「国定制へとずり落ちた」

先週土曜日は、印刷博物館での梶山先生の講演ならぬ、館長さんとの対談を聴きに行ってきた。
 対談のテーマは「日本の近代教育発展に果たした教科書の役割」。
 明治から戦後に至るまでの教科書の変遷を辿るもので、館長が進行役になり、一つ一つのトピックに先生が応答する。時折、スクリーンに当時の教科書の画像を映したりしながら、和やかに話が進んだ。
 やっぱり面白かったというか、梶山先生が一番熱っぽく語っていたのは、すでに聞き慣れていたことだけれども、先生の面目躍如たる「検定制から国定制への転換」にあたる明治後期の話だった。
 教科書国定化への流れを、内容統制という「官の力」と見るのではなく、教員・教科書に対する権威の失墜に伴う「検定制の崩壊」の結果だと捉える、通説とは異なる独自の見解を改めて先生は強調していた。文部省の側から自由採択制をめぐる議論が出されていたにもかかわらず、採択合戦をめぐる教育関係者の数々の汚職(教科書疑獄事件)によって、国定教科書へと方向転換していく。それゆえか、国定化への議論にあたっては、「教科書の中身がおかしいから、国定にしろ」といった内容統制に関する議論はなかった―、という具合だ。〈国家・官・行政・政策サイドの内容統制〉対〈現場・民・教育運動による対抗〉という二項対立図式に囚われては出てこない、史料を幅広く渉猟しなければ出てこない見解である。

 戦後の、教科書墨塗りの実態をめぐるフロアとの意見交換もおもしろかった。「地域による墨塗りの仕方の違い」(頁を切り取ってしまったり、墨塗りの頁を縫い合わせてしまったり)はなぜ出てきたのか。どうやったら調査可能か見当がつかないが、ひじょうに知りたいところだ。

 なお、梶山先生の著書、『近代日本教科書史研究』は、現在京都大学学術情報リポジトリのウェブサイトから全文読むことができるようになっている。
 
       ◇

 その夜は、大学院生時代に有志で結成した読書会のメンバーと、神楽坂で軍鶏を食べる。
楽しかったと同時に、なんか大人になってしまったなぁとしみじみ感じてしまうひと時だった。
今やメンバー全員が仕事持ちの上、仙台在住がいなくなり、東京在住が主流になってしまう日が来ようとは。
 また来年もやりましょう。今度はしっかり温泉合宿というかたちで。

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「地域の高校」存続への取組にみえる教育会的組織志向

 水曜日あたりから非常に寒い。
 居合の稽古に行ったその日の夜あたりから、喉が痛くなり、昨日、今日とかなり具合が悪い(なので、今日の居合の稽古は休みました。悪寒が走るので)。
 それでも休むことができない(今月は週末もほとんど休みなし。連休だというのに日曜から研究会)。

 昨日は高校教育調査の一環で、とある郡部の高校へ出張。
 ここは地域の住民が集って、「地域の高校」存続へ向けた“会合”を定期的に開いている。
 それは、首長、教育長、県議会や町議会の議員、地元企業の重役、地元中学校長、同窓会役員(まさに「名望家」)+同校教職員といった顔ぶれが並ぶ非常におもしろい会合で、その組織的特徴は戦前の教育会組織を彷彿とさせる。それを傍聴してきた。
 似たような取り組みは、長野県などでも行われているようだ。

 学校統廃合のあおりを受けて、そのように時代や地域の枠を越える共通性をもった組織的枠組みにしたがって、「地域の学校」を活性化させようとする取り組みが(国の政策に抗うように)自生的に展開されているというのは、「学校」という近代装置の内包する日本史的意味を示唆しているように思う。「公」教育機関としての学校は、その実、国家を代表しているのでもなければ、児童生徒・保護者といった全くの「私」を基盤としているのでもない、その中間である「公共」の空間を存在の基盤としてきた(している)ということを。
 
 上記の会合のような組織は、「地域(一部名望家)の利害に子どもの教育が左右される」といった危うさを一方で孕んでいる(だから、学校長の舵取りが非常に重要となる)。
 しかし、それを警戒して「教育の専門的自律」を掲げるあまり、逆に「地域とのつながり」という視点を軽視してきた側面もあったのではないか(「県立高校の場合など、それが位置する市町村との関わりを十分に行わず、地域の意見に耳を傾けてこなかった」といった反省が、上記“会合”設立の一因となっている)。「地域再生」という差し迫った地域固有の課題と「教育の専門的自律」といった普遍的理念、その両者のバランスをどう考えていくのか、という課題が現代の地方教育会(?)的組織を通して浮かび上がってくる。

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仙台市教育研究所に就て

 「仙台市教育研究所に就て」という1937(昭和12)年に書かれた文章がある。その見事な筆致に感動したので、ここにその一部を紹介してみたい。なお、仙台市教育研究所は、仙台市長渋谷徳三郎(宮城師範出身で「教育市長」と称された)の意向に基づき、昭和11~16年(1936~41年)まで仙台市役所内に設置された教育研究機関である。初代所長は明石女子師範附小主事で名高い及川平治であった(この文章も及川が筆を執ったのだろうか)。

「京都には児童院、少年鑑別所があり、名古屋、神戸には児童研究所がある。最近横浜にも児童研究所を新設した。けれども仙台市の教育研究所は之等他市のものとは其組織事業内容を異にし教育全野に亘る総合的教育研究所で我が国唯一の教育研究所といつてよからう。市民は之に期待するところも多いと思ふから茲にその大体について紹介する。(中略)
 渋谷市長の談話
  (中略)
 教育は時代の大勢を達観し、我が国情の特異性に鑑み之を施すべきは勿論であるが、特に仙台市の実情に基かねばならぬ。社会郷土の実情を明かにするには厳密なる科学的調査を要する。若し斯る科学的調査を欠き空漠たる意見に因つて教育することがあるならば生活と教育とは緊密なる関係を保ち難く実際生活に役立つ人をつくり得ないであらう。国民教育はどこまでも「我が国、我が地方の実情が斯々だから斯々の方針を立てた」といふ様でなければならぬ。而して科学的調査は専門的技術に属するから教務繁多なる実際家に委ねるだけでは不十分である。勿論教師には教師当然の職務として研究すべき事項も多いだらうが社会生活が益々複雑となり其の関係するところいよいよ拡くなつた今日に於ては何事も根本的に調査研究して確呼たる基礎の上に教育案を樹立せねばならぬ。それがために研究機関を特設して其の技術に熟練せる人に之を委ねる必要がある。
  (中略)
二、教育研究所設置の必要(中略)
(1)社会が進歩すれば研究機関の必設を要する。
 社会は動態である。現今の社会は複雑多岐で其生活は時々刻々に変化してゐる。(中略)我が国の実際を見ても、政治、経済、社会生活の様式は絶へず変化しつつある、家族生活の組織様式などは著しく変つてアパート生活を営む人が次第に多くなつた、是に於て「家族生活の変化と教育の関係問題」が起る。農村民の思想は交通の便利とラヂオの影響によつて漸次都市化しつつある。是に於て「農村生活と教育との関係」問題が起る。宗教の権威信仰の動揺は新しい道徳を要求する。宗教上の信仰を以て新道徳を解釈する議論さへある。古来宗教と教育とは密接なる関係を有つてゐたのであるが今は新しい問題となつてゐる。交通機関の発達は驚くべき程で無線電話、飛行機の利用まで進んでゐる。随て思想の交通、物資の運搬、旅行の方法が一変した。是に於て「交通の発達と教育との関係問題」が起る。商業の経営も亦旧態を許さず、小工商業者はチエンストアを組織してデパートに対抗してゐる。其の他、金融機関、各種の組合、政治思想の発達は益々共同、自治、責任等の教育を要求するに至つた。斯る変化に伴うて教科課程(カリキユラム)を改造し教育方法を革新せねばならぬであらう。教科課程の改造についても伝統的学科によるか、教科目別を廃止して児童の興味を中心としたる社会様式、例へば郵便局、人形遊等を採用するかが問題となるであらう。兎角現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬが不幸にして我が国には科学的調査に基いて教育案を樹立した学者は一人もないから情けない。教育の全野に亘り、児童の心身発進、新カリキユラム構成、教育方法につき専門に研究する教育研究所は必要である。
 (2)外国では教育研究所を設けて良績を挙げてゐる。(中略)
 (3)教育研究所には専門家を要する。(中略)
 (4)義務教育の年限延長は教育研究所の活動を拡充する。(中略)」

〈註〉「仙台市教育研究所に就て」『宮城県教育百年史』第4巻、ぎょうせい、1977年所収(「仙台市教育会報」昭和12年号[昭和12.3.10発行])。

 その趣旨は、今の時代にも十分通じる。とりわけ、「現代生活に適する教育を施すには社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という主張には、当時の社会状況を反映した切実さを感じる。言葉の端々は違えど、現代においてもまったく同じ枠組みの議論がなされていることに気づく。「IT化・情報化・グローバル化の進展のなか、情報教育やリテラシーといった能力を育てる教育課程を設計しなければならない」といった主張が、まさにそうだろう。
 当時の急激な社会変化(都市化、生活様式の変化)、対外的状況の深刻化(アジア・太平洋戦争)が、教育改造、とりわけ「カリキュラム改造」という新たな論点を浮上させたことがよく窺える。伝統的教科が有する所与の知識体系では対処できそうにない、新たな現代的課題にどう対処するか。今の我々が直面するような教育の難題に、当時の教育関係者も大いに頭を悩ませるなか、昭和戦前期の仙台市は「社会の実情を科学的に調査してカリキユラムを改造せねばならぬ」という一つの方向性を示したのである。このような歴史は、教育の「政治化」を目論む今の自治体行政関係者に、十分にかえりみてほしい(なお、当時のこのような問題意識は、「国防」といった課題とも結びついていたわけだが)。さらに、同論説では「科学的調査」を行う教育研究所には「専門家を要する」と続けている。教育の実際家=教師だけでは、教育研究は困難であるという主張である。

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二宮金次郎像覚え書き

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以下は、しばらく前に書いたメモ。拙いです。
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  薪を背負い、手には本、それを読みながら歩くというお決まりのポーズ――。写真は、仙台市のある小学校に設置されている二宮金次郎像(石像)である。日本の学校ではおなじみだ。
 学校の隅にひっそりと佇んでいて、時に「学校の怪談」のネタにされたり(目が光るとか、歩き出すとか)もしたが、そもそもどうして金次郎像は学校にあって、銅像もしくは石像の定番として定着しているのか。
 
 二宮尊徳(金次郎)が学校教育と結びついた大きな理由として、国定修身教科書の教材として取り上げられた点が挙げられる。教科書が国定となった明治37(1904)年以降、二宮金次郎は修身教科書に登場する主流な人物の一人であった。尋常小学校の修身教科書では、彼の少年期の生き方が子どもたちの育つモデルとして取り上げられることとなった。「金次郎」の定番イメージは、まず、この教科書というメディアを通して全国に普及したといえる。
 日露戦争後の日本は物心両面で頽廃が進行し、問題への対応策として、例えば内務省は地方改良運動というかたちで、学校を「教化ノ中心」とした国民教化運動を展開していた。国力増進のために資金を国民から調達すべく、倹約と貯蓄が奨励された。それゆえに、修身科における金次郎の実直な生き方は、この時代を生きる格好のモデルとなった。
 さらにいえば、明治政府が尊徳を尊重したのには、百姓一揆の方法をとらず、決して政治を口にせず、農民自身の勤勉と倹約によって、農村の矛盾を解決した点が大きく作用している。勤勉と倹約を強調して農民の生き方を教える尊徳の態度は、施政者の側からすれば都合のよい人物であり、農民騒動をおさえこむ役割を果たすものだったといえる。
 だが、教科書に取り上げられた尊徳教材については、彼の出身地である神奈川県から、尊徳その人の実像を伝えるものではないという批判が寄せられていた。尊徳教材には多くの誤りがあり、事実ではないことが、現地の人たちから指摘されていたのである。
 この点と関わってとくに注意しなければならないことは、国定修身教科書が、いずれも貧困と悲惨な少年時代の「金次郎」のみを扱い、成人後の「尊徳」像を排除していることである。縄をない、ワラジをつくり、薪をとって売り、荒地を開拓したという勤労と倹約によって、後に「えらい人」になったと教科書は教えるが、その成功の秘密は語られることがない。金次郎の立身出世の方法の真髄とは、合法的免租であったが、修身教科書はこのことを決して教えなかった。あくまで、該当徳目(勤勉、倹約)に沿う形で尊徳を取り上げ、該当徳目を体現した模範的人物としての偉人化が図られた。それが「金次郎」の銅像ないし石像におけるお決まりのポーズへと結実していくことになる。

 金次郎像が広く普及するのは、実際には、この時期より下って昭和恐慌後の1930年代から。学校教育の文脈ではなく、むしろ農山漁村経済更生運動の展開にともなってであった。この時期に至って、金次郎は単なる少年の「手本」の範囲を超えた、いわば疲弊した農村経済の更生を支える教化運動のイメージ・キャラクターとして再登場することになった。
 像の普及は富山県の銅器製造業者たちが不況脱出のために金次郎の銅像を販売した系譜と、愛知県岡崎の石屋たちによるものとがあった(まさに報徳運動が突出して盛んだった二県)。彼らは全国小学校長会に実物を持ち込んだり、文部大臣を賛助会員とする「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織したりして営業活動を展開した。ちょうど金次郎生誕一五〇年(昭和12年)、皇紀二六〇〇年(昭和15年)というイベントと重なり、それを好機としてよく売れた。地元の学校に金次郎像を寄付するのが流行った。国にとってはいわゆる満州事変が始まるなど戦費調達のために勤倹や貯蓄の励行が求められる時期でもあり、毎日少国民に語りかける金次郎像の効果は大きかったといえる。
 昭和16年の金属類特別回収令によって、銅像のほうは校庭から「出征」していくこととなった。写真をとった小学校(昭和2年開校)に現存するものも石像であって、銅像ではない。もし、銅像であったなら現存はできなかった可能性が高い。国によって模範的な偉人に祭りあげられた「金次郎」は、哀れなことに、最後には「お国のために」身を犠牲にして(=武器弾薬と化して)消えていった。
 ところが、戦後、教育勅語や御真影が学校から退場していくなかでも、二宮金次郎像(表象・イメージ)は継承されていくこととなった。このあたりの経緯―経済更生運動のマスコットとして農村社会のなかから登場した金次郎像が、今度は戦後の経済再建への倫理的モデルとして認識された背景―はわからない。
 ただ、日常的な訓育のシンボルとして下からの高まりとしての側面をもつ金次郎の位置が、天皇というシンボルの神格化を重視する学校教育からはやや距離を有しているということは関係しているといえるかもしれない。
 
〈参考文献〉
・中村紀久二『教科書の社会史―明治維新から敗戦まで―』岩波新書、1992年。
・森川輝紀「コラム 校庭に建つ二宮金次郎像」、辻本雅史・沖田行司編『教育社会史』(新体系日本史16)山川出版社、2002年。
・新谷恭明『学校は軍隊に似ている』海鳥社、2006年。

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 この記事で、ちょうど300回目のエントリ! 今後の目標は「放置プレイ」、とまではいかないが、さらに手抜きでいかせていただきます。

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篠原さんのつれづれ

篠原助市『教育生活五十年』相模書房、1956年(伝記叢書4 1987年)に眼を通してみた。
 戦前教育学の最高峰と目される教育学者が、自らの歩んできた道のりを振り返った自伝である。
 教育学者として歩んできた軌跡(どんな人と出会い、どんな思想、研究に触れてきたか)はもちろん、厳格な教育学者という枠におさまらない、人間・篠原助市の側面も垣間見える。酒好きで、それが師範学校一年間停学という大きな問題にまで発展したこと、高師受験に一度は失敗していること、授業中の居眠り…、また家庭では妻の神経衰弱、わが子の死など、私生活での苦労のこともかなり率直に書いている(もし篠原が今の時代に生きていたら、きっとブログを書いていたのではと思う)。

            ◇

 記述はわずかなのだけど、とりわけ自分の眼をひいたのは、篠原が武専(大日本武徳会武道専門学校)の講師をしていたという事実(大正7年9月~大正8年3月)である。期間は短いが、学生に英語を教えていたようだ。次のような記述がある。

 大正七年、海水浴から帰ると間もなく京都の武道専門学校(校長大久保弘道氏)の校長事務取扱から、一週二時間講師に来任してくれと頼まれた。結局引き受け、朝八時から出講することにした。職員室では職員一同(校長代理も)同窓で、時間は厳重に守られ講義の原稿は幾らか体育を重んじ、参考書として生徒にウェルプトンの「体育」を持たせた。
 学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった。学生の英語能力が不十分なので、せめて「ウェルプトンの体育論」E. Weilpton ; Physical education. 位は読破し得るようにとの老婆心から、校長代理に相談して、午前七時から一時間アーヴィングのスケッチ・ブックを読ませた。暗い中に宅を出て教室に入ると、学生の数は少なく、しかも早朝の寒稽古をすませて、急いで来るので準備している学生は半分にも足りなかった。登校の途次、校長代理と概ね同行し、英語の特別講義の終ったころ、他の相国寺西門前町から通勤の職員も続々見えた。それから二時間原稿を筆記させ、狭い職員室で大きな陶器の火鉢を囲んで雑談の後十一時頃自宅に帰りつくのである。(209頁)

