戦の日)はいつ?」という発問を、目の前に座っていた学生にしてみた。ところが、答えが返ってこない。これにはさすがに驚き、「終戦記念日を知らない人は?」と他の学生にも聞くと、少なからぬ学生が手を挙げるではないか(受講生140人中、30人はいただろうか。それも、前方に座っていて自分の目に入り込んだ学生数でその惨状であり、手を挙げなかった後方の者のなかにもいたはずだ)。
 もし、ここで、「(降伏文書に調印した)9月2日ではないのか?」などといった答えが返ってくるなりしたら、そこから、「つくられた終戦の記憶」(「八月一五日の神話」)について議論できたが、さすがに、そこまでは求めていない。
 さしあたり、「8月15日」という常識をベースとして、記事の「不思議な点」を読み解く議論を展開できれば、そして、学生がその常識(ステレオタイプ)を突き放す楽しさを経験してくれれば、と思っていたが、そんな私の思惑はもろくも崩れ去ってしまった。逆に、「今の大学生の学力」の実態についてネタにできるような貴重な経験を、自分が得てしまったわけである(まあ、この種のエピソードは、他の同僚の先生方からも聞いてはいたが……)。

 ただ、フォローするわけではないけど、ある学生は、「たしか、この日の新聞は午後に配達された(情報操作された)のではなかったか」という正解を知っており、これには、救われた思いだった。一方で、そういう学生もいるわけだから、受講する学生の知識量には相当の開きがあるということである。そんな学生達100人以上を、一括りにして教えるというのは、ずいぶんと至難の業だ。

 いずれにしても、授業開始にあたっては、受講する学生の所有知識の実態を事前に調査しなければならない。そこから授業を出発しなければ。そこを怠っていたことは、反省しなければならない。
 ただ(自分の意地悪な質ゆえか)、調査するだけで、その結果を自分のなかだけにとどめるのではなく、本学の全教員が毎年度書いている(書かされている)FD授業改善報告書に載せ、広く知らしめてやろうと企んでいる。今年度は今月末〆切で書くことはもう決まっているが、来年度は―。

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「国定制へとずり落ちた」

先週土曜日は、印刷博物館での梶山先生の講演ならぬ、館長さんとの対談を聴きに行ってきた。
 対談のテーマは「日本の近代教育発展に果たした教科書の役割」。
 明治から戦後に至るまでの教科書の変遷を辿るもので、館長が進行役になり、一つ一つのトピックに先生が応答する。時折、スクリーンに当時の教科書の画像を映したりしながら、和やかに話が進んだ。
 やっぱり面白かったというか、梶山先生が一番熱っぽく語っていたのは、すでに聞き慣れていたことだけれども、先生の面目躍如たる「検定制から国定制への転換」にあたる明治後期の話だった。
 教科書国定化への流れを、内容統制という「官の力」と見るのではなく、教員・教科書に対する権威の失墜に伴う「検定制の崩壊」の結果だと捉える、通説とは異なる独自の見解を改めて先生は強調していた。文部省の側から自由採択制をめぐる議論が出されていたにもかかわらず、採択合戦をめぐる教育関係者の数々の汚職(教科書疑獄事件)によって、国定教科書へと方向転換していく。それゆえか、国定化への議論にあたっては、「教科書の中身がおかしいから、国定にしろ」といった内容統制に関する議論はなかった―、という具合だ。〈国家・官・行政・政策サイドの内容統制〉対〈現場・民・教育運動による対抗〉という二項対立図式に囚われては出てこない、史料を幅広く渉猟しなければ出てこない見解である。

 戦後の、教科書墨塗りの実態をめぐるフロアとの意見交換もおもしろかった。「地域による墨塗りの仕方の違い」(頁を切り取ってしまったり、墨塗りの頁を縫い合わせてしまったり)はなぜ出てきたのか。どうやったら調査可能か見当がつかないが、ひじょうに知りたいところだ。

 なお、梶山先生の著書、『近代日本教科書史研究』は、現在京都大学学術情報リポジトリのウェブサイトから全文読むことができるようになっている。
 
       ◇

 その夜は、大学院生時代に有志で結成した読書会のメンバーと、神楽坂で軍鶏を食べる。
楽しかったと同時に、なんか大人になってしまったなぁとしみじみ感じてしまうひと時だった。
今やメンバー全員が仕事持ちの上、仙台在住がいなくなり、東京在住が主流になってしまう日が来ようとは。
 また来年もやりましょう。今度はしっかり温泉合宿というかたちで。