 武専は、戦前、武道の専門的指導者(柔道、剣道)を育成すべく設立された教育機関であり、全国各地から選抜された武道のエリートたち(18歳~22歳)が京都武徳殿で過酷な(ときに死者すら出すほどの)稽古を重ねた。どうして自分は関心を持っているかというと、自分が大学で剣道部に在籍していたとき薫陶を受けた“師範”がまさに武専の出身だったから(東北で唯一の範士九段剣士)。
 「学校では武道科(剣道部、柔道部)の外、国語漢文科及び生理衛生科の教員資格を得しめ、その上に研究科(二年以内)があった」という篠原の記述にもあるように、私の“師範”も教員の資格をもっており、過去、女学校や高校で教鞭を執っていたと聞いた。
 また、学科の授業の多くは京大の教授が兼任で担当していたこと(よって内容的にとても高度だったこと)も、篠原の「職員室では職員一同(校長代理も)同窓」という記述で再確認できる。だから師範もまた、驚くほど「国語漢文」については博識で書道にも長け、毎年剣道部卒業生に漢文を認めた色紙を配っていた(自分も頂いた)。その教養たるや、今の剣士ではとうてい及ばないほど豊富なものだ。『剣の道』や『剣道の法則』などの著書、剣道雑誌の連載などもあり、その中でも思想の深さを披露している。
 
    ◇

 ほかにも、篠原は、東京高等師範学校の研究科時代に、はじめて社会的教育学(ナトルプ)やデューイに接したこと、東北大学の普通講義(教育学概論)での購読テキストとしてデューイ『民主主義と教育』を用いたといったことも書いている。だが、周知のとおり篠原のデューイに対する見方は消極的だ。
 次のような記述がある。 

米国のデューイの著書に初めて接したのも〔東京高師―引用者注〕研究科時代であった。忘れもしないが、三十八年二月十一日の紀元節に、偶然彼の「社会と教育」J.Dewey;School and society.を見つけ、ストーブに腰掛けを引き寄せて読み始めた。デューイの説が、今迄学んだ教育学と全然違っているのに驚かされ、驚きの中から興味が湧き立ち、その日の午後一気に読み終えた。だがこの小冊子以来、私と彼の著書との関係は長い間断絶した。私の仕事と興味が他の方向に向かったからである。(71頁)

 その後も、デューイについて彼は積極的な評価をしていない。なぜなのかは、今もよく理解できない。ただ、彼がドイツ新カント派に影響を受けたからといって、アメリカ新教育の動向にまったく眼を向けていなかったわけではなく、海外視察先でデューイの弟子キルパトリックに会ったりもしている(が、あまりインパクトを受けなかったようだ)。

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ハウスクネヒトさんの中等教員養成改革

 寺﨑昌男・竹中暉雄・榑松かほる『御雇教師ハウスクネヒトの研究』(東京大学出版会、1991年)を読む。
 タイトルからしていかにも硬派な教育史研究書だが、「大学における(中等)教員養成」という現代的な文脈を考慮に入れると俄然おもしろく読めてくる。
 ハウスクネヒト(Emil Hausknecht, 1853-1927)というと、帝大「教育学」の萌芽期を支えた張本人であり、何より「ヘルバルト主義の初等教授理論の紹介者」として位置づけられている。ところが、それは結果からみた一面であって、そもそも彼が意図していたものではなく、彼本来の課題は「(総合)大学における中等教員養成」にあったという(彼が来日した時期のドイツが、まさに、教員養成といった実践的目的をもつ教育学ゼミナールをアカデミックな大学内に設けるべきか否かという論争のただ中にあった。大学内の教育学ゼミナールの本格的な設立は、ケニヒスベルク大学のヘルバルトの手をもって嚆矢とされる)。「むしろ中等教育の教育課程論や内容論においてヘルバルト派の見地が存分に発揮されている」(177頁)というのが実相であったが、彼の「総合大学における中等教員養成」構想が戦前の日本において十分に実現しなかったため、ヘルバルト主義教授法の紹介者としての側面が強調される結果になったというわけである。彼の構想は実にしっかりしたもの(教育学ゼミ、国家試験、就職後一年の見習期間など)で、資格制度すらもたなかった当時日本の中等教員養成にとって画期的な提案だった。結局、総合大学での教員養成は戦後アメリカの手によるまで実現はしなかったわけだけど。「大学での教員養成」をめぐる近代ドイツでの議論について、もう少ししっかり調べてみたい気にはなる。
 
 それにしても、彼のヘルバルト教育学についての理解も、相当に深かったことが窺える。 
 ハウスクネヒトの教授は、訓育的教授論・教科編成論の理論的教授だけにとどまらず「一つの教材をどのようにして形式段階を用いて展開するかを、具体的に教えた」(83頁)。「ハウスクネヒトはライン、ツィラー両方の五段階用語を伝えるとともに、形式段階を用いた教案の作成まで、詳細に指導していた。さらに、教授上の諸注意ともいえる微々なる点まで教えた。……要するに、ハウスクネヒトが伝えた訓育的教授論は、その理論、教科構成・教科論、五段階教授法、形式段階による教案作成、生徒指導に及んでいた。しかも、きわめて、実践的な内容を含んでいた」(84頁)。
 ヘルバルト教育学についての非常に深い理論受容である。彼は、単に理論を理論として受け止め、紹介するのではなく、ヘルバルト教育学と同質の実践を自ら生産しながら指導していた。実践の生産が可能なかたちで理論を受容していたのである(ヘルバルトの理論に基づけばこのように実践をつくることができると)。これは当たり前のようでかなり難しい。そういう仕方で理論を受容していない場合がほとんどではないか。今の教育学者も見習わなければならない理論受容のかたちだ。

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信濃教育会~戦後への連続~

 前回、信濃教育会(信教)について触れたので、メモをもう少し。 
 「教育会の戦後への連続・断絶」は、現在教育会研究の一つの論点となっているところである。
 これまで教育史研究において「教育会」は、戦前教育行政の「翼賛団体」として(消極的に)評価され、[戦前-教育会]→[戦後-教員組合]の流れが必然的なものとして捉えられてきた(結果的に、日本近代教育の普及・展開に果たした教育会の歴史的役割はきちんと顧みられてこなかった、というのが研究会の問題意識の一つだと自分は理解している)。
 そのような枠組みでみると、信濃教育会はきわめて特異な存在に映る。
 信教は職能団体としての活動とともに、人事行政にも積極的に関与していた。
したがって、M川先生が1月の研究会で指摘したように、教育会=職能団体と教員組合=労働権・生活権保護交渉団体という分化が困難な歴史的条件を信教はもっていた。
 その信教でも存続か解散かということが、戦後大きな問題になった。
 しかし、占領下、長野軍政部による県教組と信教の「二本立て」指示のもとで決着がつけられたとみられている。その背景には軍政部による県教組への強権的介入(→弱体化)と、信教への一本化の思惑があった。そして、県教組による抵抗運動の一方で、信教は、占領行政への一体化のなかで「政治的復権」を成し遂げたといえよう。
 以後、信教は、自らの存在意義を専門家集団(=職能団体)としての教育世論の形成や、専門性に基づいた、官僚制への抑圧機能(官僚行政からの自由)におくとともに、「教員ギルド」と批判される側面も持ち合わせていくことになる。ここに「ガバナンス」という現代的論点が浮かびあがってくる…。そのような枠組みでみてよいのではないか。

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研究=自分の生き方の反映

 週末は科研の教育会研究会。下準備を手伝ってくださったすだっち、サコさん、ばっしーさん、ありがとうございました。助かりました(なんだかんだで、一人ではけっこう準備・気配りが大変ですね)。
 さて、研究会だが、新春から熱い議論が交わされて、いろいろと感じるものがあった。
 研究会に参加していつも思うのは、〈教育(学)〉という枠組みを大きく越えて議論がなされている、ということ。
ある教育の歴史的事実を捉えるためには〈教育(学)〉の発想だけではダメで、隣接領域(日本史、政治学、経済学、行政学、社会学、哲学etc.)の視点もふまえないと史実を鮮やかに切れるメスは持てない―、そう言われているような気がする。でも、それが難しい。いろいろな他分野の知識や流れてくる情報を自在に摂取できる“襞”が自分の体にあればなぁと思う。
もっとも、それは結局、それら知識や情報を自分の生き方に関わるものとして身につまされて受け止められるかという問題であり、“襞”というのは世界と関わっていく「主体」としてのあり方・思想のことなのだろう(そこが史料を血読できるかどうかの分かれ目なんだと)。 
 
 さて、研究会の内容から受け止めた事をいくつかメモ書きすると、
・〈教育会〉という発想が一体どこから来たのかという問題提起(近世からの連続性、海外からの視点)
・〈教育会〉をめぐる情報がどのように取捨選択されたか、政策担当者(森・田中・澤柳)の思想を同時代的な視点から把握する意義
・教育会の初期の形態の中に教育“自治”への可能性をみることができるか
・学校規模の拡大傾向との関係で教育会を検討していくことができるか
・教育世論の形成と権威化と事実化にかかわる教育会の歴史的位相の検討(「労働組合法に戦前の権威主義体制からの解放の手段を見出した教員社会は、生活権を中心とする労働者意識の形成と教育問題の専門的検討による教育の権威化の創出という二つの側面を統一的に展開しえたのであろうか」)。
・戦後、教育会の解散・存続をめぐる問題(戦後も存続した信濃教育会、栃木連合教育会の事例)
・北海道の独自性(府県とは異なる地域性-「開拓と連動した教育」)への視点
、などなど。
盛りだくさんだったけど、どれも重要な視点である。

 それと今回もすごかったのが“夜の部”で、「象牙の塔」内部の混乱をめぐる先生方の情報・体験談は、(私の研究生活にも結びついた、容易に身につまされるものであるため、いやそうでなくとも)あまりに鮮烈である(C先生の「ファイル2,3冊」発言には吹いた)。
大学(院)教育改革といいながら、グランドデザインもくそもあったものではない。
改革云々言う前に、まずそれを謳う側が、自己の「主体」としてのあり方・生き方=自己認識を見つめ直さなければ。
うん、なんか前半の話とつながった気がする。
これからの研究生活への「自戒」として留めておこう(笑い)。

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コロキウムを振り返る

 月曜日に四国から帰ってきたら、気温が5℃ほども異なるため、体調不良(ほどでもないが、身体がだるい症状)に陥ってしまった。でも、帰仙してからも飲み会(!)やバイトなどで毎日忙しい。昨日は教育(学)史の特別セミナーがあり、非常に刺激的な報告を聞くことができた(でも、それはまた別の機会に)。

 さて、ようやく確保できた時間を使い、先週末の学会報告(コロキウム)について振り返ろうと思う。
 今回のコロキウムのテーマは、「『大正新教育』への地方教育会の対応」であった。自分は、宮城県を事例として、もう一人のナガエ会員は福岡県を事例に報告を行った。
 二人の報告内容には、共通する点があった。それはナガエさんが明言していたことだが、「大正新教育」の受容をめぐっては、郡市を一つのまとまりとして動いていた傾向が強いということである。
 これは、宮城県においても基本的に変わらない。自分は及川平治の例を提示したが、明石附小への視察や講演会の開催に積極的に動いていたのは郡・市レベルでの教育会(栗原郡・宮城郡・仙台市)であり、県レベルの動きは、まったくではないにせよ、必ずしも活発とはいえなかった。
 また、大正期においては、師範学校附属小学校が県下への指導性を発揮し(もしくは発揮するよう再三にわたり文部省から要請され)、「自学自習」への教授法の具体化をめぐる研究会が開催されていく。だが、福岡県の場合には、附小主導の研究に各郡市はそれぞれの思惑で対応し「県レベルでの統一的な見解には至らなかった」との指摘がなされた。一方、宮城県師範附小の「初等教育研究会」(毎年6月中旬、県教育会総会の前二日に開催)について自分が下した評価は、「同研究会の課題は、あくまで各教科目の枠組みを前提とした教育研究にあった。そこに新教育論の影響をみるならば、それは、『自学輔導』や児童の『個性』への着眼といったスローガンを各教科目の教授法においてどう具体化していくという、方法的次元において注目されたと捉えられよう」というもの。
 県レベルにおける「新教育」の低調と、郡市レベルでの活発な「新教育」受容。これを両県における共通の受容傾向と判断できるなら、
「ではなぜ、県レベルではなく、郡市レベルでの受容になるのか」
「郡市に教員の多くが向かったとするとき、では、この時期の『県教育会』に地域教員たちはどのような存在理由を与えていたのか」
「この時期教員たちが、教育研究に求めていたのは何だったのか」。
そういった問題が次に設定できるのではないだろうか。少なくとも、地域教員が「新教育」それ自体を欲していたとは考えにくい。彼らが欲していたのは、あくまで実際的な教育問題に関する救済策であって、それが出来るのなら「大正新教育」でなくとも構わず、それと真逆の思想に飛びつくことだってありえた。それが昭和期教育実践の展開(転回?)ということではないのか。と、そのような前提に立つことで、次の昭和戦時下に向かう教育の流れを捉えることが可能になるのではないか。
 報告の後、そう考えた次第である。

 なお、断っておけば、「新教育」のほかにも県教育会雑誌上に掲載された情報は多様にあり、府県によっても議論された教育の内容は異なる。沖縄県では、宮城のように「各教科目レベル」での研究議論はみず、また、発音矯正などに関する論説が登場する、といった興味深い指摘もなされた。発音矯正について言うと、宮城県の教育会雑誌にもかなりの割合で登場することを付け加えておく(いわゆるヅーヅー弁の矯正)。その他、もしかすると「新教育」以外に眼を向けたとき、これまで見えていなかった教育会の側面が鮮明に浮かびあがってくるのかもしれない。

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遅筆です、ハイ。

 今週末は学会で報告である。四国は香川県まで行かなければならない。だが、相変わらずの遅筆のため(いや、書いているのに、それが形になってこないから不思議だ)、報告資料が完成せず、関係者の皆様にたいへんなご迷惑をおかけしている次第である(いつものことだと言わないで下さい)。
 
 今回の報告内容と関わって、以前のエントリで少し触れたことがある。大正期において、教育会とは何だったのか、という問いである。とにかく不明瞭。校長会や教員会、各種研究会等など、それまで教育会に統合されていた種々の機能の分化が見られ、教育会の位置づけがきわめて見えにくくなる。そんな状況下で、教育会の存在意義とは一体何だったのだ。当時の人たちよ、教えてくれ、と叫びたくなる。
 しかも、以下のような論考を読むと、当時ですらよくわかっていなかったのではないかと思えてくる。
 紹介するのは、澤柳政太郎「教員組合と教育会」(『帝国教育』第458号、1920年9月)。この論考は、教育会の「教員組合」化を説いたものである。澤柳は本論で、教員会など「教員組合」的色彩を帯びた団体の組織化動向に疑問を投げかけている。だが、それは保守反動的な思想からではなく、むしろそれらの組織化が「教員組合」的なものになりえていない、従来の「教育会のすることとあまり大差が無い」という、むしろ積極的な意味においてであった。教育会、教員会双方の会員の9割が小学校教員である現状からしても、両者の間にはほとんど組織的な違いがなく、教員会を分化させることでかえってその発達が覚束なくなるのではないかという疑問なのである。これは、現代において教育会を研究する我々にとっても興味深い指摘である。当時においても教育会、あるいはその他の教員組織のあり方が釈然と分けられていなかった傍証として、澤柳のこの論考を位置づけることができるのではないかと考えるからである。
 彼の具体的な指摘はこうである。

「苟くも教員組合といふものを新らしく作るとすれば、何か其処に従来の教育会とは別の目的を有つた団体とせねばならない。此の特別の目的さへあれば其処に別団体として之を作る必要も認められ、又同時に教育会に関係なく、之と並んで存在し発達することが出来るものである。
 然らば「教員組合」に於て目的とすべき特別の任務とは何であるか。それは教員の地位の向上安固を組合の力によつて図るといふことでなければならないと思ふ。」(457頁)
「けれども我々は『教員組合』を設立する場合更に慎重に考へて見る必要はある。先づ其の目的の上から、殊に『教員組合』と殆んど其の要素を同じうする教育会が相当程度発達して居る今日としては、それと教員組合との関係を十分に考察して置かなければならない。自分は今日の教育会を教員組合の如くに改造して行くといふことが有力な一案であると信ずる。」(458-459頁)

 このように述べて、澤柳は「将来教育会と並行させて別に教員組合を組織するよりは教育会を改善し若くは改造して、以て教育的団体としての機能を発揮せしめる方が得策ではないかと思ふ」(459頁)と主張する。
 「教育社会」全体の質的向上、社会的地位の向上の問題に関して、全国的には教員会(多くの場合は、郡市を単位として行政主導で動いてきたとみられる教員の研究会)という教員の新しい動きが、この時期活発化していく。そのような中にあって、澤柳がこのように述べていたことは興味深い。
 は、やばい。こんなことしている場合ではなかった。ナンダカナー。

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教育上ノ点カラ観察ヲ下ス評ハ少カツタヨウニ見受ケタノデアリマス

 今年は、東北大学創立100周年の記念の年にあたる。この100周年に合わせ、地元メディアも巻き込んだ、さまざまな記念行事が行われている。大学百年史の編纂事業もその一つだ。
 本学の歴史を語るうえで、決して外すことのできないのが澤柳政太郎の存在である。初代総長が気鋭の〈教育学者〉であったという事実は、ぜひとも心に留めておく必要がある。澤柳は、「門戸開放」「研究第一主義」など本学の学問風土形成に大きな役割を果たしたとされる。創立100周年を迎え、改めて澤柳政太郎に呼びかけ、彼から学ぶべきものについて熟考する機会をもつのは決して無意味なことではない――
 
 ということもあってなのか、なぜかM腰先生のゼミで澤柳について発表してくれと頼まれ、火曜日に報告を行ってきた。
 澤柳の人物像([文部官僚から、成城小学校・新教育のリーダーへ]。両者は一見して「分裂したイメージ」だが、[教育学者]というキーを差し込むことで両者は自然につながる)をめぐる課題に始まり、澤柳教育学を浮き彫りにしていくうえでの研究課題がまだまだありそうだ、むしろ今こそ振り返る必要がある云々と、しどろもどろになりつつ報告してきた。

 澤柳は文部官僚の時代から、実に膨大な海外教育に関する情報を収集している。それは野に下ってからも変わらず、帝大の教育学者を凌ぐほどである。それら海外からの教育情報を受容するなかで彼の教育学がいかに形成されていったか、また海外の情報に触れるなかで逆に日本をみる比較教育的な「まなざし」がどう形成されていったのか、その筋道を探ることは非常に重要な研究課題になりうる。彼はペスタロッチに共鳴し、『ペスタロッチ』(1897)という著書も発行している。また、ヘルバルト派の教育学にも学んでいる。
 しかも彼は、いわゆる講壇教育学者とは違って、その都度輸入学説を翻訳し、紹介すれば済むといったポジションに止まることが許されなかった。文部官僚としてその情報を咀嚼し、政策へと具体化していく必要があった。それゆえに、近代日本の公教育制度形成の観点からも彼の思想形成の独自性に着目していくことはおもしろい課題になりうるはずであるし、政策課題にコミットするスタンスをめぐって今日的意義も大きい。

 とくに文部官僚としての経験は、彼をして「従来の教育学」の徹底批判へと向かわせた。第三次小学校令(1900)起草にあたって、彼は「従来の教育学」から学ぶものがほとんどなかったと言い放っている。加えて、小学校令改正後の「教育社会」からなされた批判に対して、彼はかなり不満であった。教育内容の合理化・近代化―国語科を設置したり、算術で筆算を主体にしたり―を進めたにもかかわらず、その具体的な中身に言及しない「教育社会」の抽象的な批判に澤柳は失望した。今日の記事の表題は、そんな彼の主張の一節である(「改正小学校令ニ対スル批評ヲ論ズ」1900年、帝国教育会演説、『澤柳政太郎全集』第三巻、国土社、1978年所収)。

 そこで彼は、病気のため官職を離れた時間を使って『実際的教育学』を執筆、「従来の教育学」の改造を主張する。それは講壇教育学者たちへの宣戦布告であった。「従来の教育学は余りに空漠である」といったストレートなタイトルを各節につけるような教育学文献は、当時としては(今でも)異例で、そのインパクトは鮮烈である。
 同書で、彼は 自身の理想だけを根拠に教育のあるべき姿を主張するような教育学を批判し、教育上の実際問題に対処しうる教育学、「教育の事実」を出発点としてそれを「科学的」に研究する学問への、改造を訴えた(その場合の「教育の事実」について、彼は「学校教育中の普通教育」に対象を限定する)。
 はじめから特定の結論を主張しようとはしない、そのプラグマティックな姿勢は終始一貫しているといってよい。成城小学校が「実験学校」であることもそうだ。今日的にいえば、成城小は政策立案に寄与できるだけの実証的資料を提供する「研究開発学校」的位置づけにあったといえる。そして、成城小で実証された確たる根拠をもって全国規模での〈教育改造〉につなげていくという発想が、澤柳にはあった。そう考えると、彼が特定の理念に立脚した私立新学校の「画一性批判」に否定的であった理由も、教科書国定化支持であった理由も見えてくるのではないだろうか。

 その他、いろいろな方面に対してなされた彼の主張は明快で、今日に至っても全く色褪せてはいない。
 今回『澤柳政太郎全集』を眺めて自分の眼をひいたのが、彼の「教師及校長論」。当時の「教員社会」(教育会・教員会等)に対して、彼はかなり言及していることに改めて気づいた。「教育の自律性」(「教権の独立」)、「教師の専門性」という今日的課題との関わりからも要チェックだ。

といったようなことを話した(すいません、かなり美化してます)。

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とらえどころなき教育会

 土曜日は、教育会の研究会。
もう、大学に常時待機できる学生が自分しかいないものだから、
頼まれたら断れない。一人でせっせと会場づくりをする。
発表者は、K山先生一人であることに、先生本人が驚く。
しかし、こちらからすれば、わざわざ岐阜から発表をしに来る先生のモチベーションの高さに驚くというものである。

 今年度の教育情報回路研の研究対象時期は大正期である。
この時期教育会は一体何を行っていたのか、教員社会においてどのような位置にあったのか。これを明らかにするのが、主要課題となってくるだろう。
 この時期は、教員会・教員研究会など教員のみを構成員とする活動組織が各地で誕生し、力のある校長のもと、実地授業・批評会形式(いわゆる今日の公開研究授業)の自主的な研究活動が展開されてくる時期である。(その前提として)行政サイドはそのように現場の課題解決力を喚起調達しつつ(K間先生のいう「公教育運営の変容」)校長会などを設けることで監督指導体制を整備していく。また、師範附属小が初等教育研究会などを実施して、府県下研修にのりだし、現場への指導性を発揮していく。
 そのような状況下で、「地方教育会が取り組む事業領域は、学校教育から次第に社会教育へと変化していった」と捉えるべきなのか。これが一つの論点であったように思う。「従来教育会が担っていたものがなくなっていき、教育会としては再編を迫られる」のは確かもしれないと、漠然ながら推測する。とにかく、この時期の教育会はとらえどころがない。
 研究会の後、S藤先生と少し話をして、教育会は〈会員制倶楽部〉のようなものだったのではないかという意見を聞き、肯く。「教育会会員」という箔が付くことでもたらされるものがかなりあったのではないかとは、十分考えられる。その場合は、〈人〉を分析視点として教育会という対象に切り込んでいくことになるだろう。
 相変わらずのことだが、たくさんの、刺激的な意見を聞くことができて有意義な時間だった。自分もこの間、大正期の名取郡(仙台市に隣接)における「教員の研究会」(郡学事会→郡教員〔研究〕会の流れ)についていろいろ調べていたので、先生方の議論からいろいろと触発されることが多く、そのことが楽しかった。

 でもやっぱり、ヘビーだ。そしてブルーだ。〆切を強いられたから(〆切のある幸せを噛みしめる日は来るんだろうか…)。

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「あの研究会」が再開

 日本教育史のプロパーといえる先生がいない環境下で、若手学生有志によって誕生した「あの研究会」(知る人ぞ知る。発足時はまだ20世紀だったと思う)がついに再開した。
 K山先生が赴任されてからは、研究環境の向上に甘んじてほぼ開店休業状態だったが、先生が年度末をもってご退職され、また昔の状態に戻ることになった。そこで改めて、当時中心メンバーであった方々が世話人となって、多忙にもかかわらず、労を惜しまずに雑務をこなした結果、この4月からの再開に漕ぎ着けた。一応、自分なりに説明すればそういうことになる。
 そこで昨日、さっそく読書会が行われた。自分も賛同者の一人として参加。充実した時間を過ごすことができた。この充実感は、講座の院生発表会などでは到底味わえないものである(講座のほうはストレスばかりが溜まる。あっ、深く追及しないように)。自分が研究論文の検討(読み方)をめぐって、報告者の緻密な解読作業や参加者の専門的な意見からじっくり学ぶことができる機会というのは、そうなかなかあるものではない。
 会員数も増え、すでに6月までの研究会の報告予定は埋まっている。この研究会の活動にかける各会員の意気込みが伝わってくる。

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北方教育の受難と今の教育論議に思うこと

  例によってネタがない。
以下は、思うところがあって、少し(といっても半年以上)前にノートしておいた1920-30年代を中心に展開された北方教育運動に関するメモ。教育会と絡む記述があるのでノートしておいた。

     ◇

 北方教育社では、綴方界の著名人であった峰地光重を招聘している。その経緯と実際の概要が雑誌『北方教育』で報告されている。
 『北方教育』(第1巻)第6号(1930年12月)の編集後記に、峰地光重来秋の話題が記されている。
 これによれば、峰地の招聘にあたっては秋田市教育会、および県学務課からの賛意が得られたことが読みとれる。「幸に、市教育会でも非常に賛成され、市で主催するか、共同主催するかと言ふ熱意まで示されたのであります。勿論県学務課の方々も賛成して下さいましたので……」(哲生筆)。実際には、日程の変更もあり、峰地が日帰りで秋田を訪問、附属の授業参観をするだけの日程となった。


 峰地「秋田紀行」の概要は、以下の通り(峰地光重「秋田紀行」『北方教育』(第2巻)第7号、1931年6月、17-20頁)。
・峰地は駅で北方教育者の成田(忠久)、附属の滑川(道夫)、蓮沼の出迎えを受けた。
・附属〔小学校〕を訪問。滑川の授業を参観。夜は川端の料亭できりたんぽを食している。
・「尚この旅に於て、市教育会や県学務課、北方教育社が私のために講演会の準備までして下さつたのに、私の不意な日程の変更のために、御意に添ふことの出来なかつたことを幾重にも、お詫びせなければならないと思ひます」(20頁)。


 ここで筆者が注目するのは、峰地の講演会準備のために、北方教育社だけでなく、市教育会や県学務課も協力的な意向を示していることである。教育会、県学務課が具体的にどう動いたのかは定かではないが、民間の教育団体と官側が全くの対立関係になっていたわけではないことを示す事例であるといえる。民間団体と教育会の間には、かなりの割合で教師の交錯、教育志向の共通性が見られるのではないかと推測される。
 ではそう捉えたとき、何が両者を引き離し、北方教育弾圧の引き金となっていくのだろう?
 戸田金一『真実の先生―北方教育の鬼 加藤周四郎物語』(教育史料出版会、1994年)に興味深い記述があった。同書によれば、1970年に北方教育創立40周年記念集会が開催され、北方教育同人たちによる座談会が行われている。そこでの話題に関し、戸田氏は次のように述べる。

 ところが、話題が弾圧のことに及んだとき、わたし〔戸田氏-引用者注〕の頭は混乱した。これまで理解していたこととは、まったく違っていたからである。わたしの理解は、平凡社の一九五六年版『教育学事典』のなかに国分一太郎が執筆した「生活綴方運動」の記事を鵜呑みにしている。そこには次のように書いてある。
 「ちなみにそのときの思想取締当局の弾圧の理由は、①この運動は反ファッショ、反官僚をたてまえとする、多くは貧弱な農村地帯の子どもを愛するまじめな教師たちの統一戦線の結集を目的とするものであること、②文学におけるプロレタリア・リアリズムの創作方法から学んで、この方法を綴方指導に適用し、貧しい農民の子弟たちに現実の矛盾を見させることによって階級意識を昂揚し、これを反ファッショ、反官僚、天皇制打破を含む反封建のための統一戦線にみちびきいれて、まず民主主義革命を遂行し、やがて強行的にプロレタリア革命に転化することをねらう労働者階級の同盟軍たるべきめざめた農民を育成しようと企図したものであること、③そして、これによってコミンテルンおよび日本共産党の目的遂行に資する行為をやったと思料されること―というのであった」
 そしてこの文章に続いて、主な弾圧された者の名がならび、国分をはじめ、この座談会に出席していた北方教育の加藤周四郎・佐藤忠三郎・田村修二・鈴木正之らの名を含めている。だから生活綴方運動の一翼をになった北方教育は、わたしにとって、プロレタリア革命運動のなかに位置づけられ、そのうえでの評価となっている。
 ところが、司会の花岡〔泰雲-引用者注〕が顔をまっかにして「おれたちのなかに、プロレタリア革命の教育をした者がいたか?」と、怒鳴るようにいっている。続く同人たちの発言も、異口同音「そんな教育はしなかった」というのだ。これで、わたしの頭はたちまち混乱した。これまでのわたしは、あの戦争中によくぞ革命的教育を展開したもんだと、この教師たちを英雄視し、尊敬してきた。ところが当事者たちは、みずからの栄光の座のレッテルをかなぐり捨てている。これではただの人ではないか。

戦前天皇制教育への数少ない抵抗者であったとみられる北方教育同人たちからの指摘に戸田氏は困惑している。われわれの教育実践は、そのような政治性とは無縁であったと同人たちは述べているのである。花岡が憤怒した背景には、治安維持法違反という無実の罪を着せられた彼ら自身の体験があった。北方教育同人たちが人民戦線の組織と連携した事実はない。すなわち、彼らは〈いずれ国家権力にとって国民総動員の支障になるにちがいない〉という憶測のもとに、〈あらかじめ〉不当に罪人に仕立てあげられ、排除された犠牲者たち(スケープゴート)であったといえる(奇妙なことに東京の綴方教師たちはこの受難の埒外に置かれた)。
 しかし実際の北方教育の運動は、彼らが社会変革の必要性を十分に認識していたとしても、合法的活動を重んじた、あくまで教育実践とその理論化の運動に徹したものであった。それだけに、この問題について、彼らを弁護するような学務当局や教育会からの積極的な働きかけが見られなかったことは、今日の我々から見て痛々しい。
 彼らが主催する講習会はいずれも、官製講習会にも見られぬ成功をおさめいたといわれ、それゆえに学務当局も彼ら北方教師たちの活躍をむしろ評価していたといえるのではないか。職業指導体制の整備にあたって秋田県当局が、運動で活躍した加藤周四郎を秋田県社会事業補に登用したこと(1940年1月秋田職業紹介所少年係主任→7月秋田県属学務部職業課業務係長)はその一つの傍証としてみることができるのではないか。

      ◇

 読み直して思うこと。北方教師たちを取り巻く環境が、かなり恣意的なかたちで協力から弾圧へと一転してしまう状況に思いを馳せてみて、今の現状が想起される。教員免許更新制-不適格教員排除をめぐって、ココあたりがまるで真剣に教員の思想統制的なことをいっているのをみると、北方教師たちの受難も「昔のこと」では済まされないものを感じる。

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「戦後」を考える機会

 教育史学会に参加するため東京へ。去年と違って、大会スタッフでも発表者としてでもなく、他の会員の発表を聴きに行ったに過ぎないので、その点気は楽だったけれど、ただ座り、聴き入るだけでも相当体力を使う(ホリエモンみたいな言い回しになってしまった)ということを改めて思い知った。
 常に自分の現代教育に対する問題認識を自覚し深化させながら、個別の歴史事象を捉えて、そこに現代的生命を与えていく―無知なりにその重要性(方法・手段としての教育史とでもいえばいいのか?)を認識し、課題として持ち帰る。

 シンポジウムに触発されて、今度の読書会は、「戦後教育史」あるいは「戦後史」をテーマとした研究からテキストを選んではどうかと今度提案してみよう。学部生も関心をもってくれるかも知れないし。
 また、「戦後」というキーワードについて、じっくり考えてみたい。「戦後」と付すからには、やはり戦争と結びつけて論じられる必要がある(戦争後のガラっと変わった時期だよという程度の、戦前と断絶した単なる時間的な枠組みとして「戦後」を済ませることはできない)と漠然ながら思う。なので、先行研究が「戦後」「戦後教育」概念をどう処理しているのか、ぜひ調べ合い、議論してみたい。まずは、ピックアップから……。