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「地域の高校」存続への取組にみえる教育会的組織志向

 水曜日あたりから非常に寒い。
 居合の稽古に行ったその日の夜あたりから、喉が痛くなり、昨日、今日とかなり具合が悪い(なので、今日の居合の稽古は休みました。悪寒が走るので)。
 それでも休むことができない(今月は週末もほとんど休みなし。連休だというのに日曜から研究会)。

 昨日は高校教育調査の一環で、とある郡部の高校へ出張。
 ここは地域の住民が集って、「地域の高校」存続へ向けた“会合”を定期的に開いている。
 それは、首長、教育長、県議会や町議会の議員、地元企業の重役、地元中学校長、同窓会役員(まさに「名望家」)+同校教職員といった顔ぶれが並ぶ非常におもしろい会合で、その組織的特徴は戦前の教育会組織を彷彿とさせる。それを傍聴してきた。
 似たような取り組みは、長野県などでも行われているようだ。

 学校統廃合のあおりを受けて、そのように時代や地域の枠を越える共通性をもった組織的枠組みにしたがって、「地域の学校」を活性化させようとする取り組みが(国の政策に抗うように)自生的に展開されているというのは、「学校」という近代装置の内包する日本史的意味を示唆しているように思う。「公」教育機関としての学校は、その実、国家を代表しているのでもなければ、児童生徒・保護者といった全くの「私」を基盤としているのでもない、その中間である「公共」の空間を存在の基盤としてきた(している)ということを。
 
 上記の会合のような組織は、「地域(一部名望家)の利害に子どもの教育が左右される」といった危うさを一方で孕んでいる(だから、学校長の舵取りが非常に重要となる)。
 しかし、それを警戒して「教育の専門的自律」を掲げるあまり、逆に「地域とのつながり」という視点を軽視してきた側面もあったのではないか(「県立高校の場合など、それが位置する市町村との関わりを十分に行わず、地域の意見に耳を傾けてこなかった」といった反省が、上記“会合”設立の一因となっている)。「地域再生」という差し迫った地域固有の課題と「教育の専門的自律」といった普遍的理念、その両者のバランスをどう考えていくのか、という課題が現代の地方教育会(?)的組織を通して浮かび上がってくる。

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仙台市教育研究所に就て

 「仙台市教育研究所に就て」という1937(昭和12)年に書かれた文章がある。その見事な筆致に感動したので、ここにその一部を紹介してみたい。なお、仙台市教育研究所は、仙台市長渋谷徳三郎(宮城師範出身で「教育市長」と称された)の意向に基づき、昭和11~16年(1936~41年)まで仙台市役所内に設置された教育研究機関である。初代所長は明石女子師範附小主事で名高い及川平治であった(この文章も及川が筆を執ったのだろうか)。