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おお、コレはスゴイWeb資源だ

 岐阜県図書館のWebサイトにおいて、「『岐阜県教育史(通史編/史料編)』目次」が公開されている。どうやら今年3月から公開されている模様。ちと気づくのが遅かった。
 『岐阜県教育史』といえば、カジヤマ先生が企画・編集に尽力した、質・量ともに各都道府県教育史本のなかで最高クラスのものであり(全30巻は前代未聞。執筆陣も充実)、ウチの三先生の天敵である(は余計か)チバ先生も絶賛している。
 目次を一瞥しただけでその中身の濃さがわかる。その時代時代において考慮すべき歴史事象が網羅されているだけでなく、決して概説の域にとどまらない詳細な内容は、最新の研究成果が詰まったものとして無視できない精度を誇っている。
 これまでの都道府県教育史にはみられなかった斬新な分析視角もみられる。とりわけカジヤマ先生が重視してきた地方教育会の活動が分析の俎上に載せられている点が、本書の大きな特徴といえよう(メディア史的着眼もおもしろい)。レファ本としてはもちろん、「(中央からの)教育政策の成立と浸透」という枠組みに回収されえない、地域における教育営為の多様な展開―「中央の支配・統治という政治的・社会的攻勢に対峙しつつ、さまざまな矛盾や課題を抱えつつも、自立した独自の生活や文化・教育を創造する」側面―を把捉するという、地域教育史研究の手法を考えていくうえでも『岐阜県教育史』は示唆に富む本といえる。自分もすでに村教育会や大正自由教育に関わる部分で勉強させてもらっている。

 加えて岐阜県図書館では、「『岐阜県教育会雑誌』目次」もWeb公開している。
 教育会といえば、「日本社会に学校教育を急速に普及定着させ、また社会教育を広範に推進した注目すべき情報回路」であり、その登場は「日本教育史上全く新たな組織・システムの造出」を意味している。「戦前の教育関係者の価値観と行動を水路付け、さらに地域住民の教育意識形成に大きな作用を及ぼした」とされる、教育会雑誌の目次公開は、これまたカジヤマ先生が中心となって史料蒐集した成果である。

 書籍にとどまらず、インターネット資源の面でも充実した成果を誇る〈岐阜県教育史〉の登場は、IT時代の地域教育史研究のあり方(研究成果の公開方法など)についても一石を投じたといえるのでは。

・『岐阜県教育史(通史編/史料編)』目次
[http://www.library.pref.gifu.jp/library/kyoikushi/mokuji_ed_top.htm]
・『岐阜県教育会雑誌』目次
[http://www.library.pref.gifu.jp/library/kyoikukai_z/mokuji_kyoiku_top.htm]
・岐阜県図書館
[http://www.library.pref.gifu.jp/]

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「教科書を教える」と「教科書で教える」(その2)

 そもそも「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる議論は、いつ頃から展開されはじめたのだろうか。
 カジヤマ先生が授業で示してくださったのは、文部事務官木田宏著『新教育と教科書制度』(1949年)の存在。故・木田氏は、後に国立教育研究所所長や日本教育情報学会会長などを歴任している。
 戦後改革のなかで若き文部事務官が著したこの本は、先生曰く、「戦後検定制度への改革の意味、新制度の基本的枠組み、具体的課題と問題状況、そのあるべき処方について平明に解説したもので、戦後教科書制度のレールを敷いたきわめて重要な文献である」と。
 この中に、すでに次のような記述がある。

「教師中心から児童生徒中心へと切りかえられた新教育にあっては、教育は、教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのであるから、教科書は学習を行うための一つの手段である。教科書は決して、学習の目的ではない。」(100頁)

それまでの国定教科書制度から、いくつもの教科書が発行される事態となることで、「使用する者の側においては、当然選択権を持つことになり、教師に自主性が与えられる。教師は、地方の実状に照らし、児童生徒の個性特徴をも考慮して、教科書を選択するわけである」(31頁)。また、「教科書は一教材として、授業計画遂行の具となるわけであつて、教科書によつて教育内容が決められるのではなくなるはずである。以前は、教科書をいかに教えるかが問題であつたのであるが、今度は教科書でもつて、いかに所期の教育内容を教えるかということが教育の中心問題でなければならない。教科書は目的ではなく手段となる」(31頁)。
 木田が問題にしていたのは、それまでの国定教科書制度下における教師の自主性、主体性のなさ、ただ教科書記述(特定の解釈)の伝達者でしかありえなかった教師の不自由さである。修身科を例にとれば、「倹約」といえば二宮金次郎、という定型化されたかたちでしか授業展開ができない、柔軟性のなさである。従来のように、教科書が授業において絶対的な位置をもつのではなく、教科書に足りない部分があればそれを別の教材で補充し、またときには教科書の内容と対立する教材を提示して子どもの思考を促すといった、実践の場での力量がこれからの教師には必要とされる―、そのような問題認識が上記の「教科書を教えるのではなく、教科書で教える」という指摘に反映されていると考える(さすがに河南氏が論じたような、「教科書を使った」授業の具体的ありようにまでは議論は及んでいないけれども)。
 戦後まもなくの時点で、文部官僚が、「教科書は絶対的なものではなく、学習のための一つの手段・道具にすぎない」と明確に述べていることは注目に値する。今日の我々からすればあたりまえに聞こえる主張だが、それまでの制度が教材も教育内容も国定化され、統制的なものであった当時からすれば、木田の主張はとてつもなく画期的なものであったにちがいない。

  *  *  * 

 だが、「教科書を教える」と「教科書で教える」をめぐる問題は、捉え方によっては(文言にとらわれなければ)もっとさかのぼることができそうである。 
 今セメの演習で自分は〈明治の森文政期の修身科における口授法採用〉に関して報告し、このブログでも書いたのだが、口授法にはまさに教科書を学習の一つの手段・道具とみなす教科書観が一部採用されていたといえる。それ以前の儒教主義に基づく教科書教授では、教科書の地位は絶対的なものであり、そこに記述された内容こそが学習の「目的」、「教育内容」であった。口授法はまさにそのような「教科書を教える」教授法への批判を含んで展開されたのではないか。森文政期、修身教育の方針をめぐっては、教師が模範となるという以外に、徳の根本方針=教育内容についての大きな展開はなかった。だから一方で、徳育をめぐって論争が展開されることとなった。そして教育勅語の発布へと向かっていく……。そう考えると、改正教育令期から森文政期に至る教授実践(教科書教授から口授法へ)の変化が、うっすらとは整理できる気がする。

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「口授」とは何だろう

「通常の忙しさ」に戻れると前回書いたのに、何だかんだと忙しい。ん? 「忙しい」ことには変わりないのか。ともかく、何が理由なのかさえわからず、「時間はあるけど暇がない」状況である。

 昨日は日本教育史特論・K山ゼミでの発表。
明治・森文政期における修身科の口授法採用をめぐる論文を用いて報告する。
明治前期のことはほとんど勉強していないため、これを機に勉強しようというのが理由の一つ。
もう一つの理由は、受講者である二人のM1に報告の負担が偏るため、かわいそうだからというものであった。もっとも、受講者の数から言えば、先生に指名されることは避けられなかったが。

   ■  ■

 森文政期に至る修身科教授法の展開は、大まかに整理すると、
「学制」期の「修身口授」(ギョウギノサトシ)に始まり、改正教育令期の教科書教授を経て、再び口授法に戻る、という流れをたどる。そして、教育勅語公布後の教科書教授の定着へと向かっていく。

 勉強してみて自覚したのは、「口授」(oral teaching)の中身がよくイメージできず、かえってその言葉をみると混乱してしまうということ。
 勉強する前まで、口授=教科書不使用という単純なイメージを持っていたのだが、どうもそれすら違うらしい。口授にも教科書(=教師用教授書)が使われた。口授用の教科書が発行されていた。
森文政期には小学校修身科については教科書を採定しない、という視学官通牒が出されるが、それは「修身書は刊行されているが、それらは文部省の検定の対象からはずす」という意味であり、口授の際に教科書を使わないということを意味するのではない。
 では、教科書を使う「改正教育令」期の教授法と何が異なるのか。教師用書としてではなく、誦読と暗誦のための生徒用という意味が教科書に付与されている点に、重要な相違点があるのだろうか。
 あるいは、「口授」という言葉は、儒教主義に対抗するような(教育内容にも及ぶような)特別な意味を帯びていたのだろうか。それとも、口授は、教師が、教具・実物(教科書を含む)を使って、児童生徒に〈口を通して〉知識を〈授ける〉という、今日ではありふれた、しかし、当時は欧米から移入されたという意味で、斬新な授業形態を指すものと考えてよいのだろうか……などなど、報告しておいて何だが、疑問は尽きない。

   ■  ■

なお、「修身口授」の辞書的意義について調べると、以下のように記されている。

「日本の近代学校教育が、道徳教育を目的として設けた教科の最初の形態。学制期特有のもので、実質的に修身科が成立するのはつぎの教育令期であるが、その前段階となった。(中略)日常的なしつけよりむしろ基本的な倫理の知識理解に重点が置かれたものと考えられる。」(海後宗臣編『日本近代教育史事典』平凡社、1971年、336ページ、岸井勇雄筆)

 この太字部に関心をひかれる。というのは、森文政期になると、「口授」の道徳教育上の有効性が(開発主義の影響を受けて)児童生徒の感情への働きかけという観点から論じられ、それによって修身における知識の伝達という側面は熟読暗記的として批判されるようになるからである。少なくともそういう論調を確認できる。学制期における知識理解の強調とは対照的である。
 今日問題視される知育偏重-徳育重視のステレオタイプ化された関係性がこの時期の論調からも想起される。しかし、そんな有効性を主張された「口授」は、儒教主義的理念を掲げる人物たち、すなわち、学制期以来の啓蒙的風潮(知識才芸の重視)を批判し、それこそ徳育重視を先頭に立って掲げた人たち(例えば西村茂樹)からは批判されたという、何とも複雑な関係があった。
 この教育方法をめぐる論議の土台には、徳のバックボーンを何に求めるかという問題があり、さらにそれをめぐるドロドロした駆け引きもあったと考えられる(例えば、森文政期に修身科教授法で口授が採用されたのは、勅撰修身書の検定を回避するためであった、という掛本勲夫氏の見方がある)。だが、その生々しく、それゆえおもしろさが詰まった部分を掘り起こす力量なんて、自分にはないわけで―。

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マジでお疲れ!!

 先週土曜日は、教育会研究会(第12回)。はるばる広島からSさんも参加するなか、
自分は、Iさんとともに(というか半ば強引に誘い)村教育会をテーマとして共同発表する。
リポDを二日間で四本(いやそれ以上か)飲んだおかげで、質はともかく、量的には豊富なものに仕上がった。
 中田という地域を取り上げることの意義(宮城県全体の動きにおける中田の位置)など、言われるべきことをしっかり言われるとともに、今後の考察への糸口となる新たな知見をたくさん頂くことができた。
 さしあたり、来月末の学会論文提出に向けてIさんと取り組まなければならない課題は、郷土教育をめぐるK先生から頂いた以下の指摘に関わるだろう。すなわち、
 それまでの地域の生活から分断されるかたちで設立された(ものとみられる)近代学校の実態が、実際には我々の予想以上に、「地域の学校」を担っていたのではなかったということ。「教育の郷土化」に関する視点はすでに明治期からあり、昭和期の郷土教育運動に至る過程は、すでに展開されている実践が、郷土教育論(言説)を纏っていくことで成熟していく過程ではないかということ、それゆえに、問題は、何をもって郷土教育というか、どれくらいのスパンで意識的に時代を切るか、という事であり、論じる側の問題認識が問われるということ―。Iさんがんばってください(他人事)。

 もう一人の発表者は我らがC田さん。明治末期、教育勅語趣旨徹底に地方教育会がいかなる役割を果たしたか(文部省の諮問に応じた全国連合教育会の答申作成に各地方教育会がどう関わったか、連合教育会へ提出した各地方教育会の意見内容はどんなものであったか)がテーマ。「再修正版」ということであったが、実は自分がちゃんと聞くのは今回が初めてであった。
 以下の指摘が、印象に残る(引用させていただきます)。

 そもそも文部省の諮問自体が、教育勅語の理念内容そのものの時代不適合化という核心に手をつけることなしに、権威動揺状況を克服する途を趣旨徹底の方法的補強と徹底の実際的主体の能動的な意識と行為を喚起することに求めた措置だったのであり、これに対応した地方教育会の側も核心に触れることはせずに、趣旨徹底のための具体的方策の案出と方策の効果を基礎付けるものとして教師の信念に動機づけられた実践努力の調達との二点に問題を専ら限定して答申を作成していたのである。地方教育会答申は、教育勅語趣旨徹底の要請をその構成員たる教師自身の「心のありかた」の問題に収斂するかたちで作成されていたのだった。こうした文部省と地方教育会との教育勅語趣旨徹底をめぐる悪循環が明治末期の天皇制教育理念の動揺状況を一層深刻にし増幅させていくのであった。

本来は教育勅語それ自体、および勅語がもはや「時代不適合」となっている社会状況のほうに眼を向けなければならないはずなのに、あくまで教育を教師の努力で何とかすれば勅語の趣旨は徹底できるという教育万能主義というべき問題の枠組み(むろんそこでは教育勅語も「万能」だろう)に教育会の答申内容が収まってしまっていること。そのことが勅語の権威性をたえず意識化させる一方で、あくまで(それだけでは解決困難な)勅語の趣旨徹底に収斂するかたちで問題化されるため、結果的にたえず勅語の権威性が脅かされるという「悪循環」。
 自分にはそう読めた。何だか今日の教育基本法「改正」論議にもあてはまるような問題の構造がそこにはあったと思えてくる。今日違うのは、「時代不適合」だから教育の基本理念を変えましょうと、あっさり言えてしまえるところか。

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都教委に愛(国心)をこめて

 教育基本法「改正」に関する報道がなされた直後の土曜日、朝刊をみてまた驚いた。
「職員会議での採決禁止 『校長の決定権拘束』 都教委通知」(『朝日新聞』、2005年4月15日)という記事である(ちなみにこの前日もまたすだ公民館長と飲んでいた)。

東京都教育委員会は13日、職員会議で、挙手や採決によって職員の意思確認を行わないよう指示する通知を都立高など全263校の都立学校長あてに出した。都教委では98年、「職員会議は校長の職務を補助する機関」と定義しており、今回の通知は、その趣旨を徹底するためとしている。

 「学校経営の適正化について」と題する通知では、職員会議について「議決により校長の意思決定権を拘束する運営は認められない」との方針を強調。校務や、児童・生徒の成績判定などについて「『挙手』『採決』などの方法を用いて、職員の意向を確認するような運営は不適切であり、行わない」と具体的に指示した。(以下、略)

 余裕のなさの表れであろうか。そして、当然だが、この措置に反論が寄せられている。
「『民主主義を学ぶ場で…』識者懸念 職員会議の採決禁止」asahi.com、2006年04月15日。

職員会議での「挙手や採決の禁止」を指示した東京都教育委員会。「校長のめざす学校づくりの推進のため」としているが、識者からは「都教委の顔色ばかりが気になり、校長のリーダーシップが発揮できなくなるのでは」との懸念の声もあがっている。(以下、略)

朝日新聞社説に至っては、「あきれる、というよりも、思わず笑ってしまう、こっけいな話ではないだろうか」と述べている(社説「採決禁止 東京の先生は気の毒だ」『朝日新聞』、2006年4月15日)。
 そこまで指示しなければならない切羽詰まり具合をみると、たしかに「こっけいな話」である。だが、せっかくなので「思わず笑ってしまう」だけで終わらせず、歴史を振り返ることで、愛(国心)に溢れた意見を都教委に呈示したい。
 戦前、ちょうど今の23区にあたる地域が東京市であったころ、当時の教育行政当局がどのような施策を現場に対して講じていたか。それを振り返ると、今とは比較にならない、ある意味で巧妙とも受け取れる施策を展開していたのを確認できる。

  *  *  *

 大正期に興隆した新教育運動、いわゆる大正自由教育―児童中心や個性尊重をスローガンとする―は、学校現場に大きな反響をもたらした。都市の私立学校や師範学校附属小学校などの中心校(成城小、玉川学園、千葉師附小、明石女師附小、奈良女高師附小など)には、新しい教育実践に関心を抱いた参観者が多数訪れた。著名な教育家たちも進んで全国を行脚し、新教育の普及に努めた。
 その結果、公立の学校にも、学校単位で大々的に実践に取り組む「新教育」実践校が誕生することとなった。各地の教育史を繙けば必ずといっていいほど、大正自由教育に関する記述を眼にすることができる。
 この新しい教育の動きに危機感を抱いた内務省や各府県当局、そして文部省は、現場に対して抑圧的な対策を施すようになる(茨城「自由教育」弾圧事件、川井訓導事件、岡田文相新教育禁止の訓示、文部省の奈良女高師附小合科学習批判など)。それは、ひたすら現場への非難・干渉に終始している点で、昨今のジェンダ・フリー・バッシングと似たものを思わせる。
 しかし、このような抑圧的な政策動向と比べて、同じく新教育が活発であった東京市教育行政当局の対応はやや様相を異にしていた。

 東京市の公立小学校では、とりわけ下町に「新教育」を展開する学校が続出する(*1)。それは山手の進学校とは対照的な傾向であった。
 東京市はこの「新教育」を一方的に抑圧するのではなく、むしろ活用する方向で施策を展開していった。例えば、浅草区の富士小学校(*2)では、教師が実施した合科学習(今でいうと生活科、あるいは総合的学習になろうか)を他校の教師たちが非難するなか、市の視学課長が認める=公認するという、当時の文部当局とは対照的な対応を示した(*3)。また、当時の東京市では、公立小の校長に海外教育視察の機会を提供し、日本の学校が魅了された「児童中心」を基盤に置く欧米の実践を持ち帰らせるという施策まで講じていた(*4)
 東京市の動向からは、むしろ行政当局が「新教育」の広がりの媒体となっていた一面が確認されるのである(*5)
 そして、「新教育」研究に従事し、理論・実践の両面で経験を蓄積した教師たちは、1930年代に入ると積極的に教育行政に協力していくことになる。先の富士小を例に取ると、校長は文部省の図書委員や全国連合教員会(現全国小学校長会)会長になり、教育行政に一定の影響力を持つ存在へとなっていった(*6)。合科学習を公認された教師は文部省から求められ、教科書改善のための意見書を提出したりした(*7)
 さらに同小学校の実践は文部省から注目されることで、あの皇国民の育成を掲げた国民学校の実践体制構築に積極的な役割を果たしていくことになる(*8)
 
 以上のように捉えた上で(*9)、都教委のために、次のように主張しよう。
 「新教育」ということで周囲から批判を浴び、ともすると教育行政当局にとって厄介な存在であった現場の教師たちが、実践の変革や積極的な学校経営を通し、結果として国民学校へと至る教育行政の動向に協力していったという点に、東京市教育行政当局が教師たちの「新教育」実践を生かしつつそれを無害化して吸い上げる役割を果たしたという点に、都教委の皆様は勉強されてはどうでしょうか、と。何でも上から押しつけても、新たな軋轢を生むだけで、おそらく思うような結果は望めませんよ、と。

〈註〉
*1 上沼久之丞編「日本新教育学校表」『教育時論』第1582号、1929年5月。
*2 富士小学校の実践については上沼久之丞『体験 富士の学校経営』明治図書、1936年などに詳しい。
*3 奈良靖規「低学年教育法とその反省」『教育方法史研究』第二集、1984年、128ページ。
*4 その背景には当時の市長、後藤新平の判断があった。小原国芳編『日本新教育百年史 第4巻 関東』玉川大学出版部、1969年、395ページ。
*5 鈴木そよ子「公立学校における新教育と東京市の教育研究体制―1920年代を中心に―」『教育学研究』第57巻第2号、1990年。
*6 台東区立教育研究所『曠野を拓いた人々』、1977年、22ページ、大高常彦筆。
*7 奈良靖規『民族理想に立つ修身教育』同文館、1933年、153-162ページ。
*8 小林節蔵『国民学校の実践体制』モナス、1940年。
*9 当然、ちがう解釈も成り立つ。例えば、〈教育行政サイドのなしくずし的対応〉や、〈抑圧的政策のなかでの教師たちの精一杯の抵抗〉といった見方が挙げられる。

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子どもと教師が登場する教育史

  エイプリル・フールの土曜日は教育会研究会に出席。「四月バカ」とはおよそ無縁の、中身の濃い報告に接して、お腹はいっぱいである。

 C先生は、一教育史研究者としてのこれまでのあゆみを辿ることを通して、地方教育史研究の課題と方法について語られた。「思想性や価値観」を明確にすること、自身の研究が現実問題とどこで接触しているかという悩みを持ち続けること、などの留意点を、外では聴けない学生時の体験談など―先生が展開されてきた研究の社会的背景―をふまえながら、ユーモアたっぷりに話された。
 自分なりの価値判断や思想を徹底して排除する(=研究者としての判断/責任を回避する)ような研究ではいけない、「子どもと教師が出てくる教育史」(⇔官製の教育史観)でないとおもしろくないという指摘には、強く共感するとともに、教育史学会で先生に注意されたことを思い出し、身に滲みる。
 
 また、もう一人の報告者、Y先生の発表はとても緻密で、地方教育会を研究するにあたっては具体的に何をどう調べる必要があるか、そのお手本を得ることができた。一見して何の関係もないような歴史的事実が、実は自分の過去とつながりをもつものであった、なんて発見を自分もしてみたい。

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教師と地域社会の「昭和」―郷土教育運動―

 学会発表は何とか終了。
いつもながらの時間ギリギリでの資料作成。
共同発表を持ちかけられたイタバシさんにとっては、さぞ辛かったにちがいない。
ゆっくり休んでください。

今回の発表で対象とした名取郡中田尋常高等小学校(現仙台市立中田小学校)。
同校の教育実践を語る上でのキーワードは〈郷土教育〉〈村教育会〉である。
この二つを欠いては同校の教育実践を語れない、というのが発表者の見解であった。

 従来の研究では、都市部の学校や師範学校附属小学校における児童教育実践としての「郷土教育」に視点が限定されてきた。だが、(全国のほとんどがそうであった)農村部で展開された圧倒的多数の〈郷土教育〉は、もっとちがうものだったのではないか。
 小学校教師が実業補習学校の教員や青年訓練所など指導員を兼ねていたことから考えても、小学校に端を発する〈郷土教育〉は、本来青年教育や村民教育(社会教育)を含めた体系的な構想の下になされたものだったのではないか。
 したがって、教師の活動は地域社会の課題と連動して展開されたものであり、その点から〈郷土教育〉も再考察する必要があるのではないか。

というのが、発表者の―正確には自分が解釈したイタバシさんの―問題認識であった。
 そこで、学校・教員がいかに地域住民・子どもと関わっていったのか(なんかどこかの公民館長の博論テーマとも似てきたな)を、昭和初期に郷土教育で名を馳せ、新教育協会といった教育改造の全国的推進団体とも関わりを持っていた、さらには村教育会という装置をもっていた中田小学校を対象に、分析しようとしたのであった。

                ◇
 
 発表に対し、カサマ先生からは、中田小という個別事例を取り上げる意義が見えないという指摘を頂いた。「個別と一般」をめぐる指摘(去年も頂いた_| ̄|○)であるが、これは単に、上述の問題認識で応えるだけでは対処できない難しさを含む指摘である。先生の指摘は、教師の活動と地域社会との関わりを考えるのであればもっと時間的に広いスパンで見ないと駄目である、というものであった。先生は著書で次のように述べておられる。

「地方改良運動の時期に内務省関係者によって強調された内容が、大正半ばと昭和初期に至って、文部当局者に受け継がれて主張されるようになっていたことに注目すべきである。そこではともに小学校と小学校教員が『地方教化ノ中心』としての役割を果たすべきことが求められていた。その根拠づけは、大正半ばでは社会教育振興であり、昭和初期では郷土教育振興であるが、両者ともに地方振興政策を政治的背景としていた点で共通していた。重要なことは、地方振興が内政上の重要かつ緊急の課題として強調される度ごとに、小学校と小学校教員の役割が町村振興とのかかわりでとらえられ、『社会教化の中心』あるいは『地方教化ノ中心』として活動すべきことが強調されてくることなのである。この地方振興と小学校という関係図式は、その原型が地方改良運動の時期に形成され、そこに源を発していたということができる。」(笠間賢二『地方改良期における小学校と地域社会―「教化ノ中心」としての小学校』日本図書センター、2003年、13ページ)

だから、昭和初期の郷土教育は明治末期からの地方改良運動とはどう異なるのかを明確に論じなければ、先生の質問への回答にはならない。つまりは、学校と地域社会との関わりという問題認識で中田小を取り上げる意味が見えてこない。史料を前に方法論を鍛えていく難しさを痛感する。
 その指摘の直後に、カジヤマ先生からいただいたコメント(=援護射撃)が、むしろ自分が「今後の課題」として解答すべきことであったと反省する。それは「中田小学校では30年代、郡役所廃止後設立された中田村教育会を通じて教員が新教育論(に支えられた郷土教育)を主張していく。これは千葉県が郡役所廃止を契機に自由教育への統制を強めていったのとは逆ではないのか。山田(恵吾)さんへの反論を展開できるのではないか」というものだった。自分がうっすらと感じていたことを発言して下さったのでありがたかった。とはいえ、それを導くための道程は険しい。宮城県も山田さんと言った通りだぞ、というオチにもなる可能性も、考察をしていてずいぶん感じたからである。
 今回の発表はほとんど資料紹介で終わっしてまった観がある。今後さらにこの研究を、カジヤマ先生の言葉をお借りすれば「こってりした」(濃厚な)ものにできるようがんばらねば、と決意した2006年春。クタクタ。

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「学徒」たちの「戦争」

 東北大学史料館企画展~「学徒」たちの「戦争」―東北大学帝国大学の学徒出陣・学徒動員~に行く(2月24日まで開催、入場は無料)。
 戦時色が深まっていくなか、当時の「学徒」たちは、自分たちが置かれた状況をどのように受け止め、どのように生きようとしたのか、そして、60年後を生きる「学徒」たちに当時の記憶は何を語りかけてくれるのか、といった関心から耳(というよりも眼)を傾けてみたくなった。将来が見えないなかで学生たちは何を考えたか、という視点から当時を振り返るならば、若者を取り巻く今日的状況への示唆をも得られるのではないか。

 展示では、
1938年以降の夏期休暇等における「勤労奉仕」に関する史料・写真に始まり、
「学徒出陣」・「学徒勤労動員」に関する学内の動きを伝える史料を、敗戦まもなくのころまで辿ることができる。
学生たちの心境を綴った手記、〈学徒勤労と大学教育〉をめぐる大学教員の所感(「勤労動員と大学教育の両立に関する教員の意見書」、1944年8月)などは、興味深かった。
手記の中には、自身の教養に寄与するはずの文学や芸術の時局的な偏向を批判するものもあった。
「大学教員」の意見からは、学問の頽廃を何とか防ぎたいという想いを読みとることができる(とりわけ法文学部の教員にそれをみた)。
学問あるいは教養の収得に専念できない状況の悪化を嘆きつつ、私情をおさえ、状況を何とか肯定的に捉えようとする努力の痕には、痛々しさを感じた。

〈リンク〉
・東北大学史料館
[http://www.archives.tohoku.ac.jp]]
・東北大学関係写真データベース
[http://www2.library.tohoku.ac.jp/tua-photo/]

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資料群の中心で「方法論がない」と叫ぶ―いつものごとく―

   水曜日、中田小学校から長いことお借りしていた資(史)料群をお返しにあがる。
自作の蔵書目録、手土産、指導教員の顔、の三点セットを付けて。
学校といった、こちらで人数を把握していない多数の方々が働いているところへの手土産としては、ケーキのようなものがいいことを先生からアドバイスされる(先方で人数分切り分けてもらうことが可能だから)。
 それにしても、資料をコピーし、あるいはデジカメに保存するという地味な作業にはかなりの時間を労した。肝心の中身には、まだほとんど眼を通すことができていない。

               ◇

 今回の研究がもつ難しさは、これまで歴史の表舞台ではほとんど着目されてこなかった一地域の公立小学校を研究対象とする点にある。「なぜ、この学校を問題にするのか」、それに応(堪)えられる問題を設定しなければならない。作業的課題として言い換えれば、
・発掘した史料からどう方法論を組み立てるか
・地域の一事例から、どう全国的に通じる視座を引き出せるのか―個別の事例から、それを包括する一般性を引き出せるかどうか
・その歴史的事実に、どのような現代的意義を見出すことができるのか

ということになろうか。地域教育史・地域学校史に関する文献に眼を通す必要がある。
 地域の教育史を扱うことが年季のいる仕事であることは、すでに指摘されているところである(「一地域最低三年」)。大学における教育史のポストが減る一方で、多くの業績を量産することが求められる今日的状況では忌避されやすい研究領域といえる。どう折り合いをつけるのか。実は、そこが一番の悩みかもしれない。

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「桃太郎」教材化の過程に関するメモ

 水曜日、「トリビアの泉」のスペシャル、「最強の国民ランキングSP!」をみた(4時間しっかり見てしまった)。
ここのところ放送を見逃していたので、ほとんどのトリビアが新鮮だった(ネタそのものを忘れてしまっていたのもあるかも)。
一青窈「もらい泣き」の再生速度を遅くすると、平井堅が歌っているように聞こえるというのには感動した(もらい泣きはしなかったけど)。「カブト祭り2005」をもう一度みることができたのもよかった。

さて、ここで一つ取り上げておきたいのは、
「桃太郎は桃からではなく、桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんの間に生まれた」とするトリビアである。
これに関して、
「1887(明治20)年、『桃太郎』を国定教科書に載せるときに修正された」
という桃太郎資料館の方の説明が加えられていた。
だが、この説明には誤りがある。
教育史を学んだことのある人間であれば、すぐ気づくはずである。
(小学校)教科書の国定化は、1904(明治37)年からはじまる。1887(明治20)年より、10年以上後のことである。だから、上記の説明には時期のズレがある。
文中、「国定」が「検定」であれば、問題はない。
検定制が確立するのがこの時期である(森文政下の明治19年4月、「小学校令」に「小学校ノ教科書ハ文部大臣ノ検定シタルモノニ限ルヘシ」と規定。同年5月、「教科用図書検定条例」および「小学校ノ学科及其程度」に学習内容を明示。翌20年に「教科用図書検定規則」、といった具合)。
だが、「国定」のほうは正しく、「1887年」のほうが間違っているという可能性もある。

 そこで、私も「実際に調べてみた」。
やはり、「国定」ではなく、「検定」のほうが正しい。
そして、その検定教科書とは、『尋常小学読本』巻之一(文部省著作、1887年、第二十六~二十八課)のことを指す。なお、国定教科書での最初の「桃太郎」話の採用は、第二期本(『尋常小学読本』ハタタコ読本・黒表紙、および『尋常小学国語読本』ハナハト読本・白表紙、1918年~)である。
したがって、正確には、
  この『尋常小学読本』以後、我々になじみ深い「桃太郎」のストーリーが普及するようになる。そして、その普及は全国統一の国定教科書への教材化によって、さらに加速する。
ということになろうか。
 桃太郎資料館の館長の記憶違いは、国定版「桃太郎」の影響が現代の我々にはもっとも強いという認識から起こったのではないかと推測する。
 そして、さらに深読みすれば、それは、主人公の出生が回春型(桃太郎は、桃を食べて若返った夫婦から生まれたとするもの)から果生型(桃太郎は老婦人が川から拾ってきた桃から生まれたとするもの)へ移行しただけでなく、ストーリーの中核としての「桃太郎」像にも転換があったことを示唆したものと考える。陽気な侵略者から善なる侵攻者への転換といった具合に。

『尋常小学読本』巻之一(1887年・明治20)、「第二十七課」
「ある日、 ぢぢ ばば に 向うて、『私 は、 鬼がしま へ、 たから物を 取り に 行きたい』 と いひました。」
     
『尋常小学国語読本』巻一(1918年・大正7)

「オニガシマ ヘ オニセイバツ ニ。」

〈註〉井上敏夫編『国語教育史資料 第二巻 教科書史』東京法令出版、1981年。

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Valuable Documents に囲まれて

 火曜、水曜と玉川大学の学園史料室へ調査に向かう。訪問した12月13日が、創立者小原國芳の命日(1977年12月13日)であったことを、行ってから気づく。学園史料室は小原記念館を兼ねており、「おやじ」こと小原翁が生前住んでいた住居が使用されている。最近改装されたばかりとかで、自分は改装後学外入居者第一号となった。
 一室をお借りして、創立以来の機関誌『学園日記』(のちに『労作教育研究』と改題)を拝見する。おそらくここにしかない貴重な史料である。
『日記』を通して見えてきたこと、それは、創立当初の学園にとっては、まさに学園づくりこそが教育実践であったということである。
まだ何もない土地を校地として開墾・整備していくことから、学園の教育がスタートしたといっていい。そして、市街地から隔離された中での生活に、教師と子どもがともに順応していくことがそのまま教育実践となっていた。
学校経営の面においても、雑務に小使は雇わず、すべて「塾生」(当時は「玉川塾」とも名乗っていたことから)によってまかなう(学生による当事番は戦後も継続していたと聞く)。
『学園日記』の執筆・製本・配送の作業に大人・子ども関係なく参加する(たとえば、「学園日記抄」の欄には、学園児童の記述も登場する)。
食事も当番制で作り、皆で一緒に食べる(食材も自分たちが「労作」で育てたもの)…等々。
 そのほかにも、小原と小西重直を乗せた車があやうく電車に轢かれそうになり、怪我を負った事故のことなど、文献からはまず見えてこない教育者たちのエピソードを垣間見ることもできる。
 そして、また見つけてしまったI橋ネタ。米山重助「西目村の教育(一)」同「(二)」なる論考が出てきた。玉川学園では、西目のほかにも全国の「労作学校」を調査しており、研究会も継続的に実施している。そこに見えてくるのは「労作教育研究拠点」ともいうべき同学園の位置ではないか。
加えて、同学園には、徳富蘇峰や西田幾多郎ほか、海外からも著名人が多数訪れている。国際的な教育情報の発信源としての機能も果たしていたのではないか。「(大正)新教育のその後・30年代的展開」を考える上で、玉川の果たした役割を分析することの重要性―『日記』を見ていて、そう考えた。

 水曜日は、教育学部長さん(小原翁の秘書をしていた)が学生さんたちを連れて記念館を見学に来られたので、一緒に交ぜてもらう。生前小原が使っていた書斎などを案内していただく。これもめったにない貴重な体験であった。