「京都には児童院、少年鑑別所があり、名古屋、神戸には児童研究所がある。最近横浜にも児童研究所を新設した。けれども仙台市の教育研究所は之等他市のものとは其組織事業内容を異にし教育全野に亘る総合的教育研究所で我が国唯一の教育研究所といつてよからう。市民は之に期待するところも多いと思ふから茲にその大体について紹介する。(中略)
 渋谷市長の談話
  (中略)
 教育は時代の大勢を達観し、我が国情の特異性に鑑み之を施すべきは勿論であるが、特に仙台市の実情に基かねばならぬ。社会郷土の実情を明かにするには厳密なる科学的調査を要する。若し斯る科学的調査を欠き空漠たる意見に因つて教育することがあるならば生活と教育とは緊密なる関係を保ち難く実際生活に役立つ人をつくり得ないであらう。国民教育はどこまでも「我が国、我が地方の実情が斯々だから斯々の方針を立てた」といふ様でなければならぬ。而して科学的調査は専門的技術に属するから教務繁多なる実際家に委ねるだけでは不十分である。勿論教師には教師当然の職務として研究すべき事項も多いだらうが社会生活が益々複雑となり其の関係するところいよいよ拡くなつた今日に於ては何事も根本的に調査研究して確呼たる基礎の上に教育案を樹立せねばならぬ。それがために研究機関を特設して其の技術に熟練せる人に之を委ねる必要がある。
  (中略)
二、教育研究所設置の必要(中略)
(1)社会が進歩すれば研究機関の必設を要する。
 社会は動態である。現今の社会は複雑多岐で其生活は時々刻々に変化してゐる。(中略)我が国の実際を見ても、政治、経済、社会生活の様式は絶へず変化しつつある、家族生活の組織様式などは著しく変つてアパート生活を営む人が次第に多くなつた、是に於て「家族生活の変化と教育の関係問題」が起る。農村民の思想は交通の便利とラヂオの影響によつて漸次都市化しつつある。是に於て「農村生活と教育との関係」問題が起る。宗教の権威信仰の動揺は新しい道徳を要求する。宗教上の信仰を以て新道徳を解釈する議論さへある。古来宗教と教育とは密接なる関係を有つてゐたのであるが今は新しい問題となつてゐる。交通機関の発達は驚くべき程で無線電話、飛行機の利用まで進んでゐる。随て思想の交通、物資の運搬、旅行の方法が一変した。是に於て「交通の発達と教育との関係問題」が起る。商業の経営も亦旧態を許さず、小工商業者はチエンストアを組織してデパートに対抗してゐる。其の他、金融機関、各種の組合、政治思想の発達は益々共同、自治、責任等の教育を要求するに至つた。斯る変化に伴うて教科課程(カリキユラム)を改造し教育方法を革新せねばならぬであらう。教科課程の改造についても伝統的学科によるか、教科目別を廃止して児童の興味を中心としたる社会様式、例へば郵便局、人形遊等を採用するかが問題となるであらう。兎角現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬが不幸にして我が国には科学的調査に基いて教育案を樹立した学者は一人もないから情けない。教育の全野に亘り、児童の心身発進、新カリキユラム構成、教育方法につき専門に研究する教育研究所は必要である。
 (2)外国では教育研究所を設けて良績を挙げてゐる。(中略)
 (3)教育研究所には専門家を要する。(中略)
 (4)義務教育の年限延長は教育研究所の活動を拡充する。(中略)」

〈註〉「仙台市教育研究所に就て」『宮城県教育百年史』第4巻、ぎょうせい、1977年所収(「仙台市教育会報」昭和12年号[昭和12.3.10発行])。

 その趣旨は、今の時代にも十分通じる。とりわけ、「現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という主張には、当時の社会状況を反映した切実さを感じる。言葉の端々は違えど、現代においてもまったく同じ枠組みの議論がなされていることに気づく。「IT化・情報化・グローバル化の進展のなか、情報教育やリテラシーといった能力を育てる教育課程を設計しなければならない」といった主張が、まさにそうだろう。
 当時の急激な社会変化(都市化、生活様式の変化)、対外的状況の深刻化(アジア・太平洋戦争)が、教育改造、とりわけ「カリキュラム改造」という新たな論点を浮上させたことがよく窺える。伝統的教科が有する所与の知識体系では対処できそうにない、新たな現代的課題にどう対処するか。今の我々が直面するような教育の難題に、当時の教育関係者も大いに頭を悩ませるなか、昭和戦前期の仙台市は「社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という一つの方向性を示したのである。このような歴史は、教育の「政治化」を目論む今の自治体行政関係者に、十分にかえりみてほしい(なお、当時のこのような問題意識は、「国防」といった課題とも結びついていたわけだが)。さらに、同論説では「科学的調査」を行う教育研究所には「専門家を要する」と続けている。教育の実際家=教師だけでは、教育研究は困難であるという主張である。

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二宮金次郎像覚え書き

Kinjirou_2

以下は、しばらく前に書いたメモ。拙いです。
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  薪を背負い、手には本、それを読みながら歩くというお決まりのポーズ――。写真は、仙台市のある小学校に設置されている二宮金次郎像(石像)である。日本の学校ではおなじみだ。
 学校の隅にひっそりと佇んでいて、時に「学校の怪談」のネタにされたり(目が光るとか、歩き出すとか)もしたが、そもそもどうして金次郎像は学校にあって、銅像もしくは石像の定番として定着しているのか。
 