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バタバタ(2)

 実家の近くに旅客機が墜落するのを目の当たりにする、そんな夢で目が覚める。あまりにひどい目覚めである。しかも、こういう夢に限って覚えていたりする。いったい、どんな深層心理の表れか。夢の中でもバタバタしていた。

 そんな昨日は、太白区の中田小学校へ、指導教員、I橋さんと資料調査に行った。
 この小学校では、昭和初期にあたる1930年代、郷土教育を熱心に研究・実践していた。『宮城県教育百年史』には、同校に関する記述が登場する。
 この学校にどのくらい史料が残っているのか確認したい。そう指導教員に申し出たところI橋さんも行ってみたいと応じたので、では皆で行こうということになった。そう、申し出たのは郷土教育を研究しているI橋さんではなく、自分なのである。なぜこの学校に着目したのか、それを説明すると少し長くなるので、ここでは省略するが、とりあえず、自由教育の30年代的展開を考える場合、どうしても郷土教育に触れざるを得ないとだけ述べておこう。
 結果的に、三人で行って正解だった。かなりの数の史料が保管されていた。これには三人とも驚いた。「まさかこんなにあるとは!」。とても短時間で対応しきれる量ではない。空段ボールをもらって詰め(A4コピー紙の空箱7箱+αにもなった)、大学に持ち帰り、コピーすることとなった。快く史料を貸し出して下さった校長先生の期待に応えなければならない。
 約束した期限は10日間。とりあえずは、リストの作成からである。大変だが、まだだれも考察していないとなるとワクワクする(ただし、論文化したかどうかは不明だが、あの出版史料研究家N邊S也さんがかつてここを訪れ、手書きの蔵書目録を作っていたのがわかった。話を聞く必要がありそうだ)。

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勝手に補足[郷土教育と北方教育]

 川合章『日本の教育遺産―真実を求める教師たち』(新日本出版社、1993年)を読んでいたら、「秋田県由利郡で開かれた『生活教育研究会』」(第二部「三、社会像をめぐる苦悩―野村芳兵衛の場合―」、144頁)という記述を見つけた。野村と北方教育の出会いについて述べられている部分である。
 残念なことに、その研究会の詳細についての言及は同書ではなされていない。野村芳兵衛がこの研究会に参加したのかどうかについて、自分は文脈から判断することができなかった。 註に挙げられていた、佐々木昴「生活教育に関連して―小川・野村氏の論戦―」(『北方教育』第8巻16号、1936年2月、2-5頁)を読めば、はっきりするかもしれない。

 いずれにしても、由利郡で(おそらく1930年代に)「生活教育研究会」が開かれていたことは注目すべきである。
 先日の地方教育会研究会でI橋さんから、由利郡西目村で展開された郷土教育についての報告を聞いた。その際、K間先生が、郷土教育と北方教育・生活綴方との関係(交錯性)について質問された。これについて、由利郡のような南部ではあまり北方教育は盛んではなかったのではないかという趣旨の指摘も出されたが、やはり両者をめぐっては、全県単位で、何かしらの関係が構築されていたと見たほうがよいのではないか。
 この記述をI橋さんに紹介したら、由利郡でも教員の検挙事件はあった、以前も先生から指摘されたけどこの問題はやはり避けては通れないか……との反応が返ってきた。でも、この難題が解けたらスゴイですよ。

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聞くほうも重い

 今日は、地方教育会の研究会に出席。
あいかわらず、ハイレベルというか、内容について行くのがキツイ。
お二方とも、足を使い、手間暇かけた重厚な報告で、話題性があり、議論も広まりと深まりを見せた。そのような報告を一度に二本。聞く側にとっても重い(とは、C葉先生の言)。
 I橋さんの報告は、ゼミで聞いてきた内容を含んでいたので、自分や指導教員もああだこうだと言っていたことを思い出しつつ聞いていたが、この研究会での先生方からの指摘は別格。なるほどそんな見方もあるのかと唸る。「確認のため」といって出される質問も、報告者の分析視点の深化を促すような、建設的で鋭いものである(そのような質問はTゼミでは出ないし、自分も出せない)。そんな、さらなる考察のきっかけとなるようなところに、すばやく「眼」が行くという、その「眼」の精密さに学ばなければと思う。もちろん、一朝一夕で自分の「眼」が鍛えられるわけはないから、こうして研究会に出席しているのだが、果たして鍛えられているのかどうか┐(´~`)┌
 Oさんの報告での議論中に提起された問題―教員養成史における師範学校史偏重の問題(師範卒は全体の三割程度、多数はnot師範出)と教育会の教員養成事業(あるいは他の養成ルート)の問題―さまざまな教員養成のありようへの指摘も面白かった。たとえば、壺井栄『二十四の瞳』で師範出の大石先生に向けられた同僚教員や庶民の眼差し、その背景を知り、物語の理解を深めることにもつながるかもしれないなどと考えたりした。

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「時代を語る雑誌たち」を観る

 現在東北大学附属図書館で開かれている特別展示「時代を語る雑誌たち―雑誌メディアと戦時動員」に足を運んでみた。メディアをシンポジウムのテーマとする教育史学会の開催に合わせて、この特別展は企画された。今月24日まで開かれている(10:00~17:00)。入場は無料。10月15日付の毎日新聞河北新報には、この展示に関する記事が掲載された。大学外の一般の方も関心をもたれているようだ。
 戦時中の雑誌には、まさに「メディアは武器」という意図が貫かれている。事実、そのような趣旨の文句を雑誌中から拾うこともできる。さすがに四コマ(国策)漫画に関しては笑いのツボを共有できなかったが、いろいろな表現による戦時教化の実態(どのようなプロパガンダを行ったか)を読みとることができる。

 個人的な感想としてとりわけ強く感じたのは、〈女性の力〉である。
表紙に描かれた女性(子どもも含めて)は、美しく健康的で溌剌としている。勤労女性として、母として、「優しさ」と「強さ」の象徴としての女性像が、視覚メディアを通して迫ってくる。もちろん、それらは意図的に作られた、いわば発明された女性像だが、それだけ切実に〈女性の力〉が必要とされたことの証左ともいえる。
 しかも、〈女性の力〉は戦前にとどまっていない。敗戦直後の雑誌メディアからも、その輝きを確認できる。敗戦直後に出された雑誌には、例えば、『月刊母親学校』(昭和21年3月1日~)、『女性』(昭和21年4月1日~)、『新婦人』(昭和21年4月1日~)、『主婦と生活』(昭和21年5月1日~)、『女性改造』(昭和21年6月1日~)といったものが挙げられる。『婦人倶楽部』、『主婦之友』といった雑誌も戦時から継続して刊行されている。数的にみて決して少ないとはいえないのではないか。
 この〈女性の力〉を考えるうえで、鶴見俊輔が語った、以下の言葉は示唆に富んでいる。

生活について、より大きな責任を負うとともに、家事全体を自分たちがとりしきる能力があるという自信をもって、主婦たちは、戦争を終りを迎えました。彼女たちに対して、男性本位の立場から命令を与え続けてきた日本帝国政府は、降伏しました。そして男たちは自信を失いましたが、女たちは、自分たちとその子どもたちとその他の家族全体を、夫たちを含めて、その命を保っていくという日常の仕事をいままでどおり続けていきました。このことは、彼女たちにこれまでの近代日本でいまだかつて経験したことのない権威を与えました。「わたしが一番きれいだったとき」という詩を、茨木のり子(一九二六- )は、書きました。彼女は日本が降伏のとき一九歳でした。この詩は、敗戦直後の時期に多くの女性たちによって共有されていた高揚した自信に満ちた気分を表現しています。
〈註〉鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波現代文庫、2001年(初版1982年)、202ページ。

生きるために誰もが法を犯さざるを得なかった戦争末期-敗戦直後、女性たちは現存の国家の秩序と正面から対決するのは避けながらも、その公認の秩序に取り込まれることなく「暮し」を成り立たせていた。「戦時日本国家の中に包み込まれていない、そこからはみ出すような思想を実際上使いこなして」いた(同上、203ページ)。

 混乱や疲弊の中でこそ〈女性の力〉が華やかなものとして際立ってくるとしたら、現在の「男女共同参画」の動向もまた必然的なものといえるのだろうか。また、現在多くの雑誌で見受けられる、表紙を女性グラビアで飾るというケース―これも戦前からの〈女性の力〉との関わりで捉えられるものなのか。そんなことを考えてみる。

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嵐は去っていった

 教育史学会は大きな問題なく(たぶん)、終了。
期間中、300人を越す方が受付を通られたとのこと。シンポジウム・懇親会も盛況だった。
みちのくYOSAKOIなどの大型イベントも開催されていた中、これだけの人数が地方での学会に参加されたというのは異例だと、先生方は言っていた。打ち上げ時の梶山先生はほんと上機嫌だった。
一方、ライティング(writing)・オールナイトの日々が続いていた自分は、二次会の記憶がほとんどない(どうやら爆睡してしまったらしい、首が痛い)。

 毎度ながら問題だらけの発表となったが、的確な指摘(指導)を頂くことができた(もちろん、そんな指導を受けるレベルの発表ではいけないのだが)。「他の対象との比較を通して、研究対象を相対化させておく(位置関係を捉える)ことは基本的な作業である」。前から同じことをいろいろな先生から言われてきたけど、まだまだ自覚出来ていないと反省した。とともに、次の課題が明確なかたちで見えてきた。
 もっとも、それ以前の問題として「キチンとゆとりをもって資料を準備しておく」という点こそ反省しなければ。あれもこれもやろうとして、結局は雑駁な内容にしかならなかったということを防ぐために。一度内容を寝かせ、熟成させる(ゆっくり考え直す)時間をとることも、研究には必要なのかもしれないし。

 それにしても、発表者の皆さんはあれだけコアな史料をどうやって見つけてくるのだろう。「宝物を見分ける眼」をどうやって鍛えているのか。「すでに与えられている史料を加工するだけではない、生産作業へと向かわなければ自分の研究に重みを持たせることはできない」。そう思う一方で、「宝を前にしてもそれが宝と気づかず、その価値に気づかないのではないか」とも思ってしまう。万一宝も見つけてもそれをどう処理していいかわからないという問題も加わるし、ほんと歴史研究ってむずかしいなぁ。とりあえず、嵐(=学会)のために資料でめちゃくちゃになった机の上の整理からはじめよう。

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「実際の理論化」という思想

 東京市富士尋常小学校(現台東区立富士小学校)。大正末期から昭和初期にかけて「新教育」実践を展開し、海外の著名な教育思想家も来校するなど、高い注目を受けた学校である。
 同校では、校内に「学習指導研究会」を設け、教師たちによる自主的な教育実践研究の成果を、学校発の雑誌『実際の理論化』を通して発表していた。当時においては、このような機関誌を学校単位で発行するだけでも相当の努力を要したはずである。創刊の第一集こそ活版印刷での発行となっているが、そのほかは謄写版(ガリ版)印刷である(東京大学教育学部図書室所蔵)。
 しかし、それ以上に驚くのは『実際の理論化』というそのタイトルである。教師の主体性をこれほど明確に表明したタイトルも珍しい。
 明治期の「公教育教授定型」成立(稲垣忠彦『明治教授理論史研究』、1966年)に代表されるように、日本における教育実践は、あらかじめ与えられた「理論」に基づく画一的な「実践」というパターンをとってきた傾向が強い。戦後における新教育(あるいは今日の教育)もまた、一見自由で活動的な教育形態をめざしていてようであっても、「理論の実施」を志向する限りでは基本的に類似したものであった。
 生活綴方運動などに代表される一連の民間教育運動は、そのような「理論の実施」というかたちでの教授形態(それは主に画一的な様相を呈する)が社会や子どもの現実に対応していない、という反省や批判に立脚して展開されたものであった。例えば、戦後教育のなかで一大センセーションを巻き起こした無着成恭の『山びこ学校』は、整合的で首尾一貫してはいてもいかにもよそよそしい、そんな新しい「理論の実施」への痛烈なアンチ・テーゼであったと見ることができる。これらの運動には、教育実践は、単に「理論の実施」であるべきではなく、その理論自体が実践のなかから導きだされなければならないという思想が共有されている。
 富士小の教師たちも、まさにこの立場に立って「新教育」を展開した。上沼久之丞校長は次のように述べている。

かつてヘルバルトの教育原理を実際に適用せんと努力した過去に於ては、歓喜に充ちた努力が続かなかつたから創造的生命は味へなかつた。規定を束縛的機械的に感じて不満に充ちた生活であつた。限りなき発展の文化に参加してゐる心持ちになれなかつたから理論の知的蓄積に了つてゐた。子供に教へられて自己の歩むべき道を見出してからは、理論を現実の中に見つけて、自己の構成的態度を育てて歓喜に充ちた創造的生活を味ふことが出来る様になつた。
〈註〉上沼久之丞「教育に於ける実際の理論化」東京市富士小学校学習指導研究会編『実際の理論化』(第一集)、1928年、2ページ。

このような主張は、「理論の忠実な実施者・遂行者」という教師観とは真逆の、教師の主体性の確立と不可分のものである。どこかに「すばらしい、万能の(授業・学習の)理論」が先天的なものとしてあって、何の思想的対決を経ることもなくただただそれを利用しようとする、そんな受け身の姿勢からは「実際(=実践)の理論化」という発想は生まれない。それどころか、その「万能の理論」すら使いこなせないだろう(このように書くと、丸山真男の「『である』ことと『する』こと」を思い出す)。そのような理論(思想)受容の仕方とは訣別した、きわめて能動的な思考のあり方として「実際の理論化」は捉えられる。彼らが遺したメッセージは、今日の段階からみても、決して色褪せてはいない(ただし、富士小の教師たちがどれほどその思考を貫けたかについては、疑問の残る部分もある)。
 富士小の「新教育」は実施当初から「学力低下を招く」「子どもの行儀が悪くなる」など数々の酷評にさらされ続けた。が、そのような非難の嵐の中でも、研究活動は長期間継続された。昭和前期の、波乱に満ちた時代状況の中では特異な例である。そして皮肉なことに、戦時期国民学校教育のモデル校的存在として、文部省側からも注目されるようになっていく。

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現物貸借

 誠之学友会編(寺崎昌男監修)『誠之が語る近現代教育史』誠之学友会、1988年。

 このような本がある。東京都文京区立誠之小学校の同窓会組織にあたる誠之学友会が編集したもの。1000頁を越える大著である(しかもB5判)。新書感覚で手に持って読もうものなら、指が脱臼するんじゃないかと思うぐらいズシリと来る。一公立小学校が刊行する本のなかでも、これほどの大著はみたことがない。しかもこの本、いわゆる周年行事(=記念誌)ではない。このことは「極めて異例」である。

 寺崎昌男さんをはじめとする、東京大学教育学部日本教育史研究室の当時の面々(所沢潤・鈴木そよ子・木村元の四氏)が編集・執筆に加わっているところからして、教育史研究の見地からも、この学校とその所蔵文書がいかに貴重な存在かということがわかる。最初は執筆者の誰かがこの学校の卒業生なのかと思ったが、どうやらそうではなく、純粋に研究的観点からのよう。それにしても、こんな本があるとは、つい最近まで知らなかった。

 同書の説明によれば、この誠之小学校は「明治維新以来今日まで、一度も火災の被害を受けていない。関東大震災も、第二次世界大戦の戦災も、災害を直接受けることはなかった。したがって、開校以来の教育に関する資料が多数残されている」(「刊行にあたって」より)という。校内には「誠之史料館」があるようで(同小学校のWebサイトからは確認できないが)、ぜひ行ってみたいという欲求に駆られる。

 この本、自分の所属大学の図書館にはないため「現物貸借」を依頼したが、送料が(往復で)2000円近くかかってしまった。しかも、一週間以内に返却せよというのだからキビシイ(メールで連絡を受けてからだと実質六日以内)。1000頁以上もあれば目を通すだけでも大変だ。今回は、別にもう一冊依頼していたため、結局、この労作については自分にとって重要だと思われる部分をコピーして返却する。見逃している部分があるのではないかと不安だが、もう一度借用するのも(出費的に)勇気がいる。
 お金と時間、大学図書館の「相互利用」におけるこの二つの条件が、もう少し学生にとって望ましいものになってほしいなぁ。詳しい情報のわからない(=手にとって確認できない)本を借りるのは勇気のいることだから。それとも市民図書館などを利用するほうが安かったりするのだろうか。

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「昔と今」の二分法を越えるには

仙台もいよいよ梅雨明け。夏到来!
そんな中、久々に連続講義(集中講義)に出ているφ(。。;)
「植民地支配と教育」というテーマからして難しそうなイメージを持ってしまうが、K先生はきわめて懇切丁寧にひとつひとつの事柄について説明してくれる。「植民地支配という過去の問題に対して関心が持てない・現在の自分とのつながりがみえない」(=教育の歴史を学ぶ意義がわからない)という学生からの反応にもゆっくりとした口調で対応してくれる(一度説明の手順を頭の中で構築し、確認してから話し始めているような印象を受ける。当たり前のようなことかもしれないが、自分だったら絶対に慌ててしまい、早口となって、結果しどろもどろになるだろう)。

 以下は、(ある学生が上記のように素朴に感じた疑問とも関わる)歴史認識の問題について、講義資料中印象に残っている箇所の一部。テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために―グローバル化時代の日本』(平凡社、2002年)からの引用文である。

○「連累」(implication)
わたしの言う「連累」とは、過去との直接的・間接的関連の存在と、(法律用語で言うところの)「事後共犯(an accessory after the fact)」の現実を認知する、という意味である。(中略)
 「連累」とは以下のような状況を指す。
わたしたちは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。
わたしは虐殺を行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。
 わたしたちが今、それを撤去する努力を怠れば、過去の侵略的暴力行為によって生 起した差別と排除(prejudices)は、現世代の心の中に生きつづける。現在生きているわたしたちは、過去の憎悪や暴力を創らなかったかもしれないが、過去の憎悪や暴力は、何らかの程度、わたしたちが生きているこの物質的世界と思想を作ったのであり、それがもたらしたものを「解体(unmake)」するためにわたしたちが積極的な一歩を踏み出さない限り、過去の憎悪や暴力はなおこの世界を作り続けていくだろう。
 すなわち、「責任」は、わたしたちが作った。しかし、「連累」は、わたしたちを作った。

過去の問題がどのように現在につながり、今日の自分の生活意識に及んでいるのか。それを課題化するのはとても難しい。ついさきほどみた番組「クローズアップ現代」でも“ヒロシマが伝わらない”という問題(広島の教師の悩みやアメリカにおける原爆認識の実態など)が取り上げられていた。

 どんな過去の問題もどこかで自分の身近な問題とつながっている、という〈意外性のある〉事実がみえてくると、俄然歴史は面白くなる。そう思う。K先生の場合、自身の父親とある日本軍「慰安婦」との偶然的な関係からそのつながりを見出すという作業を行うことで、我々受講者にその一例を示してくれた。

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教育実践を研究する難しさ

 この週末の集中力と緊張感の欠如といったら、あまりに甚だしいものがあった。学会発表を前にして、はやくも現実逃避、敵前逃亡の構えに入ってしまった。どうも、からだ以上にこころのほうが夏バテしている気がする。

 10月の発表における自分の研究領域は、教育実践史の範疇に入ると思う。そのときそのときの時代の流れのなか、教師たちは現場においてどのような問題を受け止め、そこからどのように課題を構成し、解決へと実践を具体化していったのか。それを同時代の広い文脈(政策・制度、社会的状況との関わり)のなかで捉えていく。それが当該研究領域の課題であり、醍醐味だろう。
 だが、例えば、見田宗介さんが書いた以下のような文章を読むと、およそ教育実践を対象とする研究というものがいかに困難かと知り、暗澹たる気持ちになってしまう。

 「子どもってほんとにすばらしい」「先生ありがとう!」といった、ことばだけをとりだしてみると「気恥ずかしくなる」ようなことばも、このような〔固有の実践の―引用者注〕記録の中では生きている。これらのことばは、それが思わず生み落とされるその固有の場所の中では、それぞれに一回かぎりの、真実のことばなのである(そうではいことももちろんあるが、そうであることも一生に一度はあるのだ)。同時にこのような鮮度の高いことば、言葉がその中で生きている〈関係の海〉の中から言葉として釣り上げられるとき、たとえば「子どもはすばらしかったのです」という観念の一般性として抽出され、流通するとき、それは「教育くさい」言説として、あのわたしたちをへきえきさせる特有のにおいを発散しはじめる。(中略)
 教育にかぎったことではないが、教育の現場でことばが輝いたり踊ったりするというとき、その輝きや躍動は、その時その場に立ち会った子どもたち、大人たちの中でだけ新鮮に生きつづけられる。それが他人に伝えられ、後世に残されようとするとき、苛酷な変質を開始するのだ。大事なことばだからしまっておいた方がいいのだよ、とでもいうように。
〈註〉見田宗介「言葉の鮮度について―教育のことばの困難」『現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫、1995年、158-159ページ。

 教育の実践家が固有の状況のなかで生み落としたことば(実践の記録)も、その固有の文脈を離れることで、単なる美辞麗句へと転換してしまう可能性が高い(「生き生きとした活動」とか「子どもたちの輝いた眼」とか「確かな学力」など)。過去の教育実践家たちの言説にも、極めて抽象的・思弁的な言辞が多く見受けられる。しかし、その中にはまぎれもない真実が含まれているとすると、そのことば・言説を理解する側は、それらが生み落とされた固有の状況(ことばの指示対象)にも考えを及ばさなければならない。しかし、教育実践史の領域では、今は亡き先人にこれを直接確認することはできない(イタコさんにお願いして実践家の霊を呼び寄せてもらって聞き出した言葉って史料になるのだろうかと、以前仲間内で爆笑話をしたことがあったが)。当時の子どもをとりまく実態など多くの状況証拠を探りあてる過程を通して、固有の状況と、そこから生み出されたことばの意味内容を深めていくしかない。そう考えるとき、これから自分がやろうとしていることの途方もない道のりに愕然とし、一気に脱力してしまう。この先もこころの夏バテに苦しめられそう……。

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ブログという短冊に願いをこめて

 どうか、博士論文が書けますように。その前に、どうかいい学会発表ができますように……

 教育史学会で発表することに「なってしまった」。かじやま先生に押し切られてしまった(開催校の勢いがほしいらしく)。今回の件に限らず、後悔することが多いのに、なぜか先生からの「お願い」は断ることができない。なぜだろう、不思議だ。もちろん、引き受けた以上は全力を尽くすしかない。

 教育史学の世界では史料の重要性は絶対的である。研究者はいわばホームズやコナンのような名探偵の役回りで、犯人の残した証拠物件=史料をもとに、「じっちゃんの名にかけて」(でなくともいいが)事件の謎を解決していく。事件解決の鍵は、史料の中にある、というかそこにしかない。「史料をして語らしめる」ことで、事件を解決しなければならない。それ以外から(例えば、自分の足りない頭で考えた貧困な発想や借り物の理論的仮説から)事件解決の鍵=歴史解釈の論理を持ってくることは、むしろ批難の対象である。
 自分のあらかじめ持つ仮説の証拠になるような事実だけ集めるのではなく、ほんとうにこんなものが事件解決に役立つのかと思われるようなものも見過ごさず敏感に反応し、それら集めた資料体からその断片をつなぎ合わせていくことで、自分の中の仮説や常識、通説を捉え直していく(だから、「いい発表」というのは、自分でも思いもしなかったような結論に至ることだろう。「そうか、オレは大事なことを見過ごしていた」なんてセリフがでるような)。それは、ときに「財力」がものを言うほど、地道な作業である。それを10月までに自ら体現しなければならない…トホホ。だが、もうやるしかない。

 仙台は、最近になってようやく太陽が顔を覗かせない梅雨らしい天候が続いている。今日も日中はパッとしない天気だった。夜はいたばしさんと生協のビール祭りを楽しむ(気楽に飲んでる場合かとツッコまないで)。ちょうど生協も閉まるころになって星がみえるようになってきた。どうかこの願いが天に届きますように……。

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静寂のキャンパスでおもう

 珍しく早起きしたので、午前中は附属図書館で資料収集をしようと大学へ向かったら、やけに静かな様子。しばらくして「今日(6月22日)は大学の創立記念日だ」ということに気づく。図書館が閉まっていたのは残念だったが、生協(書籍部と食堂)は開いており、人がまばらなせいもあって、いつもの騒がしさとは異なる快適な時間を過ごす。

 在籍する大学でありながら、その創立までの歴史やその後のあゆみについて、自分にはきちんと語る術がない。以前講義で教わったり、自分自身で調べたこともあったのに、急速に記憶の彼方に消え去ってしまい、知識再生が困難な状況になってしまう。学習の仕方(知識の構造化の仕方)が悪いのだろう。

 大学創立の経緯やその後の歴史展開をまとめる沿革史(五十年史や百年史)の編纂作業は、とくにここ数年、多くの大学でなされており、自分が在籍する大学でも創立100周年にあわせて、百年史が刊行中である。そのような沿革史編纂の過程を通して、大学文書館(大学アーカイヴス)の設置(への提言)など、編纂の手だて・システムも着々と進歩していると感じる。以下のような、大学沿革史の編纂手引書も出版されているくらいである。
 ■寺崎昌男・別府昭郎・中野実編著『大学史をつくる―沿革史編纂必携』東信堂、1999年。
同書に次のような記述がある。
「沿革史の編纂・刊行は、一見地味な仕事のように見える。だが実は、最も息長く、根本的な仕方で、大学の自己点検を行う作業である。〔中略〕それぞれの大学が、自分たちの歩みを記すことを通じて、大学としてのアイデンティティを確かめ、それを社会に問い、広げてゆく重要な事業となってきたのである」(「はしがき」)。
 今年2月には、教育学研究科が中心となって「東北大学の『学問風土』シンポジウム」も開催された。法人化の「衝撃」の下、改めて大学の歴史的な経験(伝統・革新のあゆみ)を振り返り、そのあゆみの中でかたち作られてきた大学の存在意義を捉え直す作業がさまざまに展開されてきている。学生ももっと敏感に反応しなければ。そう静寂のキャンパスの中で反省した一日でした。

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発表終えて…

 一週間ぶりのご無沙汰でした。
もうすぐ6月ということで、衣替え。デザイン・テンプレートを新しくしてみました(「若葉」)。

               ◇

 さて、研究発表は終わりましたが、いわゆる「玉砕」ですね。
やはり付け焼き刃では、太刀打ち出来ませんでした。

〈今回の反省〉
(1)史料分析が少なすぎるということ。
 史料が命の教育史研究。もっと「生の史料」を足を使って探してこなければいけません。
やはり発表を聴いてくださる方々が「勉強になった。得した」という中身でなければ。
むしろ、こちらが勉強になってしまいました。史料の所在について本当に貴重なアドバイスを頂きました。そして、その史料を閲覧することが極めて困難であるということも―『学校沿革誌』を閲覧することは難しいようです。宮城県の場合、教育委員会を通す必要があり、それでも無理なことがあるとのこと。本当は残さなければいけないのだけど、残ってないこともあるでしょうし。とりあえず、残ってそうなところを教えていただきました。―
 6月、一つ論文を書く予定ですが、これに生かしたいと思います。まず史料閲覧のための戦術づくりからはじめなければ。

(2発表方法の工夫(レジュメの中身の工夫、聴き手の関心がどこにあるかの想定)
 いつものように、字が並んだレジュメ。しかし、今回の発表は学会発表とは異なり、発表時間は固定されていませんでした。1時間とっても大丈夫でした。実際、その後の質疑応答に1時間程度かけましたから。話題提供としてでもいいわけだから、もっと史料をつけておけば、その分、討論の内容も、アドバイスの質も濃くなったと思います。

               ◇

 帰宅して夜8時に寝たら、朝8時に起きました。全然寝てなかったから相当疲れがたまっていたようです。
午前中は部屋の掃除をして、午後は居合道同好会の稽古へ。その後、会員の皆様とおっきなパフェを食べに街へ。しばしの休息になりました。
 また明日から研究出直しです。

この間、宮城県図書館みやぎ資料室、宮城県公文書館の方にお世話になりました。とはいえ、これからはさらにお世話になることはまちがいなし。今後ともよろしくお願いします。

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教育史的テレビ番組

 日曜日(9日)夜、NHKで沢柳政太郎にスポットを当てた番組「NHKスペシャル シリーズ明治 第一集 ゆとりか、学力か」をみました。「学力低下」「ゆとり教育見直し」といった現代の問題に、教育史的視点から問いかけた番組です。当時の教育を伝える貴重な資料の紹介やそれにもとづく授業や試験の再現、沢柳の肉声など盛り沢山でした。教育史をテーマにした番組をみる機会は、そう多くありません。今回の番組は、学術的にもおもしろい論点を含む、興味深いものでした。

 少し前の記事でも紹介しましたが、沢柳は文部官僚から民間教育家(大正期新教育運動の担い手)になるという経歴の持ち主です。 この文部官僚としての沢柳と新教育運動の担い手としての沢柳とをトータルにつかまえる鍵概念は何か。これは、教育史研究上の一つの大きな問題です。明治-大正の教育をめぐっては、〈形式的・画一的な明治教育の否定→「個性尊重」「児童中心主義」をスローガンとする大正新教育〉という認識枠組みが支配的です。この枠組みにしたがい、新教育運動の批判対象として、明治期の教育行政を否定的に捉えるとき、その双方において中心的存在であった沢柳の立場は、一見矛盾するものにみえてしまいます。

 番組では、この問題に対して、一つのヒントを提示しています。それが、番組のタイトルである「ゆとりか、学力か」。これは、教育内容からの視点といえると思います。

 沢柳は1900年第三次小学校令制定の際、普通学務局長として教育内容の合理化に大きな役割を果たします。しかし、その結果、「学力低下」の批判を受けることになってしまいます。政策の当事者沢柳はこの「学力低下」批判をどう受け止めていたのでしょうか。皮肉にも、彼の教育改造は、彼自身の願いでもあった就学率向上の実現により、さらなる受験競争激化の問題に直面することになります。なお、この時期の「学力低下」は、授業時間の削減によって引きおこされたとみるより、授業料不徴収による就学率の向上に伴って、児童生徒間の学力格差が拡大した結果とみるほうが実態に即しています(「個性」という概念は、この学力格差による一斉教授の弊害という問題状況を背景として登場する)。 

 彼は、主に試験目的から百科全書的にただ多くの文字やコトバを伝達、暗誦するという教授-学習過程への批判として、教育内容の改良を図りました。それは、子どもの発達段階・学習理解の実態を考慮に入れたものであり、教育の中身(カリキュラム)に積極的に切り込んだものでした(例えば、代表的なものとして、国語科の設置。他にも、尋常小学校の算術では、10以下の加減乗除→10,000以下の加減乗除と進んでいたのを、中間に100以下の加減乗除を教えるという段階を作った。地理・歴史では、郷土の地理・歴史から入る従来の方式を変え、全国の地理・歴史で日本全体の概観を作らせてから部分へ進む方式を取り入れた、など)。

 肝心の中身の問題ですから、当然民間から批判が起こるだろうと予想していたら、これが非常に少ない。「量的に減った」「点数が下がった」という表面的な批判しか出てこない。子どもの発達段階や認識能力の視点からの批判がない。このような指摘は、教育関係者への痛烈な批判を意味します。

 彼が文部官僚の職を辞して後、民間に飛び込み、実験学校成城小学校を創設したのは、「(カリキュラムについて)だれも検証しないなら、オレがする」という、教育内容への積極的姿勢と教育学者としての自信のあらわれからではないか。今回の番組は、彼の活動の軌跡を捉える、そのような新しい視点を示唆していました。

〈参考〉
・沢柳政太郎「改正小学校令ニ対スル批評ヲ論ズ」(『澤柳政太郎全集』第三巻、国土社、1978年所収)。
・成城学園教育研究所ホームページ:
http://www.seijogakuen.ed.jp/kyoikuken/index.html

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教育会研究

3日土曜日は、「地方教育会の総合的研究」会(5回目)にはじめて参加。
メンバーは、リーダーのかじやま先生をはじめ、旧教育行政専攻の大先輩&日本教育史研究の牽引役をつとめている人たちばかり。参加するってだけで緊張します。盟友すだっちにも、久々に研究の場で会いました。

それにしても、研究レベルが高い高い。そこまで緻密にやりますかって感じです。
地方の行政文書はもちろん、なかなか見ることができない学校、個人所蔵の文書を駆使し、その断片をつないで教育史像を構築していく、その困難な「足で書く」作業を淡々としている凄さ。そして、「教育」という枠を越え、政治や一般行政との関わりを通して、地域固有の歴史的状況をダイナミックに描く、さらに、その個別の事例を通して一般(通説)を捉え直していく、そのスゴ技を見せつけられました。感嘆の溜息をもらさずにはいられません。「この一枚の表つくるのに、20年かかってます」なんて言われたら、「ははーっ」というしかありません。

これで科研費が取れたら、全国レベルで研究を展開するようで、各地区の錚々たる顔ぶれがメンバーとして名をつらねる予定です。「いい勉強になるなあ」と思っていたところ、「もし、科研費が取れなかった場合、次回5月の研究会はあなたが発表してください」と。
(ー◇ー;)エッ!……ナンテコッタ、あぁ。展望もないぞ。どうすんのよ、オレ。
そんなわけで、5月は更新が滞ることまちがいなしです。4月だって論文書かなきゃならないってのに。

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一人院生室にて、沢柳漬け

 現在、午前5時50分。空はすっかり明るくなってしまいました。

私は、まだ院生室にて、依頼された原稿を書いています(not 論文)。
院生室には私一人、というかこの11階建ての建物の中に私一人という状況です。
先日卒業した院生たちが使っていた、現在空っぽの本棚が、寂寥感を助長します。
聞こえるのは、「はぁ…」という自分のため息と、「ブーン…」というパソコンのファンの音だけ。
泣けるね。もう帰ろう。朝日を全身に浴びながら。