 二宮尊徳(金次郎)が学校教育と結びついた大きな理由として、国定修身教科書の教材として取り上げられた点が挙げられる。教科書が国定となった明治37(1904)年以降、二宮金次郎は修身教科書に登場する主流な人物の一人であった。尋常小学校の修身教科書では、彼の少年期の生き方が子どもたちの育つモデルとして取り上げられることとなった。「金次郎」の定番イメージは、まず、この教科書というメディアを通して全国に普及したといえる。
 日露戦争後の日本は物心両面で頽廃が進行し、問題への対応策として、例えば内務省は地方改良運動というかたちで、学校を「教化ノ中心」とした国民教化運動を展開していた。国力増進のために資金を国民から調達すべく、倹約と貯蓄が奨励された。それゆえに、修身科における金次郎の実直な生き方は、この時代を生きる格好のモデルとなった。
 さらにいえば、明治政府が尊徳を尊重したのには、百姓一揆の方法をとらず、決して政治を口にせず、農民自身の勤勉と倹約によって、農村の矛盾を解決した点が大きく作用している。勤勉と倹約を強調して農民の生き方を教える尊徳の態度は、施政者の側からすれば都合のよい人物であり、農民騒動をおさえこむ役割を果たすものだったといえる。
 だが、教科書に取り上げられた尊徳教材については、彼の出身地である神奈川県から、尊徳その人の実像を伝えるものではないという批判が寄せられていた。尊徳教材には多くの誤りがあり、事実ではないことが、現地の人たちから指摘されていたのである。
 この点と関わってとくに注意しなければならないことは、国定修身教科書が、いずれも貧困と悲惨な少年時代の「金次郎」のみを扱い、成人後の「尊徳」像を排除していることである。縄をない、ワラジをつくり、薪をとって売り、荒地を開拓したという勤労と倹約によって、後に「えらい人」になったと教科書は教えるが、その成功の秘密は語られることがない。金次郎の立身出世の方法の真髄とは、合法的免租であったが、修身教科書はこのことを決して教えなかった。あくまで、該当徳目(勤勉、倹約)に沿う形で尊徳を取り上げ、該当徳目を体現した模範的人物としての偉人化が図られた。それが「金次郎」の銅像ないし石像におけるお決まりのポーズへと結実していくことになる。

 金次郎像が広く普及するのは、実際には、この時期より下って昭和恐慌後の1930年代から。学校教育の文脈ではなく、むしろ農山漁村経済更生運動の展開にともなってであった。この時期に至って、金次郎は単なる少年の「手本」の範囲を超えた、いわば疲弊した農村経済の更生を支える教化運動のイメージ・キャラクターとして再登場することになった。
 像の普及は富山県の銅器製造業者たちが不況脱出のために金次郎の銅像を販売した系譜と、愛知県岡崎の石屋たちによるものとがあった(まさに報徳運動が突出して盛んだった二県)。彼らは全国小学校長会に実物を持ち込んだり、文部大臣を賛助会員とする「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織したりして営業活動を展開した。ちょうど金次郎生誕一五〇年(昭和12年)、皇紀二六〇〇年(昭和15年)というイベントと重なり、それを好機としてよく売れた。地元の学校に金次郎像を寄付するのが流行った。国にとってはいわゆる満州事変が始まるなど戦費調達のために勤倹や貯蓄の励行が求められる時期でもあり、毎日少国民に語りかける金次郎像の効果は大きかったといえる。
 昭和16年の金属類特別回収令によって、銅像のほうは校庭から「出征」していくこととなった。写真をとった小学校(昭和2年開校)に現存するものも石像であって、銅像ではない。もし、銅像であったなら現存はできなかった可能性が高い。国によって模範的な偉人に祭りあげられた「金次郎」は、哀れなことに、最後には「お国のために」身を犠牲にして(=武器弾薬と化して)消えていった。
 ところが、戦後、教育勅語や御真影が学校から退場していくなかでも、二宮金次郎像(表象・イメージ)は継承されていくこととなった。このあたりの経緯―経済更生運動のマスコットとして農村社会のなかから登場した金次郎像が、今度は戦後の経済再建への倫理的モデルとして認識された背景―はわからない。
 ただ、日常的な訓育のシンボルとして下からの高まりとしての側面をもつ金次郎の位置が、天皇というシンボルの神格化を重視する学校教育からはやや距離を有しているということは関係しているといえるかもしれない。
 
〈参考文献〉
・中村紀久二『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで―』岩波新書、1992年。
・森川輝紀「コラム 校庭に建つ二宮金次郎像」、辻本雅史・沖田行司編『教育社会史』(新体系日本史16)山川出版社、2002年。
・新谷恭明『学校は軍隊に似ている』海鳥社、2006年。

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 この記事で、ちょうど300回目のエントリ! 今後の目標は「放置プレイ」、とまではいかないが、さらに手抜きでいかせていただきます。

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