頼まれている原稿というのは、沢柳政太郎に関するものです。
彼は近代日本を代表する教育者の一人であり、文部省普通学務局長、文部次官、東北大学総長、京都大学総長などを歴任、官職を辞して後は、私立成城小学校を創設し、大正新教育の中心的存在として初等教育の実践に取り組むという、異色の経歴の持ち主です。 『澤柳政太郎全集』が刊行され、多くの大学図書館に所蔵されています。

東北大学の学生なら、初代総長として彼の名を一度は耳にすると思います。そうです、東北大学の初代総長は教育学者なんです(制度的には文部行政官なんだけど)。「研究第一」「門戸開放」「実学尊重」といった学問風土の形成に、彼はまちがいなく影響を与えています。

そんな彼が著した『実際的教育学』(1909年)は痛快です。それまでの教育学を根本から批判しているからです。
「教育はこうあるべき」という当為論、「これが望ましい教育」という理想論から教育論を展開する傾向は現在もさかんですが、当時もそうで、そういったいわゆる講壇教育学を、彼は痛烈に批判します。

「これが正しい教育だ」という思想(神話と言い換えることもできる)を振りかざす前に、その思想を科学的吟味にかけ、実証的な裏づけのもとに理論化し、具体化していく。現実の教育経験(子どもの発達段階、学習到達度、認知構造など。端的に言えば、子どもの実態)に立脚した、実験研究の必要性を説いているわけです。

 「学力重視」・「ゆとり教育」といった、それ自体曖昧な観念の応酬に揺れる昨今の現状をみるにつけ、沢柳の遺した教育遺産を振り返る必要性を強く感じます。

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なぜ節目なのか

 この時期、各学校は卒業シーズンです。ですが、なぜこの時期が(少なくとも制度上の)節目になるのでしょうか。なぜ4月が学校の、学年の始期になっているのでしょうか(アメリカなどは9月ですよね)。

 管見の限りで、この疑問に答えてくれるのは、佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』(小学館、1987年。現在絶版)。教育制度・政策史関連で多大な功績を残している(例えば、みすず書房『続現代史資料 教育』全三巻)佐藤さんが、学校慣行史・文化史について一般向けに書いた本で、とても面白く読めます(仙台市図書館には一冊あるようです)。

 佐藤さんは、「日本でも近代化のスタートを切った明治前半期では、大学をはじめ小学校まで9月始期制が多かったのであり、帝国大学や旧制高校ではなんと1920(大正9)年まで9月新学年制だった」(32ページ)といいます。夏目漱石の『こころ』(初版、1914年10月、岩波書店刊)には、そのことを裏づけるような部分が登場しますね。例えば、「その年の六月に卒業する筈の私(大学生-引用者注)は、是非共この論文を成規通り四月一杯に書き上げてしまわなければならなかった」(『こころ』新潮文庫、64ページ)。

 学年始期を4月にした最初は、1886(明治19)年の東京高等師範学校でした。1888年には府県立尋常師範学校が文部省の指示により、これに続きます。佐藤さんによれば、その理由には三点があげられていました。

①陸軍との人材獲得競争のため
②公費支出の便宜さ
③学年末試験がむし暑い中下旬に行われるので、学生の健康上よろしくないというもの

 ①について。1886年12月に「徴兵令」が改正され、装丁の届出期日が従来の9月1日基点から4月1日基点に改められた。当時の高師や師範には20歳以上の新入生が多かったから、学校が9月始期のままだと、壮健で学力のある人材が先に陸軍にとられる。そこで、学年始期を4月1日にくり下げた。「陸軍の都合に学校が引きずられてしまったのである」(32ページ)。

 ②について。国や県の会計年度は1886(明治19)年から、以前の7月~翌年6月を、4月~翌年3月に改正された。徴兵事務はこの新会計年度に合わせたものであり、学校もそれにならった。「つまり、お役人の都合だった」(33ページ)。

 ③について。4月始期では、寒さきびしい2月・3月に試験が行われるから、五十歩百歩のちがいで、付け足しの理由にすぎない。

要するに、現在実施されている「4月はじまり」に教育的意義はない、というのが佐藤さんの本旨です。それどころか、「4月はじまり」のために、例えば、「夏休み」のような休暇期間と「学期」との調整をどうするか、そのバランスの悪さをどう改善するかという問題が登場することなります。例えば、休み期間の登校日や宿題(「夏休みの友」なんてありましたよね)などは、ようやく慣れてきた学校生活途中の空白を埋めるためのもの(休み期間中が休みでなくなるという矛盾)。夏休み自体は、欧米の外国人教師を通じて導入されたもので、米作りを核とした日本の伝統社会にはなかったといいます(34ページ)。

 「桜の花とともに」新しい門出を祝う(実際には気象条件によって地域差を伴う)。なんとも美しい情景です。ですが、それはあと付けの理由、というより制度上の規定にのせて、人々が描いた色々な思い出の結晶といえばよいでしょうか。少々、センチになりました(もし、9月始期制だったら、花見もそこそこに溜息まじりの卒業研究、ということになるか)。
 学校慣行によって私たちの精神・身体は知らず知らずのうちにつくり上げられている。少なくとも、そういう部分がある。佐藤秀夫さんの本(=教育史研究)は、私たちのもつステレオ・タイプを相対化してくれます。それこそ、私が先に「面白い」と述べた、もっとも大きな理由です。

〈追記〉佐藤秀夫『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社、2005年、103-116ページにより詳しい説明があります(2005年4月20日、記す)。

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『山びこ学校』は語りかける

 一昨日(2005年3月7日)、山びこ学校のルーツを探る幻の回覧文集『山峡』が見つかったという記事を読みました。
自分にその資料的価値を見定めるだけの力量はありません。ですが、ぜひ多くの人が読める形でデータベース化してもらいたいものです。

 『山びこ学校』は山形県山元村の中学校において無着成恭氏が行った教育実践の成果であり、子どもたちが書いた綴方(=作文)が豊富に掲載された文集です。初版は1951年、サンフランシスコ講和条約締結の年に出版されました。現在、岩波文庫の一冊として出版されており、簡単に手に入れることができます。

 『山びこ学校』は出版後まもなく、教育界のみならず一般読者層の間でも大きな反響をよび、ベストセラーになりました。東北の一地方(それも決して裕福とはいえなかった地域)の学校から発信されたこの『山びこ学校』が、当時社会に大いに歓迎された理由はなんだったのでしょうか。
 すでに周知のことかもしれませんが、自分なりに整理してみたいと思います。
戦前-戦後の生活綴方運動の中心的存在であった国分一太郎は、次のように述べています。

「戦前にあれほど盛んだった生活綴方のしごとも、敗戦後のわが国教育界では、いたってふるわなかった。その原因として(中略)もっとも大きなひとつをあげれば、戦後口やかましくいわれた、いわゆる新教育への幻想にあったということができる。今この解説を書いているわたしをふくめて、たいていのものは、日本の戦後教育の方向の新しい確認と、アメリカで行われている進歩的教育運動(いわゆる新教育の方法の重視)の移入とを、ゴチャマゼにして考えていたのである。」
〈註〉国分一太郎「解説」無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、332-333ページ。
戦後初期の日本では、社会科を中心にアメリカから新教育が導入され、新しい価値観のための教育が展開されました。しかしながら、それら流行のカリキュラムづくりや教育方法は、必ずしも当時日本の現実に根ざしたものとはいえず、ともすると、「形式主義のごっこ遊び」、「はいまわる経験主義」に陥る可能性がありました。そのような教師たちの実践上のとまどいに応えるように登場したのが、『山びこ学校』であったといえます。

 『山びこ学校』は単なる作文集とは異なり、先生と生徒が直面する具体的な暮らしの問題を取り上げ、ともに考え、解決しようという生活探求の姿勢が披瀝されたものです。この綴方による実践は、当時の苦しい農村の現実と社会科教科書の記述との乖離を自覚し、現実を変える実際の行動まで進むに至りました。認識-行為の接続に成功した、すぐれた実践例です。戦前の修身のように、「忍耐」や「勤勉」の徳目を伝達する心理主義的な授業とは異なり、「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳」無着成恭「あとがき」)へと進んでいるのです。
 
 東北の風土が、このように〈生活に密着した〉すぐれた実践を生んだということは非常に興味深いことです。『山びこ学校』に限らず、戦前の「北方教育運動」など、今日的にきわめて評価の高い教育実践が東北では展開され、日本の教育遺産として戦後の教師たちに感銘を与えてきた経緯があります。「総合的な学習の時間」、さらに「生活科」の見直しが叫ばれる中で、先の文集が見つかったことには、何か因縁めいたものを感じます。

 『山びこ学校』は、日本土着のすぐれた教育実践例として、今日の教育にも大きな示唆を与えるものです。さらに同書は、子どもの教育のみならず、大人たちの、おとなが書く生活綴方、「生活記録運動」(=敗戦後、大人たちが行った価値観の再構築運動の一つ)が広がってゆくきっかけをもつくりました。
 
 よくよく考えれば、現在わたしはブログという媒体を使って綴方をしているともいえるわけで、アメリカ生まれのブログを日本の生活現実に根づかせ、うまく活用していくヒントを『山びこ学校』は語りかけてくれる、そんな気すらしてしまいます。

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戦後初期の自由研究~総合学習の系譜?~

何とか週一での更新には間に合いましたφ(ー"ー ) ウ~ン...

さて、以下は、戦後まもなく―1946(昭和21)年~1951(昭和26)年―における、福島県のある小学校での通信簿です。「通信箋」という名が付けられています。

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通信簿考としても、とても面白いものが書けそう(とはいえ、自分にその器量はありません)。
その特徴として、例えば、次のようなものを挙げることができます。
①紙の質は、今日とは比較にならないほど悪い。
②昭和21年度においては、まだ小学校ではなく「国民学校」であり、教科目名も国民学校時のままである。「修身」「国史」「地理」の欄は空欄となっている。
③評価は1~5の五段階ではなく、(-2)~(+2)の五段階となっている。
④昭和23年度の「通信箋」から、自由研究という項目があるのが確認できる。
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自由研究というのは、どのようなものだったのでしょうか。この自由研究に評価が付けられているのは、昭和25年度(小学5年生時)だけ、それも○が付けられているだけです。この「通信箋」の所有者(親ですが)に聞いてみましたが、どんなことをしたかは覚えていませんでした。

これについて、M1のときに受けた元指導教官の講義資料(「現代日本の教育課程改革」)にその概要が論じられていたことを思いだし、それを引っ張り出して確認してみました
(「・・)ドレドレ..,
 書いてありました。資料によれば、この自由研究は『学習指導要領 一般編(試案) 昭和22年度』によって定められたものです。しかし、この指導要領が出された時期は、まだ教育基本法と学校教育法の制定前であり、指導要領は基準性・法的拘束性をもってはいません。

「試案」としての指導要領は、教師の研究の手引きとしての性格を意味していました。序論「なぜこの書はつくられたか」からは、権力による上からの画一主義が教師を国家のロボットにしてしまったことを反省し、教師自身が、実践の経験と意見とを反映する仕方で、かつ地域の教育要求も反映する仕方で学習指導要領を作成することが望ましいとの主張を看取できます(戦後まもなくの混乱期とはいえ、教師の自由裁量をこれほど大幅に認めている点は画期的です)。

昭和22年度指導要領では小学校の教科は、国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育・自由研究となっています。自由研究に割り当てられた時間は、4年生からの週約2-4時間、年間で70-140時間です。

自由研究はどういう位置づけなのか。学習指導要領の説明では、「児童の個性によっては、その活動が次の活動を生んで、一定の学習時間では、その活動の要求を満足させることができないような場合」が想定されています。例えば、以下のようなものです。
(1)教科の発展としての自由学習
(2)クラブ組織による活動
(3)当番や学級委員の仕事
昭和26年度学習指導要領で、自由研究は「教科以外の活動」へと変更されました。これについて、先生の資料では、(1)の側面は教科学習で対応できると判断し、「教科以外」の教育的意義を積極的に見出す方向へと向かったのだと、評価していました。

このような指導要領上の変更により、自由研究はたった4年の寿命しかもち得ませんでした。実態としても、先の通信簿を見る限りでは、積極的活動の跡は確認できません(もっとも指導要領が試案ですから、その設定に従う理由もないわけですが…)。
 教師の裁量が自由研究においてどう発揮されていたのか、自由研究設置について政策サイドではどのような議論が交わされたのか。自由研究の実態の解明は十分に進んでいるとはいえない状況です。とくに(1)の可能性が消えていく経緯については。自由研究が総合学習の系譜に位置づくのか否かは、自分で書いておきながら何とも言えないわけですが(その前に総合学習の定義を明確にできていないなあ)、とはいえ、これがすぐに消えてしまった経緯についての歴史的検討は、総合学習の観点からも有効ではないかと思います。

1958年には、朝鮮戦争以降の動向と「学力」低下への批判(戦後の新教育の潮流となっていた経験主義や単元主義に偏り過ぎる傾向を改め、各教科の系統性を重視する方向に改める)から、「試案」であった学習指導要領が法的拘束性をもつことになります。この1958年における教育課程行政上の転換点は不動のままに、今日の「教育改革」へと至ったと考えると、「総合的な学習の時間」は、教師の裁量を認めている点で、1958年以来の大きな変化であるといえるわけです。が、「学力」低下という批判にさらされ、変更への世論が刻々と高まっています。「歴史は繰り返す」ことになるのでしょうか。「総合的な学習の時間」の寿命は、4年ももたずに終わってしまうのでしょうか。

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女子教育へのまなざし

一週間ぶりです。ご無沙汰でした。
研究発表、おわりました。いやあ、しんどかった。昨日からほとんど寝ていません。
そんな状態で、この記事を書いてます(-.-)Zzz……(°_°) ハッ! ネテタ…

発表内容に自分で点数をつけるなら、50点といったところです。可もなく不可もなく。
ただ、改善すべき問題点が浮き彫りになったので、それは収穫でした。

文科相の発言についてなど、いろいろと書きたいことはあるのですが、
とりあえず今日は、研究の過程で出会った女子教育論について、少し紹介したいと思います。
とても印象的だったので。

以下は、安部磯雄『婦人の理想』(1910年刊)の一節です。その先進性に驚きます。

「我国に於ける男子の教育は殆んど其主義が一定して居るから、甚しき消長といふものははいけれども、婦人教育には斯る一定の方針がないために、其盛衰常ならずといふ有様である。何故に婦人教育が斯の如き不定の情態に在るかと言へば、婦人教育の程度は婦人自身の要求を標準とするのではなくて、男子の要求如何によつて定まるからである。…(中略)…吾人は第一章に陳べたる如く、先づ教育の理想といふことを標準として婦人教育の程度を定めねばならぬと思ふ。全体教育に制限のあるべき筈はない。何人と雖も其健康と財政を許す限りは教育を受けねばならぬのだ。教育の眼より見れば、此点に於て男女老若の別はないのである。」(183-184ページ)

 〈教育の理想は、男子の要求に基づくのではなく、教育それ自身の中から導き出されなければならない〉。そう受け取れます。「男子」の部分を「国家」に入れ換えても、まったく意味が通ります。

もう一つ。男女共学の問題について。
1932年、岩波書店から『男女共学の問題シンポジウム』が発刊されます。
ここで、小泉郁子は次のように男女共学の必要性を展開しています。

「我々は男女の絶対的人格的平等観の上に立つてゐる。而して教育上における男女の機会均等を主張するものである。(中略)男女共学とは被教育者たる男女を同一学舎に収容しその個性及び学科の性質に鑑みて男女の分合を按配し以て被教育者の必要及び社会の要求に最も適切なる教養を施すの制」である。

これにも驚きます。今の状況にあてはめてもまったく色あせていません。男女の「機械的」平等とは同一義でない「教育上におけるデモクラシーの本義」にもとづく機会均等論を、女性の人間教育の原理として示しています。これは、〈単に法的・制度的(=形式的)に男女共学が認められたからといって、それで実質的に男女平等教育が整備されたとみることはできない〉という意味に受け取れます。
今日「ジェンダー」という概念を用いて論じられている事柄をすでに先取りしているではないかと、驚きました。

とうことで今日はもう寝ますです。また次回です。おやすみなさい。


おっと、そうそう。発表の後、懇親会でフランス料理を食べに行きました。
市民会館の斜め向かいの、雰囲気のいい店です。
クラスターリーダーの先生のおごりでp(^0^)q
この歳にしてはじめて、フォアグラというものを食べました。
至福(^~^)モグモグ
ワインも赤、白どちらも飲んでしまった。とても口当たりがよかった
( ^。^)/▽☆▽\(^。^ )
会話もはずみますよ、そりゃヾ(>▽<)ゞヾ(▽^  )ゞヾ( >▽)ゞ
いやホントに、今までで一番おいしいものを食べたって感じです。
値段はそんなに高くなく、お手頃ということでした。
こんな自分は、貧乏くさいってことでしょうか。

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